前九年の役
安倍氏の概要
系 譜
安倍氏は、蝦夷の流れで俘囚であると一般的に説かれている。しかし、その実は不明とされる事柄が多くあり、諸説も存在しますが決定力に欠け、まさにその系譜は謎の部分として未だに解明に至らずといっても過言ではないものであるが、ここに多く語られる三つの説をご紹介いたします。
ひとつは、一般的に語られる系譜、「陸奥話記」の冒頭に「六箇郡の司に安倍頼良なるもの有り。これ同忠良の子なり。父祖忠頼は東夷の酋長なり・・・」とあり忠頼→忠良→頼良の系譜関係が知られることと、頼良の子に貞任がいたということのみであるが、安倍氏は俘囚であると記されている点からして俘囚長の系譜であるものと解釈されている。
しかし、何故、安倍姓を名乗ったかは記されておらず、推測にて考察すると阿倍比羅夫から始まる東北との接点が見え隠れしている点を見逃すことはできない。中央の阿倍氏は大和時代から東国や東北支配に関わりがあったとされ、奈良、平安期にかけて阿倍氏の影響下にあり、その影響下の地方豪族が阿倍姓に地名の形の複姓に改姓することが許される場面があったともされ、阿倍柴田臣、阿倍信夫臣、阿倍安積臣、阿倍会津臣・・・という東北南部地域の豪族が阿倍姓となった実例もあるといわれております。安倍氏は阿倍胆沢臣とか江刺臣とか後の奥六郡とされる地域の地名を名乗っていた可能性もあり、後に安倍姓となったのではないか、このような考えもできるのですが、ただし中央に激しく抵抗した奥六郡の蝦夷系の豪族が阿倍姓を名乗ることははたして出来たのか疑問ではあります。
二つ目は、前記の南東北や関東の阿倍氏が移民とするか、征夷の関係者として奥六郡に入り鎮守府の下級官吏として実務を担当しながら実力を蓄え、後に一大勢力として伸張したのではないかという点、この考えは安倍氏は蝦夷の系統ではない一族とみることができる。
三つ目は中央貴族の出、すなわち平安初期の鎮守府将軍、陸奥介、陸奥少掾といった上級官吏に阿倍氏の名が散見され、これらのうちから奥六郡に子孫を残しものか、子弟などを呼び寄せ、後にこの地に残留する経緯があって、在地からは中央の貴種として尊敬され、代々在庁役人として力を蓄えていたものとも推測されるようです。
しかしながら後の前九年の役、その後の時代も安倍氏は俘囚と伝えられ、蝦夷出の頭目という位置づけで語られ、ひとつの征夷的な戦いとも前九年の役は見られている点でもあり安倍氏は俘囚であるが故に討伐対象とされた経緯は多々感じられることでもありますが、私は推測ながら安倍氏は蝦夷系の出ではなく、奥羽に下向した一族で国府や鎮守府の在庁役人であったが、蝦夷系の地元豪族と婚姻などによりその関係が徐々に強まり、その以前か後の世にこれらの蝦夷との関係で鎮守府内にて俘囚などを管轄する役職に就いていたのではないか、これらによって鎮守府内では俘囚の頭目としてみられるようになったのではないか?このことは奥羽山脈を隔てた出羽山北郡(秋田県)の清原氏にもいえることで、在地で勢力を拡大させ、その配下に俘囚の地勢力を取り込むほど伸張したのではないか、これにより俘囚長として語られ、蝦夷系といわれる由縁がありそうな感じもいたします。いずれにしろ安倍氏の系譜については、まだまだ解明の余地を残しつつも謎に富んだ系譜といえます。

安倍一族鎮魂碑・・岩手県衣川村
前九年合戦あらすじ
奥六郡の司、安倍頼良は、代々東夷の酋長の家柄で、奥六郡を支配し、その勢力もしだいに六郡の南境である衣川から南へ進出し、また租税も納めなくなり、また徭役も果たさなくなったが、この勢いを誰も止めることができないほど、勢力を誇示していた。
多賀国府でも安倍氏の振る舞いは危惧していたが、ついに意を決して時の陸奥守、藤原登任は軍を起し、ここに前九年の役の戦端が開かれます。登任は出羽国秋田城介の平重成を誘い鬼切部で安倍軍と追討軍が激突、しかし圧倒的勝利で安倍軍に軍配はあがり、安倍氏の勢力はますます拡大する結果となった。
朝廷は新たなる陸奥守に源頼義を任命、鎮守府将軍も兼任しての下向となるが、頼義が着任すると早々に天下に大赦があり、安部頼良の罪も免じられると頼良は国司である源頼義と同じ呼名の頼良を頼時に改め、新国司、源頼義に帰服する。ここに一時的ではあるが陸奥は兵火がやみ、何事もなく時が過ぎ、頼義の陸奥国司としての任期を迎えることになるが、任期満了日に近づいたある日、頼義は鎮守府に赴くと、安部頼時は身を粉にして歓待し貢物を献じて頼義に仕えたが、頼義が国府へ帰途中に宿営が何者かに襲われ人馬が殺傷される事件が起きる。この事件の犯人に安倍頼時の子、貞任が嫌疑をかけられ頼義から身柄引き渡しの命を受けるが、頼時はこれを拒絶、ついに安倍氏は衣川を閉鎖して源頼義との全面対決の姿勢を示すと、源頼義は再び陸奥守に任じられ、前九年の役の二幕がはじまる。安倍軍の抵抗は頑強で、むしろ戦況は国府方不利であったが、このことに拍車をかけるように安倍頼時娘婿の藤原経清は当初、国府方であったにもかかわらず、流言を飛ばして国府方を攪乱、安倍陣営に走る場面もあった。
戦況打開を目論む源頼義は安倍氏縁戚といわれる奥地の夷族を凋落、安倍頼時はこの夷族説得に赴くが待ち伏せを受けて受傷、後日死亡というひとつの流れを変える事件があったが、当主を失った安倍一族は頼時の子、貞任、宗任、そして経清を中心に一族結束、2千名近い頼義軍を黄海にて大いに破り、頼義は子、源義家の活躍で九死に一生を得て敗退。その後、戦いは膠着状態となり、再び源頼義は陸奥守任期満了の年を迎えるが、任期中に戦局を好転させるべく、出羽の豪族、清原氏に参戦を請い、ようやくその同意を得、ついに清原武則が一万の大軍を率いて頼義軍に合流、衣川の戦いで勝利すると各柵を落としながら北上、ついに安倍氏最後の拠点、厨川柵にて決戦となり激戦の末、安倍氏は敗れ、貞任は戦死、宗任は後日投降、配流、藤原経清は捕えられ斬首、ここに安倍一族は壊滅となり、陸奥支配をほぼ手中に収めたはずの源頼義は形は上位官位である伊予守に任じられ陸奥国から転任、奥六郡の支配は清原氏に実質任され、源氏の陸奥支配は幻となった。
以上が前九年の役の概要となっております。次頁では、さらに詳しく前九年の役の流れをご紹介いたします。
前九年の役詳細へ
官照 兄弟としている記述有り
則任・・・頼良の兄弟、或いは貞任兄弟の子息とも伝えられる系図有