| 遠野(根城八戸)南部氏第4代、南部師行の奥州糠部郡下向は、元弘3年暮れから元弘4年1月という見解が有力であり、義良親王を奉じた若き陸奥国司、北畠顕家とほぼ同時期に下向したとされています。 北畠顕家の下向は、元弘3年の冬(旧暦11月22日)とされています。 この時、南部師行は検断職となり、その受け持ち範囲は糠部郡、津軽四郡、鹿角、比内、久慈、閉伊郡(岩手県中部以北から秋田県の北部、青森県)に及ぶ広大な地域で、中条時長(中条出羽前司時長・稗貫氏)、多田貞綱(摂津源氏)、成田頼時(下野国)、平賀景貞(信濃国)が同時期に派遣下向となり複数の定員で何郡かを割り当て津軽四郡と糠部郡は中条時長と兼務し、糠部郡については南部師行は奉行も兼務しており、検断奉行だったことが史料から伺える。 検断職とは、今でいう検察官、郡奉行は行政官にあたり、南部師行は司法、行政さらに軍事全般を取仕切っていたことになろうかと思います。 このコーナーでは、陸奥国司、北畠顕家からの国宣によって北奥羽地方の沙汰をこなしていった南部師行の検断職兼奉行としての活躍の一部を北奥羽中世史料としては一級品との位置付けの「遠野南部家文書」からご紹介いたします。 |

| 久慈郡の欠所地沙汰付 (北畠顕家)花押 信濃前司入道行珍申 久慈郡事 申状如レ件早可レ被レ沙三汰居於ニ彼郡一之由 国宣候也 仍執達如レ件 元弘四年二月十八日 大蔵権少輔清高 南部又次郎殿 久慈郡の欠所地を国府の評定衆に名を連ねる二階堂行珍へ与えたので、それを早く沙汰して行珍の代官へ引き渡すようにと書かれた内容です。 この南部師行宛ての国宣が、現存する国宣で最も古いものとされており、久慈郡(岩手県久慈地方)が歴史的な記録、資料に登場する初の文書ともいわれております。 久慈郡は誰の土地だったかは不明であるが、隣の九戸郡は北条右馬権頭茂時の所領だったことが知られており、おそらく北条一門の所領だったと推測されます。これら北条氏の所領はほとんど没収となり欠所地となったことが知られております。 比内郡南河内の沙汰付 (北畠顕家)花押 陸奥国比内南河内事 大田孫太郎行綱代行俊申状如レ此 子細見レ状 早可ニ沙汰付一之由 国宣候也 仍執達如レ件 元弘四年二月二十二日 大蔵権少輔清高 南部又次郎殿 比内郡の南河内は大田行綱の所領だったが、その代官の行俊の申状を承認し、旧領を安堵するように沙汰付したとの内容です。 所領安堵の処理ということになります。 比内郡(秋田県比内地方)は、鎌倉時代から南部氏と同族の甲斐源氏の流れ、浅利氏が地頭職だったことが知られております。上記の史料により、地元郷土史関連では、南部師行に比内郡が与えられ南部氏配下の大田氏にも比内郡の一部が与えられたことにより、比内地方において南部氏の勢力拡大が目にみえてきたので、浅利氏は曽我氏と結んで鹿角大里楯(秋田県鹿角市)の南部氏を攻めたがその守りは頑強で苦戦を強いられた・・・との内容があるそうですが、国宣の文をみれば、比内郡南河内は南部師行に与えられたものではなく、旧領主である大田氏に安堵するもので、南部師行はその沙汰を命じられたものである。さらに浅利氏は比内郡の地頭職だったことは史料により確認はできるが、前説のように南部氏に圧迫され、地頭職としての権利が侵害されたということで北朝方として鹿角へ侵攻も説かれてますが、鹿角大里盾は成田氏の所領であり、また比内郡一円が浅利氏の所領だったわけではなく、後世の推測によって組み立てられたものと思われます。 以上の二つの国宣は所領沙汰を命じる代表的なものであるが、上記の様式によりかなりの国宣が存在している。 なお、当HPや南部氏関連書籍、郷土史において、南部師行にもたらされた国宣が北奥羽の広範囲にわたったものであるので、これらが南部氏の影響下、もしくは勢力下と誤解をして、後の南部氏の領地、すなわち「三日月が丸くなるまで南部領」の礎となるものと解釈されていますが、国宣を見る限りは南部師行は、国府の行政、司法の地方長官としての職務を忠実に執行しているだけであるのが読み取れます。後の南部氏勢力拡大や影響を与える事柄は、師行の弟、南部政長が七戸、八戸を南朝から与えられてからとみるべきではないでしょうか。