遠野文武のこと
文の巻
遠野文教と久子翠峰
遠野では、内陸性の性格なのか、はたまた平穏無事に過ごすという平凡を旨とする考えがあったのかはまた別の話ではありますが、武家の間でもこの考えはあったようで「なまじい読み書きが出来ると、殿様の秘密文書の取り扱いを命ぜられ、さらにその秘密を保つために・・・即ちその漏洩を防ぐ為にお手討になって闇から闇へ葬られる・・・」という言い伝えが根強くあって、相当の武家でも「あき盲目で不自由しても、生命に別状ない方が何よりの無事・・・」と子弟に学問を奨める家がほとんどなかったといわれております。
代々の殿様もこれでは遺憾と困り、種々手を尽くして学問の奨励をしたそうですが、奨励すればするほど「さては噂通り、何かご魂胆が・・・」と学問を敬遠する家臣が多く、どうにも手立てがなかったとされております。
ところが時代も下って武士も武芸だけでは身を立てれない時勢となるや、遠野武士達も遅まきながら学問の必要性を感じてきたそうです。しかし、いざ、習おうとしても肝心の教師がいない、遠野当局もどうすることも出来ずにいたそうで甚だ不面目であるが嘉永5年(1852)まで遠野では寺子屋ひとつなかったといわれております。
ただし、重臣達はまさか無学文盲というわけにもいかず、新田、沢里、是川、宇夫方、工藤といった諸家では自邸に私塾を開いて、学問のある浪人を雇ったり、主人自ら教師となって一族、一門の子弟に教授したそうです。中でも宇夫方寂悟広隆、是川彦作の私塾。また沢里佐司馬の兵法軍学、及川五右衛門、工藤大之進の四書講義・・・とありますが、習う方はほんの申し訳程度でお世辞にも盛大ということではなかったと伝えられています。
天保の頃とされていますが、気仙(気仙郡)に久子翠峰という浪人学者がいつしか流れ着いて近在の者に学問を教えているという噂が遠野に伝わると、田口圭一郎と工藤謹之助の二人の好学の士が、わざわざ気仙まで出向いて翠峰を訪ねるとその講義を聴講したそうです。ところがこの講義にて翠峰の学識の高さが想像以上だったので二人は無理やり説得して遠野まで連れて来て家塾を開かせてしまいます。
当時、寺子屋のひとつもなかった遠野では、この家塾は大人気となり、我も我もとその門人となったので、遠野文運の重大な基礎となったといわれております。
久子翠峰は、徳川家直参の旗本だったとされ、早くから秀才の名が高かったといわれ若くして幕府の役人となっていたそうです。しかし、身分が低いため、出世は叶わず、また生来の奇嬌に富んだ性格のためともいわれますが、職を辞したことにより家禄を没収され浪人となったといわれ、諸国遊歴で仙台に至り、それから仙台領の気仙に流れ着いたともいわれております。翠峰は奇嬌に富んだ性格だけあって、大の酒好きで、どこへ行くにも酒樽を離さず気の向いた場所に座っては酒をあおり、その場で高鼾で寝てしまう、さらに眼が覚めればまた酒を飲み、酒がなくなれば酒屋に行って酒を買い、心の趣くまま振舞ったそうですから、一種の奇人に見えたかもしれません。だが、学問だけは流石本場の江戸仕込みだけあって、近隣の田舎学者では到底歯が立たない学識で、傍にも寄れないほどだったといわれております。
当時、翠峰先生といえば弟子達からは神様扱いで、弘化4年、57歳で亡くなるまでの十余年間で、遠野門人千人を数える盛大な塾で、江戸藩政時代の遠野では後にも先にもこれほどの門塾はなく、遠野文教中興の祖とされております。
信成堂
嘉永5年、遠野では初となる公立学校、すなわち藩学校・信成堂が創立されました。遠野文教中興の祖、久子翠峰亡き後、高まっていた文教等を廃れさせてはならないという考えから、翠峰門下の三秀といわれた田口圭一郎、工藤謹之助、江田重威が領主、南部弥六郎済賢に上書して学校創建を献言したそうです。遠野政務当局もその必要性を感じていたところだったということで直ちにこれを認め、鍋倉城下大手橋付近にあった武芸鍛錬所を改修して信成堂と名づけて開校いたしました。浦賀にペリーが来航する一年前のことです。
教授は田口、工藤、江田の三名で教師団の中核を成し、その下に助教を置き、宇夫方文吾、河野平太夫、米内真澄の三名、さらに助教の下には授読を置き、下読みとも呼ばれ、初心者に仮名文字から教える役で家士15名がおりました。
科目は一般的に学問が主でしたが、武芸の科目もあり、武芸師範も存在したそうですが、これらの師範達の名は伝わっておりません。
信成堂の教授方法ですが、門人の年齢は15歳から30歳位までとされ、学力も十人十色、従って生徒各自の能力によって段階をつけ、例えば一年生には二年生が教え、二年生には三年生が教えるといった方式で、高学年が教師団から教わるといったことでもあり、さらに授読の教師であっても生徒兼務でもあって授読は助教から、助教は教授から教えられると仕組みでもあったので、高学年に行くほどクラスは少なくなり、大変成績が上がるといった成果があったといわれております。
