

| 八戸信長 | 根城八戸氏第14代当主・・・・三戸南部第11代信長とは別人 生没不詳・・・上洛中、将軍足利義政に出仕し、但馬守に任じられたと伝えられ、御所にて横笛吹奏の栄に浴したとされる。 甲斐の武田信虎の抑留で京都滞留と伝えられている。 |
| 八戸政栄 | 根城八戸第18代、彦次郎 一族新田氏・新田行政の子で本家八戸家の養子となり家督相続。弾正少弼 薩摩守 糠部八戸から下北半島までの広大な領地、15000石とも20000石ともいわれる八戸領を領し、家臣も多く三戸南部宗家に次ぐ南部一族で諸侯の観があった。 後に三戸を継いだ南部信直を補佐し、近世大名に押上げた大功労者で小田原の陣では津軽氏・九戸氏の動きを牽制し信直の参陣を容易のものとし、信直の信任も厚く慕われていたといわれる。1544〜1610・・・晩年は盲目に近かかったといわれる。 |
| 八戸直政 | 根城八戸第20代・八戸政栄の二男ともいわれ、19代兄、八戸直栄死去により家督相続 慶長17年、藩主南部利直とともに江戸桜田屋敷にての茶会で二代将軍徳川秀忠に拝謁、直政は将軍に栗毛馬・太刀を献上したと伝えられている。 幕府より八戸家に対して越後高田城普請に藩主利直の名代として任命され、陪臣の八戸家が将軍家より直々に普請の役を下したということで八戸家の独立大名への道が開ける絶好の機会と期待もあったといわれる。 高田城主、松平忠輝とも親交を結んだ直政であったが、現地にてにわかに病となり、忠輝お抱えの医師や、本人の見舞いを受けるも病状が悪化、国許にての養生のため帰国途上の越後推谷峠にて死去・・・慶長19年6月・・28歳 |
| 岡前宮内 | 遠野南部氏重臣・350石、甲州以来の譜代の家柄で、新田氏に次ぐ権威を誇り軍事奉行、足軽支配を兼ね、遠野の治安、警備裁判を司る役職にて、荒廃していた遠野の治安回復に尽力、当主直義が盛岡屋敷詰では先代の女当主、清心尼を助け比巻沢氏、広田氏、作田氏の四人で遠野初期の政務を取仕切った。しかし、岡前騒動にて家名断絶となる。 |
| 比巻沢市兵衛 | 遠野南部氏重臣・100石、秋田浪人で早くから八戸家に仕え、その才幹を認められて家老待遇となる。百姓支配・・・後に阿曽沼旧臣松崎氏の居舘、松崎舘を得て松崎大学と名乗る。民生、厚生の役目(百姓支配) 盛岡屋敷詰めの頃、南部藩士石井某が酒によって刀を振り回し暴れているのを取り押さえ遠野に大学ありと高名を馳せたが、正保2年病死、嫡男主水も後に病死、家は断絶した。 |
| 広田太郎兵衛 | 勘定奉行・遠野においての年貢課役担当。最上浪人50石、阿曽沼時代から年貢取立ての役であったといわれ、その才幹で50石の中士となる。 |
| 作田主水 | 津軽浪人・御守役として新田氏に仕え、直義の子供時代からの学問の師で、直義成人後もその相談相手となって直義側近となる。100石 |
| 一族家臣の一覧は、遠野治世の頁にて掲載予定 | |
| 第9代 長経 | 通称不詳 第7代信光長子 幼名千歳 左近将監 |
| 第10代 光経 | 竹松・次郎 第9代長経弟 修理亮 薩摩守 応永18年秋田仙北郡にて安藤氏を破り同郡の長野、淀川を支配「南部家文書68」とある。さらに永享4年(1432)下国安藤氏と津軽にて戦い安藤氏を蝦夷島へ追う。 光経は優れた武人と伝えられ、外交、文化でも秀でた人物と評されている。 南部家家紋、双舞鶴は光経が定めたとされる。 |
| 第11代 長安 | 六郎 左近将監 遠江守 子に守清、清政(新田安盛の嗣)信治(沢里・岡前)の3人と伝えられている。 |
| 第12代 守清 | 彦次郎 永享4年(1432)刑部丞に補任とあるだけで不詳 |
| 第13代 政経 | 通称不詳 河内守 新田氏養子となった新田清政の子 康生3年(1457)下北半島にて蛎崎氏と戦い、これを駆逐、下北半島を手中に収める。 南部家文書96・蜷川親元日記によると秋田山北地方にて小野寺氏との確執があったとみられ、同地方を支配下或いは影響下にしていたことが伺われる。 八戸南部氏は政経代まで北奥羽のほぼ全域に君臨していたことになるが不明な点もある。 |
| 第15代 治義 | 通称不詳 義継、義勝、経継の三子の他、女子有(中舘義成室) |
| 第16代 義継 | 五郎 天文8年(1539〜没年不詳)成人前に死去したと伝えられる |
| 第17代 勝義 | 次郎 弾正少弼 15歳で家督相続、相続をめぐっては一族で争い第14代信長の庶子、清祐の子、田中宗祐と争い宗祐が謀殺されたといわれている。 天文年間、南部晴政(三戸氏)の五戸攻めにて晴政から出兵を要請されたが応じなかったとされ、三戸南部氏と同等、もしくは優位を堅持していたと思われる。 天文17年(1548)24歳の若さで没 |
| 第19代 直栄 | 彦次郎 天正16年(1588)三戸南部氏、南部信直に随伴して小田原に赴き豊臣秀吉に謁見。 この謁見にて八戸南部氏は三戸南部氏の臣下の立場となったとされている。 生来病弱で風雅を愛し、和歌、連歌を好み不染斎俊恕との交流もあり、13通の書状を伝える。文禄4年(1595)25歳で没 家督は弟、直政が継いだ。 |