ただし検断奉行として各地に名を残した点においては後に南部氏の人的影響はあったものと推測はできます。 閉伊郡大沢御牧の尋沙汰 (北畠顕家)花押 閉伊郡内大沢村御牧馬 井殺害追捕以下狼藉事 石見左近大夫有資申状ニ通 副守常解状等 子細見レ状 山田六郎所行云々 急速令ニ尋沙汰一 任ニ実正一可レ被ニ注進一之由国宣候也 建武元年三月二十一日 大蔵権少輔清高奉 南部又次郎殿 閉伊郡大沢村(岩手県下閉伊郡山田町大沢)の牧馬が何者かによって殺傷追捕される事件、狼藉があり、現地国代、石見左近大夫有資等の申状によって犯人は山田六郎と判明したので、その捕縛を師行が命じられたというものです。 事件のその後の顛末は不明ですが、山田六郎とは北条氏の地頭代或いは牧士だったと推測されます。 横溝一族の陰謀事件処理 北畠顕家国宣 横溝孫六重頼事 不レ令レ与ニ同一族一 兼以訴ニ申孫二郎入道等陰謀之子細一之間 忠節之仁也仍被レ宛ニ行六郎三郎入道跡一畢 早可レ被ニ沙汰付一於ニ当所一 尋ニ捜凶徒在所一 弥可レ致レ忠之由所レ被ニ仰含一也 存ニ其旨一 可レ被ニ相談一者 依ニ国宣一執達如レ件 建武元年九月十ニ日 大蔵権少輔清高奉 南部又次郎殿 横溝一族、孫二郎入道等の陰謀の動きがあり、それを同族の孫六重頼が訴え、六郎三郎入道の欠所地を恩賞として与えられ、さらに師行にはこの陰謀事件の凶徒探索を命じるものである。 北畠顕家国宣 佐々木五郎泰綱召進 横溝孫二郎入道子息亀一丸 同六郎子息虎熊丸事 暫可ニ召置一歟 六郎以下輩 猶尋捜之後 可レ有ニ沙汰一哉 且又随ニ事躾一 可レ被レ計ニ沙汰一也 六郎妻女事聞食畢 同可レ被ニ召置一之旨 被ニ仰下一也 仍執達如レ件 建武元年十二月七日 大蔵権少輔清高奉 南部又次郎殿 佐々木五郎泰綱は孫二郎や六郎の息子達と妻女を捕らえたという内容にて、その妻女達は師行に預けられたものと思われます。 横溝氏は工藤氏の別系とされ、糠部郡内の広範囲に定住していたことが知られており、北条氏の与党とみられたためその所領はすべて没収されたようです。そのため反国司方として何事か陰謀を策した一族がおり、それを密告した同族がおり陰湿な状況だったことが伺われ、その罪は当時では珍しい連座する内容で幼い子供、妻女も逮捕されたという内容になっています。 佐々木五郎とは閉伊郡(岩手県下閉伊郡)の給主とみられ、妻女達は下閉伊郡内のどこかで捕縛されたものと推測されます。 多田貞綱津軽下向 「四 廿九日到来」 多田木工助貞綱 令レ下ニ向津軽一候 先打ニ向糠部一 使節等相共可ニ尋沙汰一之由被ニ仰含一候令レ会合一 令レ静ニ謐部内一之様 可レ被レ計ニ沙汰一者 依ニ国宣一執達如レ件 建武元年四月十三日 大蔵権少助清高奉 南部又次郎殿 多田貞綱を津軽へ下向させたという内容で四月十三日に国宣が発せられ二十九日に糠部に届いたのがわかります。特別使節という意味合いの多田貞綱は、まずは糠部へ向かい、奉行の師行等と会合をするようにと指示しております。 多田木工助貞綱は、摂津源氏で、北畠顕家と共に奥州下向したが、津軽方面が争乱の兆しとなると北奥羽方面の検断体制の強化を図る目的で派遣されたいわれております。 貞綱の権限は軍事、行政全般にわたるもので検断職奉行の南部師行等の上役として下向したと思われます。 多田貞綱は北奥羽下向後、早くも下記の書状を師行等に発して指示しております。 多田貞綱書状 糠部郡闕所事 一戸 工藤四郎左衛門入道跡 同子息左衛門次郎跡 八戸上尻打 八戸 工藤三郎兵衛尉跡 三戸 横溝新五郎入道跡 南部又次郎殿 戸貫出羽前司殿 河村又二郎入道殿 両三人預申候 能々郡内可レ有ニ御警固一候 諸事御談合候有可レ宜候 恐々謹言 建武元年四月晦日 源 貞 綱(花押) 南部又次郎殿 多田貞綱より発せられた指令書というべきもので、一戸・八戸・三戸の工藤氏、横溝氏の欠所地をとりあえず三人(南部師行、戸貫出羽前司、河村氏)に預けるので郡内の警護は三人で相談するようにとの内容です。 多田貞綱は、持寄合戦では合戦奉行として第一線の指揮者だったらしく、津軽方面にかなりの影響力をもったものと想像されますが、在地勢力の安東氏との仲がしっくりせず、顕家によって国府へ召喚され後に会津方面の検断、さらに足利方となったことが知られています。その後、津軽は南部師行が検断となっております。 |