遠野南部氏歴代当主伝
(22)初 代・直義 なおよし 根城八戸南部氏分家、新田氏・新田政広の長子
八戸直政と寧々(清心尼)の娘、千代の婿となり八戸家へ養子として入り第22代を継承。宗家より遠野移封を受ける。八戸弥六郎
名君の誉れ高く、数々の逸話が残されているが、史実では藩主南部利直から重用され、盛岡遠野屋敷に住まいし、南部藩の重責の任にあったといわれている。南部利直公が死した後も後継の南部重直公に慕われ名実共に南部藩政務の中心首座として50年もの長き渡り、その間数々の事件等もよく治め、南部藩安泰に導いたと伝えられています。
延宝3年正月22日、74歳で逝去
ご遺体は遠野へ運ばれ火葬となったのですが、飼われていた七羽の鷹を放鳥したところ、二羽が火葬の火に飛び込んで死んだといわれ、主人を慕っての殉死と感嘆しない者はなかったと伝えられている。
(23)二 代・義長 よしなが 寛永18年7月、盛岡遠野屋敷にて生まれる、母は清心尼二女千代
幼名・佐渡三五郎・・・・承応3年、数え14歳で南部藩保証人として江戸南部屋敷詰。(保証人とは幕府と藩との交渉連絡係・・元服前は人質の意味合いがある)
江戸詰の頃、老中秋月淡路守にその実直と優秀さに惚れ込まれ、娘との縁談話があったと伝えられ、時の老中と南部藩陪家との婚姻がつり合いがとれないので断ったとされ、老中は大変残念がったと伝えられている。
松崎宮代の八幡神社を現在の八幡山に移し、櫛引八幡分霊と合祠して建立、また家臣をよく可愛がり家臣達も、この殿様なら・・と忠義を尽くしたとされ、父直義にも勝るとも劣らない名君として今に伝えられている。
元禄元年、6月、48歳にて逝去・・・室は北古九兵衛の娘
(24)三 代・義倫 よしとき 天和2年10月、盛岡新庄北家の下屋敷、母は北氏娘、連子
先代で父、義長が亡くなり僅か七歳で家督相続、在位10年、17歳で亡くなり可哀想な殿様として語り継がれている。
家臣達を叱ったり荒声を立てたことは一度もなく、美少年だったということで理想的な少年当主ではあったが、外戚である南部藩重臣北氏の遠野南部家に対して干渉される場面が度々あったとされる。
17歳で南部宗家姫君との婚儀目前、元禄12年正月に痘瘡にかかり5月20日逝去。
(25)四 代・利戡 としかつ 先代が未婚で死去したため、後継がなく、さらに分家の新田氏も後継ぎがなく、お家断絶の危機となったが南部藩当局の意向で南部宗家一門山田大学が後継となった。
大学は宗家第27代南部利直の子、山田1千石、山田利仲の子。
利戡が養子として家督相続したのは、元禄12年、19歳とのことで先代義倫と婚約していた慶子(藩主南部重信の末姫)と結婚、夫妻は南部本家の血筋ということで、何かと本家より要請事があり引き受けなければならないことがけっこうあったといわれていますが、利戡は言うべきことは言う実直な当主であったといわれている。
初の遠野お国入りを果たし早池峰妙泉寺参拝した夜、体調を崩しそのまま重篤となり盛岡に移され治療の甲斐なく正徳2年6月21日逝去、30歳の青年であった。
(26)五 代・信有  先代利戡と慶子に子がなかったので、またまた後継問題で家中騒然としたと伝えられているが、本来遠野南部氏の血筋は利戡で途絶えているので、誰が継承するかが争点となった。
慶子夫人の発言が左右され、藩主南部利幹から指名されたのは前藩主南部重信の末子、織部の子、信有であった。
信有は慶子未亡人の弟の子ということで甥にあたります。
信有は正徳2年暮れ11歳で遠野南部家を継ぎ、少年期は慶子が清心尼同様家中の実質的な実力者として支配していたといわれている。
信有の遠野治世は23年間ということですが、目立った功績はないといわれるが、盛岡本家からは一門の出ということで何かと藩主の風下に置かれ家格も軽視されがちでしたが、遠野南部家の家格待遇についての不満を露にしその後本家でも遠野南部家に対し丁重に扱ったとされています。
享保20年6月4日、盛岡にて34歳で逝去
(27)六 代・信彦 のぶよし 先代信有、長男・享保20年若干16歳で家督相続
在位10年にして隠居、以来28年間遠野に在住、室は南部一門七戸外記の娘、しかし結婚僅か三年で亡くなり、後妻に藩士野田氏の妹を娶る
若くしての隠居については、天性多病と記されているが実は盛岡屋敷火災による責任とみられ、以後遠野に在って家臣や領民の良き相談相手となり遠野治世に多大な貢献をしたと伝えられている。
また、武士・町人・百姓と身分を問わず広く学問なども教えたとあり、「遠野古事記・阿曽沼興廃記・三翁昔話」の著作はこの信彦が遠野に在ったときに書かれたもので何かしらこれらの編さんに影響があったと推測される。
安永3年7月1日、盛岡下屋敷にて逝去・53歳・・・その死は家臣・領民にたいへん惜しまれたと伝えられている。
(28)七 代・義顔 よしつら 先代の隠居をうけて家督相続
遠野南部氏分家の附馬牛2千石、附馬牛八戸家より養子相続
室は信彦妹  
