大沢不動宵夜
別名 倶利伽羅不動 祭神は不動明王 旧暦6月28日(27日宵夜)
2003年(平成15年)7月26日(土)、午後6時から遠野市松崎町駒木、上駒木地区内の妻ノ神の奥深く、大沢川の最上流部の山林地帯にある大沢不動尊の宵宮が執り行われました。
駒木地区、とりわけ地元である上駒木集落の伝承行事として位置付けされておりますが、別当を努めているのは我家の総本家である屋号、判四郎どん家で、翌日の御神酒上げに関しては近年、福泉寺にて行っています。前日、すなわち宵夜は別当、福泉寺そして別当家縁戚、地元民がご馳走を持ち寄って不動尊堂へ参って御神酒を上げ、ご祈祷を行い一夜を過ごすものですが、近年はお堂に泊る方々は数人となり、お参りする方々も数十人にものぼりお堂に入りきれない時代もあったといわれますが、今は20名位となっております。
あいにくの雨模様、さらに宵夜当日未明と早朝の宮城県での大地震で、私の参加が危ぶまれましたが、なんとか参加することができました。数日前の我家で別当を務めます愛宕堂の宵宮にて大沢不動尊の宵夜には皆より一足先に別当さんと共に早く行ってくれないか、と福泉寺住職さんとも話がついておりましたがなんとか予定通り午後3時、福泉寺第3代住職正全師、副住職、はやちね食堂ご主人、別当さん、そして私の長男、私の6人が先発隊となり、宵夜の準備にあたりました。
今は牧道(全面舗装)が整備され鳥居の位置までは自家用車でも簡単に行ける利便がございますが以前は徒歩で向かい直線距離にして5キロ位ですが山林地帯の獣道的な道だったためゆうに2時間近くはかかっておりました。
画像・・・お堂入り口の鳥居
画像はお堂に到着したところ
鳥居の位置からお堂までは約300メートル、当日の朝から別当さんが訪れて登り口の整備や道の草刈と下準備をしていてくれましたが、それでもけっこう足に堪える登りではあります。

お堂は平成7年に台風で大木の枝が折れ屋根に落下、そのため屋根が大破、さらに鉄砲水にて周囲も流されたため、地元民からの寄付をもって新築されたものです。
お堂の東側には大沢の滝があります。
画像は大沢の滝・・・高さ約5メートル
まずは手分けをしてお堂の掃除、焚火と手際よくこなしている間に正全師は大沢の滝にて全裸にて身体を清め(福泉寺歴代の住職はこの滝で身体を清め断食修行する)18禁画像となりますので、修行風景は撮影しませんでした・・・?
焚火の火も安定し、住職の滝での清めも終了した頃、お参りの第一班が到着し、先発隊はここで一休みしております。
只今到着の第一班は我々の夕食、酒類といった食料を持参しまして、ご祈祷後の宴席が楽しみでもあります。
お堂の中の様子
中は10畳程の広さ、夜はこのお堂の中に数人が泊り込む予定となっていましたが、この晩、泊ったのは3名ということです。
以前は男達10名程が泊ったこともあったそうで、私も小学生の頃、一度、さらに社会人となってから2度ほど泊っておりますが、なかなか眠れなかったことが思い出されます。真夏でも山間地帯の最深部ということで、けっこう冷え込みがあったり、虫が多かったり、寝返りも打てないほど密着しての混み様もあってなかなか眠れず翌日は少し体力的に厳しいと感じたこともあり、最近は夜9時には下山としております。
午後6時、ご祈祷の定刻となるとお参りの第二班も到着、この時、総勢13名、ほとんどは福泉寺の信徒さんの女性の皆様で、しかも遠野市外からの参加者でした。例年は地元の方々も続々と暫時集まるのですが、雨模様と伝承行事に参加する家々も代替わりとなり諸先輩方も高齢となり自然と足が遠のく傾向にあるようです。
約30分程度のご祈祷も終了、陽もだいぶ暮れていよいよ持ち寄った手料理にて宴席がはじまりました。
電気のない山奥ですから、灯りは蝋燭の火のみ、蝋燭は全部で6本ほど各所に配されましたが、けっこう思ったよりは明るいものだと思いました。
昔の人はこんな中、夜を過ごしていたんだなと思わず考えてしまいました。
その後、仕事を終えた地元の方々2名ほどが加わりましたが、それでも総勢15名、年々参加者は減る傾向かもしれません。
夜、8時30分、福泉寺住職さんと別当さん、後から参加の2名、計4名を残して全員、下山の運びとなりました。
翌日は昼から福泉寺にて御神酒上げが行われ、こちらは別当家縁戚や地元の方々多数が参加しておりました。
大沢不動尊
建立された年代は不明とされていますが、江戸後期とも伝えられ、大沢川の最上流部の滝の脇に御堂がある。
不動尊堂は不動明王を祭り、大日如来の化現した姿とされ、いっさいの悪魔、煩悩を降伏させるため念怒の相をなし、形相は青黒く眼を怒らし左眼は半眼、額には水波の相、右牙は上、左牙は外、さらに右手に降魔の剣、左手にはけんさくを持ち、火焔光背の岩上に座している。
平安時代に密教の盛行とともに崇拝され、当地方にも修験者や山伏等にもたらされた信仰と思われるが、江戸時代、地元で崇められていたと推測され、後の江戸後期、駒木村で富裕の家とされた判四郎家(菊池)が遠野南部家に多額の献金を行い、名字帯刀を許され駒木地区の管理を任されたことをきっかけに大沢不動の別当となったとも伝えられている。
大正年間に福泉寺が当地方に開山すると歴代住職の断食修練の場所となっていたが、この界隈は遠くは沿岸の宮古方面や大槌へも通じる裏街道でもあり、古くは幻の寺、松雲寺のあった場所、同じく幻の大澤村があったところにも近い。
昭和の初め頃は、下閉伊郡小国村(川井村)からも峠道を使ってこのお不動にお参りに訪れる人々もあったとされてもおりますが現在は福泉寺と別当家を主に地元のみに崇められている。



総本家、判四郎どん と 我家
判四郎家は上記でも記していますが、江戸後期あたりから当地区の富裕の家とされ、その分家も多くその分家筋は大家と呼んでおります。
当然ながら我家でも大家と呼んでおりますが、実際は我家が判四郎家から分家になった家ではございません。
我家はこの地区でもけっこう古い家とされておりますが、江戸後期から明治末頃まで男系が何故か短命だった経緯があって明治初年に判四郎家の分家、判右衛門家から婿養子をいただき(私の五代前、菊池清作)その経緯があって菊池清作の実家の本家を我家の本家と成すと清作の舅親が決めたからと代々我家に伝えられております。
また姓は菊池姓、何故に菊池姓なのかはまだまだ調査中ですが、南部氏から名字帯刀を許された時点にて菊池姓を名乗るということは、元々は菊池姓の一族からの流れであったと推測されます。
また我家においても明治の新姓にて菊池姓を名乗っていますが、本家とする家が菊池だからとの考えも生じますが、以前からの血縁があったのではとも考えられ、これは後で菊池姓のコンテンツにて記載したいと思います。
大沢不動
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