序 章
プロローグ
古代東北と中央政権と
道奥 みちのく
大化改新前の東北は、いわゆる「道の奥」で現在でいう中央から遠く辺境の地であり、北の国であり、春となっても野山の残雪は冬の気配を見せ、花の咲くのも遅い・・・中央日本からは未知の領域であった。
また出羽の国はまだ名がなく、そこは越の国(越後)の奥地であったとされている。
大化改新後、道奥国(陸奥国)は成立したとされるが、今の関東地方である常陸がその北辺であり大和朝廷との境であったと思われるが、その奥、すなわち道奥はまだまだ未知の領域であり中央の人々からは「強く未開野蛮で、毛を衣、血を飲み、山野を走り、刀を衣中に佩き、辺界の農桑を侵し人民を略し、撃てば則ち草に隠れ、追えば則ち山へ入り、往古以来未だに王化に染まない」と描写されている。
中央での大化改新が成ると、658年とされるが越国守、阿倍引田臣比羅夫が水軍を率いて日本海を北上、形式上では越国奥地の飽田(秋田)、能代、さらに津軽へ到達、さらに渡島、現在の北海道までその把握するところとなったのではとも伝えられている。奥羽への中央からの進出の起点となったのは日本海からという図式が伺われる。
この進出は、奥羽の経営という概念ではなく、大陸からの来航する外国船との交易目的、さらに水軍の調練という目的があったものとも指摘されているが、早くから交易をする勢力が奥羽に存在していたという事柄でもあり、それは歴史上認定はされていないのであるが日高見国と呼ばれた一大大国が古に存在したという伝承もされている。この日高見国、現在の東北一円と関東にも及ぶ広大なものだったという説も存在しますが、いずれにしろ蝦夷と呼ばれた人々が暮らす広大な領域があったのは確かなことでもあります。
この阿倍比羅夫の東北進出で比羅夫が日本海側の蝦夷を討伐、平定したとされていますが、軍事行動があったかは不明であり、伝承では軍船の一部を置いて、和睦が成立、この地域に住む一族の長に阿倍の姓を賜って帰国したと伝えられている。
和銅3年(710)大和朝廷は奈良に都を移し、平城京とすると712年、東北は陸奥国と出羽国が成立、両国を奥羽と呼称し本格的な東北経営が開始されます。
まずは東国から一千戸の民を陸奥に移住させその拠点たる柵戸が構築され、南から北へこれらの柵と共に官衛と膨大な移民が送り込まれるとその中心たる多賀城が神亀元年(724)構築され、また出羽方面では天平5年(733)秋田城が築かれ、陸奥、出羽両国の国府的な機能の中心的な役割を担う拠点となる。
これら城柵は開拓移民を守り、やがて地域の郡、郷支配の確立を目指す奈良朝廷の東北支配へと結びつける事柄でもあり、また地域の蝦夷達を威圧する点も含み、これらの圧力と懐柔によって奈良朝廷へ貢物を贈るといった服従的な蝦夷も出現、後に労役、軍役に組み込まれる人々は俘囚、夷俘と呼ばれ奈良朝廷による編戸民化実現、つまり戸籍を与えられた人民へと組み込まれる図式へ変化していくことになりますが、それでも多賀城碑文に記録されている現在の岩手県南部地方は奈良朝廷からは胆沢の賊と呼ばれる蝦夷が暮らし、中央による東北経営に同化しない人々の天地であったと伝えられている。
宝亀11年(780)伊冶呰麻呂の乱勃発、アザマロの乱といわれるこの事件は、伝承的には多く語られているが歴史的にはよく知られていない事件である。