義顔は附馬牛八戸家の出ではあるが、実は八戸家は北氏の血縁が入り家督相続は家臣達から歓迎されず、義顔は心遣いが多かったといわれ、「家中御布達」なるものを出し、その内容がなかなか家中を納得させる立派なものだったらしく、その英明さに一同感心したといわれている。
義顔もまた、名君の誉れが高く文武両道で、和歌に関しては京都の公卿冷泉大納言とも親交があり、また南部一門の姫、男子の歌友と秀寿纂集六巻を編集した。さらに江戸参勤が多く、幕府役人との交友、他家にも遠野弥六郎の名が知られ、陪臣ながら江戸市中を乗り物で通ることを許されるほど高名だったとされています。
江戸にて病となり、天明5年正月11日逝去、江戸勝林寺金地院に葬られた。
(29)八 代・怡顔 ときつら 先代義顔の実子であるが、正妻富子の子ではなく、側室の子で、兄の義興は27歳、義興の後継とされていた信彦の子、信精もまた早世したので家督相続。室は江刺恒通の姉
37歳で相続するも、既に実子があり、しかし遠野南部氏の血筋を重んずる家臣達の複雑混迷した様子が伺え、次期当主には信彦の五男、27歳の義応を指名したほどだった。
在位中は蝦夷地反乱により幕府より南部藩にも派兵の命が下り藩より遠野南部家先鋒の任となるも準備段階にて鎮圧となり派兵中止。
父義顔ほど英明で学識はなかったとされますが、真面目で職務に精励していたいわれ藩主の南部利敬から信用され藩の政務を一手に委ねられていたといわれている。
後継に指名されていた義応が寛政7年8月落馬して、その原因で死去、遠野家中騒然となったといわれ、後にその後継は義応の嫡男義尭に継がせ、文化14年10月、風邪がもとで逝去、67歳
(30)九 代・義尭 よしたか 第27代信彦の五男・義応の長子、盛岡内丸楢山氏屋敷にて生まれる
母は旗本家老楢山帯刀の妹。
義尭時代は「文政の良い年」といわれるように遠野治世は多少の不作でも海運の発達により米の出入りがあり、義尭の善政のたまものともいわれていた。
幼年より病弱と伝えられ、よくここまで成長したものと感心していたが後継がなくては一大事ということで側室を勧め、子供だけは男四人・女五人をもうけている。
しかし、病弱だったのは本当のようで文政13年5月3日急死、36歳
(31)十 代・義茂 天保元年16歳にて元服、家督相続としているが実は出生年月日不詳で家督相続時は10歳だったらしく届出は16歳としたものとの見解である。さらに24歳で南部一門の南紀伊の娘を室として迎えたとあるが実際は18歳、結婚を期に遠野お国入りとなったが結婚披露宴や上級家臣との謁見、領内巡察と多忙を極め、遂に疲労で倒れ遠野にて逝去、しかし発表は盛岡に帰還後死亡と届けられている。享年24歳しかし実際は18歳であった。
(32)十一代・義普 よしひろ 義普から改名し済賢(ただかた)  兄義茂急死により家督相続、16歳とみられる。
済賢時代は、大凶作の年が頻繁にあり、遠野ばかりではなく藩全体にも厳しい時代だった。しかし弥六郎済賢はその剛毅な性格はその難局な時代を凌ぎ、また不祥事も起こらなかったので政治的には名君といわれている。
天保14年藩主南部利済にかわって南部領内を巡視し、遠野南部家名目だけの田名部へ行ったときは領民から領主様と大歓迎を受けたといいます。
弘化元年、野田一揆と称される大一揆が遠野へ押し寄せるも済賢の政治力、新田小十郎の対応で鎮静せしめ、以後義普から藩主利済から一字をいただき済賢と改名したと伝えられる。
嘉永6年、再度野田一揆勃発、仙台に出張しその対応に奔走し、さらに江戸に上りこの事件の事後処理にあたったといわれている。
以後、幕末の動乱、そして明治維新を迎える。自身は秋田戦争の責にて隠居。
豪放で小事を気にしない性格ではあったが、細かな配慮等も心得た殿様として語り継がれている。
明治12年6月23日、遠野町本町の屋敷にて脳溢血で倒れそのまま帰らぬ人となった、享年62歳
(33)十二代・義敦 よしあつ 最後の殿様・明治2年15歳で33代継承、しかし、戊辰戦争にて盛岡藩は崩壊しており名目だけの殿様である。
母は楢山佐渡(戊辰戦争での責を負って自刃)の姉。
明治2年、家督相続後、上京、明治4年遠野へ帰郷し結婚、相手は南部出羽(藩主・南部利剛の弟)の姫
明治5年再度上京となり福沢諭吉の慶応義塾にて勉学に励むも、にわかに発病し、同年11月29日、逝去・20歳
遠野南部氏は代々、弥六郎を名乗り襲名している。
八戸(遠野)弥六郎で公式文書など、この名で通っている。
( )は八戸時代からの通算
21代 清心尼 根城八戸南部第19代・八戸直栄娘、20代直政夫人・・母は南部信直の娘
夫直政死去により家督相続し全国に珍しい女大名、女主人となる。娘千代に分家新田氏から直義を婿養子に迎え22代を相続させ、自らは髪を下して清心尼と名乗る。
叔父、南部利直からの八戸家に対する重圧に耐え、遠野への国替えとなる。
盛岡にて藩主利直側に仕える直義に代わって遠野治世に携わり、遠野繁栄の基を築いた。

清心尼墓・・・遠野市松崎町
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