奥州藤原氏 初代
藤原 清衡
華開く黄金文化の礎
奥州炎伝
奥州平泉藤原氏の出目
奥州藤原氏のルーツについては平将門の乱鎮撫に大きく関った藤原秀郷(俵 藤太)の流れを汲むといわれている。
しかし、これを大きく疑う説も存在し、長らく論議の的であったとされているが、その説とは、「供養願文」において、初代、清衛自身が自ら東夷の遠酋、俘囚の上頭と述べていること、さらに他にもこれらに類似する史料の存在があり、中央の摂関家からも蝦夷といわれ俘囚とみなされていたものとの見方ができる内容でもある。
つまり、奥州藤原氏は蝦夷の系統ではなかったのか、そういった見解でもあるが、「陸奥話記」その他の史料では、藤原清衛の系譜は、父を藤原経清、母は安倍頼時の娘とし、父、経清は亘理権太夫、或いは亘権守とも呼ばれ、五位の位を有し、陸奥権守の前歴がありそのまま亘理地方に土着したものではないか、といわれている。多くの系図も藤原魚名(左大臣)の五男、藤成から分かれた系譜が藤原秀郷として、経清をその子孫としている点で一致する内容も散見され、奥州藤原氏、藤原秀郷流の系譜である根拠としている。
藤原清衡の父である経清に関し、興味深い史料の存在が指摘されている。「造興福寺記」という史料とされるが、永承元年(1046)興福寺は大火に見舞われ、伽藍のほとんどが焼失、ただちに京藤原氏により復興計画が示され、五位以上の藤原一族に知識物の奉加の呼びかけがあり関係者はその地位に応じた負担額が示され、合計366名に及ぶ五位以上の氏名が連記されているという。(永承2年2月21日条) さらにこのリストの後半部分は地方在住の者達といわれ、その中に、3名の陸奥在住者の名が記されているとされる。
「六奥・・・時貞、家政、経清」時貞は、権守藤原朝臣説貞・経清に関しては散位藤原朝臣経清(陸奥話記)ではないかと考察され、他にも秀郷の子孫が数名連記され、世代的にも矛盾もなく注目すべき史料とされています。
このことによっても藤原経清は、京藤原氏系で位階を授けた藤原秀郷流の系譜である可能性が極めて高いものである。
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奥州平泉藤原氏初代・藤原清衡
天喜4年(1056)〜大治3年(1128) |
多く語られる説にて藤原清衡について記述してまいります。
父は、陸奥国でも数人しかいない陸奥権守で有力在庁の藤原経清、母は奥六郡の俘囚長で郡司の立場ではなかったとされる現地勢力の雄、安倍頼良(頼時)の娘といわれている。
いわゆる当時の奥州時勢からすれば、父方も母方も奥州の実力者という位置づけであり、まさに清衡は申し分のない血脈と家柄に生まれたことになります。清衡誕生が天喜四年とするならば、前九年合戦が本格的となった頃で、まさに戦禍の中に誕生ということになり、安倍貞任をはじめ安倍一族の慈愛に育まれた幼少期を送ったにちがいない。しかしその安息も束の間、安倍氏は敗色濃厚となると本拠衣川も陥落、その他の拠点も落ち、安倍氏は北へ敗走、ついに厨川にての最終決戦で敗れ、安倍一族は壊滅、父経清も処刑され、母親は敵将清原武貞の後妻となった。
安倍氏征討に大きく貢献した清原武則(武貞の父)は異例の鎮守府将軍に抜擢され、本拠の出羽国のみならず安倍氏の遺領、奥六郡も得、安倍氏の残党や奥地の俘囚の懐柔策として安倍氏縁の女性との婚姻を考えたものか、清衡の母は幼い我子の助命嘆願を条件に清原一族に再嫁したものかは不明ではあるが清原一族として養育されていくことになる。この時、清衡7歳であった。
後三年合戦と清衡
清原武貞の養子となった清衡であったが、継父武貞には嫡子真衡がおり、やがて母と武貞の間には弟家衡が誕生、血縁のない兄、異父弟と複雑な関係ながら、清原氏のもと清衡は元服して清原清衡と命名され、若き清原一族の青年武将へと成長していく。
間もなく妻子にも恵まれ、江刺郡豊田館に居館を構え不本意であったかもしれないが奥羽の覇者、清原一族のひとりとして一生を終えたかもしれません、しかし舎兄、舎弟さらに時代は清衡を黙って見過ごすことはありませんでした。
既に奥羽の地に磐石な支配体制を築いたかにみえた清原氏でしたが、世代も3代目となる舎兄、清原真衡の時代となっておりました。
清原真衡は陸奥国の閉伊郡をはじめ奥地の荒夷や山徒等に対しての平定戦に戦功をあげ、延久3年(1071)に陸奥国司と共に上洛を果たし、朝廷から鎮守府将軍に補任されたことによりより一層奥羽の実力者として権勢をもち、その振る舞いは舎弟清衛、家衛はもとより一族さえも郎従の如き扱い、この行為が後の後三年の役の遠因となっていきます。