俘囚で伊冶城造営に協力したアザマロはその功績により官位を賜ったとされ、この地方の中央政権による開拓や征服事業に協力、しかし、移民系豪族との軋轢があり反乱を企てたものとされてはいるが、中央政権による過酷な現地人への圧政があったのではとも推測され、当時の陸奥国軍令、政治の最高責任者である大伴駿河麻呂と紀広純が伊冶城を拠点に前線基地を築くべき軍を率いて多賀国府を出発、しかし伊冶郡大領、伊冶呰麻呂の蝦夷軍の攻撃を受け駿河麻呂、広純、随従の牡鹿郡大領、道嶋大楯は討ち取られ、そのまま蝦夷軍は南下して多賀城を攻撃し落城させ放火して逃げ去ったと伝えられているが多賀城攻撃に関しては不明な点もある。
奈良朝廷は中納言藤原継縄を征東大使に任命、さらに参議藤原小墨麻呂を持節征東大使に任じたが蝦夷征討は失敗に終わり、多賀城以北の蝦夷達が中央に対し活発的な反抗を興す起因になった事件とされております。
延暦7年(788)奈良朝廷は、遂に大掛りな軍事作戦、すなわち征夷を敢行し従わない蝦夷、さらに根本を同じにする俘囚に対しても力による征服を実現すべく参議左大弁正四位下兼春宮太夫中衛中将 紀古佐美(きのこさみ)を征東大使とし、五万四千余の大軍を動員し、胆沢地方(岩手県水沢地方)へ進軍したと伝えられている。
当時の軍は、実は朝廷のある関西方面からの徴兵ではなく、征東大将軍という位置づけでもある紀古佐美には直属の兵員は皆無に等しく、奥州への道すがら東海、東山、そして坂東(関東)から募兵を行い紀古佐美が集めた兵員は五万三千人とも伝えられ、多賀城へ入城。多賀城から蝦夷が集結中と伝えられる胆沢方面へは、約二万三千余が進発、衣川(岩手県平泉)を渡り北上川渡河にかかった時、胆沢地方の蝦夷を糾合した阿弖流為を首将とする蝦夷軍に大敗を喫し、蝦夷の首、89級に対し、征討軍は戦死一千数百、負傷、逃亡者合わせて二千五百以上を出して敗退、吉報を期待していた奈良朝廷は大いに驚いたとされ、征東大使 紀古佐美は恥を忍んで都へ帰り着いたが「愧ずべき浮詞と・・」叱責されたといわれている。
一方、阿弖流為の領域も14村八百戸余りが焼き払われたと伝えられる大損害を被ったとされるが律令制度の郡郷で16郷に当たる領域ではあるが、これらの被害にあってもなお健在だったということは阿弖流為の力がいかに強大だったかが伺われる事柄でもある。
この紀古佐美による征討作戦が思わぬ敗戦となると、延暦10年(791)朝廷は意を決してあらためて次なる征夷の準備に入ったとされる。三年計画で兵糧や武具を揃えると、征夷大使 大伴弟麻呂、副使に坂上田村麻呂を任じて延暦13年正月、弟麻呂は節刀を桓武天皇から賜り10万にものぼる大軍勢を率いて陸奥国へ出発したとされる。この時も街道沿いの諸国から募兵を行いながらの進軍とされており、陸奥での戦いについては詳しくは伝えられていないが、田村麻呂の活躍もあり、斬首457級、捕虜150、獲馬85疋、焼き討ちした拠点75という戦果をあげ大伴弟麻呂は平城京から平安京に都を移した京へ帰還を果たしたと伝えられている。
10万という大軍勢を以っての征夷の戦いにしては、戦果的には少なすぎる点も指摘されますが、古代においては大量殺戮の様相を呈した大会戦を思わせる戦いではなく、しかもゲリラ戦を得意とする蝦夷相手にしては大戦果でもあり、何よりも副使の坂上田村麻呂は現地に残り、朝廷の最前線基地たる胆沢城を築いた点においては、蝦夷の拠点たる地に進出したという点においても戦果があったと思われます。
延暦15年、坂上田村麻呂は按察使となると翌16年征夷大将軍近衛権中将陸奥出羽按察使従四位上兼行陸奥守鎮守府将軍 坂上大宿祢田村麻呂という東北重要四職兼帯の堂々さが史籍に残されております。
