藤原 基衡
奥州炎伝
奥州藤原氏 二代
奥羽支配の確立と外交
毛越寺
 大治3年(1128)7月、初代藤原清衛は波乱に富んだ生涯を閉じ、在地勢力による安定した時代が初代清衛によって築かれ、その意思は二代基衛に引き継がれることになるが、奥州藤原氏二代、藤原基衛に関しては歴代の中でも史料も少なく、語られるその人となりも謎に包まれ、そう多くは伝承されていない。
 しかし、父清衡から平泉を引き継ぎ、さらなる安定した奥州を実現させたのは紛れもない二代基衛にほかならないのである。
 奥羽領国支配
 基衡が父清から継承した権限は、陸奥国奥六郡及び出羽山北三郡の郡司職含む北奥羽の支配権、南奥に対する軍事警察権たる陸奥国押領使職、さらに奥羽の摂関家荘園の管理権とされている。
 基が新たに獲得したものは、出羽国押領使職で、南出羽に対する軍事警察権を有するもので、中央から奥羽全域の支配と共に軍事に関しても承認された意義を有するものである。
 
 平泉を継承した当初は、国司たる陸奥守と対立、武力衝突した記録もあり、あわや前九年の役の再来かと思われる事件も発生したが、強硬姿勢の院権力との軋轢は、先代から培われた安定した奥羽が荒廃する原因でもあり、これら権力との妥協を余儀なくされ、対決という構図から友好という形に変化、基衛と争った陸奥守藤原師綱の後任、藤原基成との関係構築に見てとれる内容でもある。
 まずは基成の娘を子の秀衛(三代)に迎えることに成功。院近臣国守すなわち鳥羽院ラインと従来からの摂関家の二元的関係を成立させ、平泉の外交ラインの構築が形成されたものでもある。
 二代基時代は特に金の産出量が飛躍的に増えた時代で、中央との折衝の場合でもこの黄金は多く利用され、さらに経済的にも絶頂の時代とされ、奥羽領国支配を確固たるものとした時世でもあったと思われる。

毛越寺建造

 
 堂塔は40余宇、房舎5百余宇、中尊寺をはるかに上回る大伽藍は、豪華絢爛、壮大さにおいては比類なきものだったと伝えられている。
 この毛越寺創建に関る有名な話に黄金造りの本尊制作が当代きっての仏師、運慶に依頼したことである。費用の内訳、手付金百両、引出物鷲の羽百尻、あざらしの皮60枚余、安達産の絹千疋、細布2千端、白布3千端、信夫産毛地摺千端、駿馬百疋。さらに金堂円隆寺に掲げる額を御室仁和寺に依頼し当代随一の能書家関白藤原忠通が書いたとされ、この際も莫大な貢物、黄金が贈られたと想像できる。運慶作の黄金の薬師仏は鳥羽上皇の目にとまり、あまりの見事さに奥州へ送ることを禁止したともいわれ、この際も多大な賄賂的な黄金が動き、なんとか基衛は薬師仏を手にいれたものと伝えられている。

 基もまた父清衛が描いた仏教文化を引き継ぎ、中央との外交戦をその財力で安定へと導き、三代秀時代が平泉時代での最盛期という見解でもありますが、むしろ二代基時代に既にその最盛期、絶頂に達していたのではないのか、中央では保元、平治の乱が勃発、武士社会が台頭する混乱期の空白期に華開いた特筆すべき現象がこの平泉の隆盛なのかもしれません。
藤原基衛の前半生
 藤原基は生年没年不詳、その実母の出目さえはっきりとしていない。一説には父清が50代に生まれた子ともいわれ、清の妻、北の方(平氏)には、六男二女があったとされ、二代を継承する基衛は、系図では安倍氏の女、すなわち在地との関りがあった女性との間に生まれた子だったという見方でもある。いずれにしても清衛には平氏出の妻、外に安倍氏或いは清原氏といった在地勢力縁の妻が二人、合わせて最低でも3名の妻が居たのではないかという見解でもある。
 基は、次子御曹司(長秋記)と伝えられ、早くから清の後継と目されていたものと推測される。当時はまだ長子相続の慣習は少なく、二男である基を一応にその後継と考えていたものと推測もできる。清の字を与えることからも想像もできますが、安倍氏といった血筋を重んずる清衛にとっては、在地の血が濃い基に奥羽の将来を託そうと考えても不思議はないものと思われます。
 しかし基には惟常という兄の存在が確認でき、惟常との年齢差は10〜20歳、父清が病没した後、長兄惟常と弟基との相続争いが勃発する。この時、基衛は20代前半といわれ、惟常は40歳前後の壮年であったろうと思われますが、基は先んじて惟常を攻撃、惟常は妻子共々出羽に逃れるも、基は追撃の手を緩めず、遂に惟常を殺害に及んだとされる。外にも兄弟たちの存在が確認されるが、そのほとんどは歴史上に抹殺され、おそらく基によって滅ぼされた運命だったと思われます。
 内外には清の後継と目されていながら、兄惟常を含む兄弟達を抹殺、おそらく清衛はその後継に基衛を考えていながら、はっきりと示していなかったものと思われ、父清がその意思をはっきりと打ち出す前に病没、惟常にしても若造の基にすんなり奥羽の支配者をわたすまいとする考えがあってもおかしくはなく、この機に後継者の座を手元に引き寄せたかったのではないのか、しかし、機先を制した基に軍配はあがり、その夢は潰えた、これが真相かもしれません。



