


| 南部光行 | 南部氏初代・甲斐源氏の流れにて加賀美遠光の三子。甲州巨摩郡加賀美郷にて生まれ母は和田義盛の妹とも佐々木秀義の娘ともいわれる。 信濃三郎と称し強弓の武将であったといわれ、父、遠光から巨摩郡南部郷を分地され南部氏と称した。 治承四年(1180)源頼朝による平氏打倒の軍が起こるや甲斐源氏として一族とともに応じ、源氏方として戦功を挙げ文治五年、奥州平泉の藤原氏攻めにも従軍し戦功により奥州糠部五郡を賜わったと伝えられている。 建久二年十月(1191)家臣・郎党73人、6艘にて鎌倉由比浜から出帆し八戸に上陸、三戸に進み城を築いて翌年九月、鎌倉に帰着したと伝えられている。 建保三年(1215)鎌倉にて死去。 光行には六子有り、家督は二男実光が継承。 |
| 南部信長 | 又次郎行長・南部宗家(三戸)第11代。10代茂時の弟と伝えられているが諸説有り 甲州にて生まれ兄茂時の意を受けて奥州に下り糠部三戸の領地を治めていたと伝えられ、後に北朝方に属した南部伊予守とはこの信長との見解である。 |
| 南部守行 | 南部宗家(三戸)第13代。三戸12代・南部政行長子、甲州にて生まれ六郎太郎と称す。 文中二年(1373)正月、甲州を発し家臣福士庄兵衛等50余人と共に奥州糠部に至り以来三戸を中心に勢力拡大を図る礎を築いたとされる。 北奥羽各地の争乱に干渉し、和賀氏、稗貫氏領内の争乱鎮圧や秋田鹿角に出兵、この地域を勢力下あるいは影響下に置いたとされ、南北朝動乱終結後の北奥羽の軍事強国となる。陸奥国司・従四位下大膳太夫 永享九年(1437)閉伊郡遠野で争乱あり、気仙、大槌勢が遠野横田城を囲み遠野領主阿曽沼氏より援兵の使者が到着するや、遠野へ1千余りの兵と共に来遠し気仙・大槌連合軍を破り、大槌城を囲む、しかし流矢にて戦死したと伝えられ、遠野東禅寺に葬られたと伝えられている。 |
| 南部晴政 | 南部宗家(三戸)第24代。23代南部安信長子・彦三郎安政と称した。 天文年中、同族で甲斐武田氏の武勇を慕い武田晴信と旧交を修め、その名の一字、晴を乞いて晴政と改めたとも、将軍足利義晴に駿馬・逸鷹を献上し将軍義晴から晴の一字を賜わったとも伝えられている。 まさに戦国時代の世に生まれた晴政は近隣勢力を圧し、天文年間には閉伊郡の争乱に叔父、石川高信を大将にこれを討ち、岩手郡滴石の戸沢政安を攻め、これを出羽へ追い、志和の斯波経詮の岩手郡侵入を食い止め、津軽での争乱を鎮圧、秋田鹿角での秋田氏との戦い、津軽では反乱を抑えて津軽地方をほぼ制圧し、電撃的な軍事作戦を展開して北奥羽の覇者となる。 晴政には男子がなく女子のみであったが晩年嫡男が誕生し、後継と目されていた娘婿の石川信直との確執と後継争いの種を残したまま逝去した。 |
| 九戸政実 | 南部支族、九戸氏第11代 九戸氏は南部光行の六男、九戸五郎行連を祖とする南部一族で代々九戸郡を領していたされる。 戦国期、活躍する九戸政実は南部連合軍の一翼を担う九戸党といわれる精強な軍勢を率いて各地で戦っている。 九戸氏もまた八戸氏同様、ひとつの諸家であり南部宗家の家臣的な境遇ではなく独立した家との見方もでき、政実の頃は宗家をも凌ぐ軍事力と八戸氏に次ぐ封土を領し17000石といわれる。 天文年間には南下する南部氏の中心的役割を担い、志和の斯波氏を破り、和賀郡へ侵入し南部氏の威を示すと共に九戸氏の立場は南部家随一といわれるまで急成長していた。 第25代・26代宗家の家督争いにより26代南部信直に反抗し、津軽氏の独立を容易にさせた一因は、九戸政実が側面から南部氏の動きを牽制したためとの見解もある。 天正19年(1591)九戸郡の一揆を利用して九戸城にて兵を挙げ、南部氏に反旗を翻し緒戦では南部信直勢を圧倒したといわれる。しかし中央では豊臣政権の全国統一が完成しつつある時代で南部信直は豊臣秀吉に援軍を要請し、奥州仕置軍6万とも3万ともいわれる空前絶後の大軍が来襲し九戸城は落城。 九戸政実は岩ヶ崎(現宮城県栗原郡)に連行され一族、重臣共々処刑された。 奥州における戦国の風雲児とよばれる将である。 |