坂上田村麻呂が征夷大将軍となると、かつて蝦夷が多数集結し征討軍への反抗を示した地、胆沢に胆沢城を築くと共に多賀城から鎮守府をここに移し、新たなる朝廷の拠点となり、駿河、甲斐、相模、下総、常陸、下野、信濃から浮浪者ばかり4千人を集め、開拓に従事させるという策を実行、延暦20年(801)には四万人の軍を起して蝦夷征討戦を行ったとされるが詳細は日本後紀等の史料には不明とされているが「夷賊を討伏せり」という征夷大将軍奏が出された。
延暦21年(802)、今まで抵抗の阿弖流為、母禮(モレ)といった首領率いる蝦夷が降伏、田村麻呂は阿弖流為、母禮といった蝦夷の首領を伴い京都へ帰還、蝦夷との協調を推し進めながら東北経営を目指したとされる田村麻呂、そしてその考えに賛同し新たに朝廷との和平関係を構築したい懇願をするためとも推測されますが、共に京都へ行くも、都の人々には遠く異国に暮らす凶暴な野蛮人としか映らなかったともいわれ、坂上田村麻呂の助命嘆願を以ってしても叶わず阿弖流為、母禮は河内に移され処刑されてしまう。
延暦22年(803)坂上田村麻呂はさらに北方の志波城(盛岡市)構築の為、再び陸奥へ下向し志波城を造営したとされるが、阿弖流為を処刑したことも考えられるが、奥地の蝦夷の人々には中央の政策そのものが不信感となり、新たなる争乱が始まることとなる。
延暦20年に征夷大将軍 坂上田村麻呂のもと、出羽権守に任じられた文室綿麻呂(ふんやのわたまろ)は、弘仁元年(810)参議正四位上大蔵卿陸奥出羽按察使となり、坂上田村麻呂は将軍を辞して都へ帰還、文室綿麻呂は翌、弘仁2年二万六千人を動員して奥地の爾薩体(二戸地方)、幣伊(閉伊)地方の蝦夷征討戦が2月から10月まで作戦が展開されたとされていますが、この時の征討軍の中には数百の俘囚軍が配置され、この戦いの主軍という位置づけで、かなりの戦果があったといわれております。まさしく「夷を持って夷を制する」と云わしめた「賊を以って賊を伐つは軍国の利なり」との言葉で飾っており、本質的には蝦夷の戦闘力は減退していないのが伺われる。
宝亀5年以来征討戦は38年の長きに渡り、俗に東北大戦争という後にいわれる戦いは文室綿麻呂が自画自賛し、ここに終結させたという意味合いにて、兵、民は連戦に疲弊し戦いを停止させて休養させたい旨を奏上、しかし、実情は完全制圧といった内容ではなく、しばらくは蝦夷勢力との均衡を保っていたに過ぎない点でもあった。
朝廷も一応の征討戦に関してはその均衡状態を理解しながらも、それでも奥地の蝦夷に対しては警戒し、さらに支配地域の俘囚達にもある程度の疑念をもっていたのは事実で、奥羽各地から多数の俘囚達を全国各地へ強制移住させた史実にも現れておりますし、奥羽における墾田私有法の導入は中央に遅れること約70年を要している。
文室綿麻呂による征夷の後は、史料に残る戦いは記述されていないとされる。元慶2年(879)出羽秋田にて俘囚の反乱が発生、北出羽における独立を唱えた反抗とされ、前左近将監 小野春風を鎮守府将軍に任じ、2年がかりで乱を鎮圧すると、大がかりな蝦夷の反乱はほとんど史料に見ることがなくなり、やがて起こる前九年の役、11世紀までは比較的平穏な時代だったと推測できる。
802年造営とされる胆沢城跡(岩手県水沢市)
阿弖流為(アテルイ) 母禮(モレ)といった古代東北の英雄達が集結し中央政権に反抗した拠点に築かれ、多賀国府(宮城県多賀城)から鎮守府が移され、北の拠点として機能した。
志波城(岩手県盛岡市)
803年、坂上田村麻呂はさらに北へ進出。志波城を築いたとされるが、大掛りな城柵はこの志波城が北辺であったが、813年、その拠点は南の徳丹城(岩手県矢巾町)へ移され、志波城の機能も徳丹城へ移されたと思われる。
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