基衡の母

 
 藤原基の母として、一部系図などでは安倍宗任の女としている。確かに清の叔父とされる安倍宗任、清衛との歳の差は、おそらく20歳以上あっただろうし、宗任の娘が清の妻と成りえる年齢であっても不思議ではない。
 ただ、基は清晩年の子といわれ、清が50歳頃の子との見解もあり、この根拠は基が家督を継いだのが23歳位であったという見解もあり、この際病没した父清は73歳、計算上50歳の時の子であるとしていること。しかし、こうなると母親はある程度若くなければならない、安倍宗任は清衛7歳の頃に前九年合戦敗軍の将として源氏軍に投降している、その後、時期を置かずに西国へ移されているので、後三年合戦当時、娘が居たとしても清とは同年代であったろうと推測できる。仮に配流先にて後年、子が生まれたとしても不思議はないが、奥州に宗任の子が下った、或いはその子供が清を訪ねて奥州に来たという考えもできますが、まずは常識的には考えられないことでもありますが、宗任の女、すなわち安倍氏縁の出目であったろうと思われます。



相続直後の危機

 藤原基が父清の死後、兄弟たちとその後継をめぐっての争いに勝利し、名実共に奥羽の実力者としてその治世に入った頃、奥羽は清衛によりその基盤はほぼ磐石になっていたと想像される。特に清衛が目指した仏教文化、戦乱を経験した清が願う平和で安定した奥州がまさにできつつあった時代ではあったが、広大で実力も兼ね備えた領国を手にした時、23歳という若い支配者は得意満面であったろうと思われ、まさに怖いもの知らず的な感覚もあったのではないのか、と想像もできる。
 保延年間或いは康治年間(1135〜1142)、陸奥守として下向した藤原師綱との争いが起こったとされている。
 国司として陸奥へ赴任した師綱が感じた事は、藤原基衛により陸奥国内の摂関家荘園が単なるその管理人たる基衛の領地の如く成り果てていた状況を見、師綱は基衛の勢力拡大阻止、院の名誉威厳を保つため、白河法皇の宣旨を申し渡し、検地を断行して公田の再調査を実施しようとする。基衛にしてみれば従来の権益を守ろうと国司側への妨害工作を演じる。最終的には信夫郡内をめぐる入部問題で国司側と武力衝突が発生、信夫郡を治める大庄司季春は基衛の意を受けていたといわれ、藤原師綱配下の国府軍は大惨敗を喫する。前九年の役での安倍氏同様、また後三年の役での清原真衛、大きな権力、勢力を持つが故に、内に秘めるおごり的な発想が芽生え、真意にない争いを起してしまう、まさに奥羽での過去の戦乱へと発展する事柄でもあった。すなわち白河法皇の宣旨を無視し、国府軍と交戦に及ぶ行為、紛れもない反逆行為でもあり、賊徒して追討を受けても致し方ない状況でもあった。
 事との重大さを知った基衛は、当時者である大庄司季春の犠牲をもって事無きを得たが、国司藤原師綱との交渉、さらに京摂関家を通じての協力要請、特に摂関家との協力要請は父清時代からの外交努力が実を結んだ結果でもあり、武の力のみならず外交という形も重要視していったものと思われる。
 これにより従来の摂関家との接触、さらに鳥羽上皇近臣含む院勢力とも関係構築がなされ、特に摂関家とは一層の関係強化がされた事実を伺い知ることができる。


 初代清が目指した平泉仏教文化、二代基もその遺志を受け継ぎ、さらに花開いた時代でもあったと思われます。
 清が築いた礎をさらに二代基は強固な平泉として磐石なものとし、子である三代秀が引き継ぐ、二代基時代は前半こそ血なまぐさい、キナ臭い感じはあるものの歴代ではもっとも安定した平和な時代ではなかったのでしょうか。藤原基は没年不明ながら保元2年(1158)3月19日ともいわれ、50〜60代で亡くなったのではないかとの見解である。

注・「衛」の字は「」の誤りです