| 南部信直 | 南部宗家三戸第26代・南部藩祖 南部一族石川高信の子、天文15年岩手郡一方井に生まれる。 24代南部晴政には男子がなく娘婿になり早くからその後継者と目されていたが、晴政晩年、嫡子晴継が誕生し、信直は後継者から外され実家の田子城に帰り一時雌伏の時期があった。 天正10年、晴政が死去し第25代は幼い晴継が継いだが同年10月に賊に襲われ暗殺される事件が発生し、幼君南部晴継が死亡し、次の当主継承のことで家臣、一族間で論議紛々し、争いへと発展するかにみえたが重臣、北信愛が兵百余りを率いて田子城の信直を三戸に護衛して三戸城に迎えて第26代を継承し南部信直の誕生である。・・・・これはひとつのクーデターとされ、反対勢力の九戸政実に先んじて動いた信直派が勝利を収めた形とされている。 南部信直は政治感覚に優れ大局観に明るい名将といわれ、当主に就くや反対派の九戸実親等を討ち、外にあっては奥州の名族、志和の斯波氏を滅ぼし版図を広げる一方で中央にも着目し、前田利家を介して豊臣秀吉とも誼を通じ、近世大名として南部藩の基礎を築いていった。 津軽地方に弟、石川政信を代官に任命していたが、家臣の大浦為信(津軽氏)が叛意を示し、津軽地方を制圧、津軽氏の津軽独立を許す事態となる。 天正18年、津軽氏、一族の九戸氏といった叛意を抱く勢力の動きに注意を払う中、豊臣秀吉の小田原攻めで、八戸政栄に上記の勢力への牽制役を託し自らは1千の兵にて小田原に参陣、秀吉に謁見し、同年七月奥州仕置軍が進発し、大森(福島)において再度秀吉と会い、糠部、鹿角、志和、稗貫、和賀、閉伊、岩手の七郡を安堵される。 天正19年、かねてより叛意を露にしていた九戸政実が兵を挙げ、九戸城篭城、自力での鎮圧が難しいと判断した信直は秀吉に援軍を要請し、奥州仕置軍の大軍が九戸城を包囲攻撃し、九戸政実を滅ぼした。 同年11月、嫡子利直を伴い上洛、豊臣秀吉に馬・鷹を献じて奥州仕置軍援軍を謝した。 これにより津軽地方は失ったものの領内10郡の統一が完成し、後の南部藩の礎を築き、三戸から福岡(二戸)と移り、盛岡城築城の許可を得て新城工事の進捗に思いを馳せながら福岡城で没した。慶長4年10月5日・・54歳 |
| 南部利直 | 南部宗家三戸第27代・盛岡南部第2代 室は蒲生氏郷の義妹 南部藩祖、南部信直長子として田子城(幼名彦九郎)に生まれる(1576) 父信直は前田利家と誼を通じ、子、利直の元服儀礼の親として前田利家が務めその偏名の利を拝領して利直としたと伝えられている。 豊臣時代、文禄四年、従五位下信濃守 関ヶ原の戦いでは東軍に属し最上山形へ出兵、最上入りした援軍の中では一番の大兵(3000とも5000ともいわれる)だったとされる。しかし、領内和賀郡で旧領主和賀忠親等、和賀・稗貫の遺臣達が蜂起する事件となり急遽帰国し、これらを討伐、さらに閉伊郡遠野でも旧領主阿曽沼広長が遠野奪還の兵を繰り出し、遠野方に援軍を送りこれを撃退。 これらの戦いには伊達政宗の策略があったとされ、関ヶ原での争乱を利用して北進を企てたともいわれ、後に徳川家康からの50万石加増の約束が取り消されたとされる。 大坂の陣にも徳川方として参陣、兵4千余りを派兵し徳川秀忠軍に配された。 南部藩創生の祖、先代信直に勝るとも劣らない二代南部利直、豊臣政権、徳川の初期を生き抜き、戦国武将の名残を漂わせ、伊達政宗の北進とその圧力を跳ね除け、さらに政治感覚にも優れ信直と共に盛岡南部家、南部藩の礎を築いた君主であった。 寛永八年(1631)、二代将軍徳川秀忠が重篤と知ると江戸に上るが、秀忠が逝去しても江戸に滞在し、病を発症し江戸桜田屋敷にて翌年死去。57歳 |