清原氏第三代、真衡の独断専横の治世は、清原一族内に亀裂を生じさせる内容へと発展、ついに一族の長老、吉彦秀武の反乱となると、秀武の誘いに乗った清衡、家衡兄弟は惣領たる真衡を攻撃する挙にでる。ひとつの賭けだったのか?、兄弟とはいえ重用されることもなくむしろ虐げられた立場への打開の好機到来とみたのか、それとも父、藤原経清含む安倍一族を殺された積年の恨みを晴らす時と蜂起したものかはわからないが、この時、清衡28歳、永保3年(1083)といわれている。
おそらく吉彦秀武の誘いにすばやく呼応し反応を示したところをみれば真衡に対する感情のわだかまり或いは恨みがあったものであろう。
同年、清衡に一大転機をもたらす人物が陸奥に下向して来る。この人物はかつて安倍一族、さらに安倍氏に加担した父藤原経清を滅ぼした張本人、当時陸奥守だった源頼義の嫡子、源義家である。
義家は陸奥守として下向、当然ながら奥羽の実質的な統治を任されているのは清原真衡であり、真衛側に助勢するのは成り行きばかりではなく、国司としては当然の行いでもある。
新国司、源義家の了承を得た清原真衡はまずは出羽の吉彦秀武を討伐すべく軍と共に出陣するが、遠征の途中で急死するといった展開となり、まさに清衛にとっては幸運というべき結果をもたらすこととなる。清衡、家衡兄弟は源義家に降伏、権力者への反乱に加担した事実からすればそれ相応の処分が課せられるのは必至であるが、何故か許され真衡の後継とされていた清原成衡(海道成衡・真衡養子、成衡妻は義家異母妹)に引き継がれるべく奥六郡の所領は清衡、家衡兄弟に分配されるといった思わぬ展開へとなった。 清衡は弟家衡と共に清原一族において一躍実力者となるのである。
陸奥守、源義家は、真衡、清衡、家衡の兄弟にそれぞれ恩を売り、後々奥州の実質的な実権を手中にしようとする策略があったのではとの見解が多く語られている。三兄弟を適度に争わせ、その度に良き調停者を演じ、徐々に陸奥守としての自らを誇示することによって父祖以来の宿願、奥州支配を完成させ源氏の力を朝廷に印象づけることにつなげる狙いもあったのではないかとも語られます。
しかし、キーマンである真衛が急死、こうなると残された清衛、家衡を後継者候補へ仕立て上げ、片方に加担する。つまりどちらかが倒さなければ倒される、ことに義家が清衡と近づいたことによって家衛の焦りを煽り、やらなければやられるの思いにての賭けを家衛に思い知らせることによって争いを起こさせ、清衡を討つは陸奥守への逆心と捉え賊徒として家衡を滅ぼして名実ともに奥羽の支配を我物とする野心からの策略でもあったと後に多く語られている。。
しかし、単に源義家の策略による後三年の役の完結編だったろうか?清衛は義家に利用されただけであろうか、清衡もひとつの読みにての策略があったのではないのか、家衡との争いとなれば、勝ち残った方が傀儡となるか、逆に漁夫の利ではないが攻め滅ぼされる運命を見越しての読みがあったのではないか、と考えてしまう。
家衡は真衡亡き後、清衡の住まいする豊田館(現江刺市)に住まいしていたとされている。源義家による指示だったといわれるが、奥六郡を分け与えられた拮抗する兄弟が共に居館を同じとすること、違和感も生じる内容でもある。これは何を意味するものかは不明ではあるが、義家が兄弟をまとめて監視する必要があったものか、或いは清衡に家衡を軟禁するような意味合いだったのか、その逆に家衛に清衛を監視させている意味合いだったものかはわかりませんが、互いの憎悪を増幅させた一因ではあると思われます。
結果的に家衡は清衡を襲い、清衡の妻子等が殺害されるといった悲劇に見舞われ、さらに己の命さえ危ぶむ事件でもありましたが、義家に庇護を求め、まさに義家、清衛の同盟が色濃く残ることでもあり、本来の清衡対家衡が何故か陸奥守源義家対清原家衡の構図となり、清衡が義家と組した形ではあるが前面に源義家が歴史的に大きく取り上げられている。清衡に家衡を滅ぼす力が無かったのか、義家の力をして家衛を葬りさる魂胆があったものか定かではないが、義家の描いたシナリオに乗りつつ、勝者に組するといった姿勢で一躍奥羽の実力者への道を思い描いたものなのか、結果は義家は後三年の役にて朝廷から無視され、奥州を去ることとなります。清衛に至っては清原氏の正当な後継者ではなかったが、それ以前の領主、安倍氏につながる者、清原氏の一族として成長した過程にて、奥羽の人々の心が注がれた結果となります。
清衡は、父藤原経清、安倍一族を滅ぼした清原氏に対し、少なくても惣領清原真衡が急逝した時点から、清原氏に代わる陸奥支配を考えていたのではないのか、源義家対しても敵ながら利用する手段にて浮かび上がる構想が芽生えはじめ、結果は周知のとおりであるも、したたかな策略者か、または時代が清衛を必要としたのか、偶然にして結果論としての奥州藤原氏の誕生への過程ではないと私は考えております。
藤原清衡弐
平泉開府