生徒は武家の子弟がいわば強制的に入学、町家の子弟も学問の志があるものは入学することができたそうですが、しかし階級制度の強い時代でもあるので町家の子弟と武家の子弟との取り扱いにも問題があってこれらの入学は色々あったとされ、いわば有名無実の事柄で、記録には武士以外の子弟の入学はなかったとされております。
信成堂の経費は領主から五百石を宛がわれたとされております。教授には役料が与えられ(一人扶持・玄米二石)、その他の教師には盆暮に銀子数枚が与えられたといわれています。
信成堂が他領まで名が聞こえる存在となっておりましたが、これは教科書の学庸、論語、孟子、朱子、教条等を皆遠野で印刷製本出版したということです。さらに徳川幕府の文教政策は四書五経の出版はすべて本藩直接でしか出来ない事とされているにもかかわらず、支藩規模の遠野で出版したということで、他領ではたいへんな驚きだったと伝えられております。
文武修業宿
文武修業塾は、藩校、信成堂と相呼応して開塾されてもので、知識、技能を広く求めるという見地から他国他領から遊歴して来た文人、武芸者、さらには舞踊等の演技者に至るまで何日も無料で滞在させ、その才能によって信成堂の客員教師として教えを頂くというものでした。
その経費は信成堂ど同じで五百石、その管理は華厳院主の館林氏に委任し、館林氏は宿泊する他国からの文人、武芸者の能力を審査し、その滞在にあたっての待遇を審査をしたといわれております。
さて、この文武修業宿の名声は日増しに高まり、広く全国に鳴り響きました。その結果、遠方の他国からも訪問するものが続出、これがため遠野は思いがけないほど文化水準が上がり、その勢いは藩都盛岡を凌ぐ勢いで、しかもわざわざ奥州の片田舎の遠野まで来遊する面々ですから、訪れる者の中には全国に名が知れた人物もおり、那珂道高、太田代恒徳、甲州軍学者の小幡景安、会津藩士で馬術の達人、馬場則遠・・・がおります。
このように文武修業宿が高名となるとなかにはいかがわしい食い詰め浪人や、この機に遠野侍に仕官をと目論む者達と様々あって、遠野当局ではこれらの輩を追い払うのに苦労があったともいわれています。
当時は幕末の時代、幕末の動乱の嵐が強まりかけた時勢でもありますが、尊王攘夷を掲げる輩も沢山やって来て信成堂に行っては自説をなんの遠慮もなく宣伝するので皆困惑したとも伝えられています。
長州の浪人、小倉鯤堂なる人物が漢学者という触れ込みで遠野入りすると盛んに諸家を訪問して自説の尊王攘夷論を力説したとされますが遠野諸士達は本藩や当局の思惑に遠慮し、なかなか反応を示す者は皆無であったので小倉は「遠野侍は田舎者の世間知らずの馬鹿者だ」と悪口をはじめる始末、こうなっては長く遠野へ留置くこともできず、お引取りを願ったともされております。
文武修業宿の評判はさらに高まりますが、後には町人の和歌、俳句、踊り、小唄の芸能人も訪ねるようになりました。これらは宿に滞在させるわけにもいかず、町家に富裕の家が交代で奉仕的に宿を引き受けたので、芸能関係も盛んになり、これらの風評は明治になっても続き、文武修業宿が廃止になっても芸能人の来訪はあり、芸能のメッカとして全国的に有名になったともいわれております。
武の巻
遠野軍学のこと
軍学は武士の最も磨くべく事柄で、遠野でもその勉学はそれなりに盛んではありましたが、武芸とは違って軍学兵法となればその家柄、身分によって必要性の度合いが違うものでもありました。
いざ合戦ともなれば采配を執って家衆を指揮する者、さらに一部隊を指揮する者、総軍全般にわたる指揮を司る者があって、各々習うべき内容が異なり、盛んだったという割には低調であったといわれております。
また家によってそれぞれ流派があって、しかもこれらは一家の秘伝に属するもので決して他家には教えなかったというのもその原因でもありました。遠野軍の軍師的家柄の沢里氏は府川流、先鋒を承る福田家は甲州流、後備の中館氏は小幡流、総軍を指揮する新田氏は長沼流といわれておりますが、先にも記述したとおり他家に教えることはほとんどなく、また盛んということではなく、それらの一族間にての研習に限定されておりました。
弘化4年(1847)時の盛岡藩主、南部利済により盛岡藩軍総動員の命が発せらられ、盛岡郊外茨島(現盛岡市青山町)において大調練、すなわち大演習が挙行されました。これは蝦夷地にロシア船が出没したり、国内でも外国船が近海に姿を頻繁に現すご時勢でもあって、まずはロシアとの戦いに備えた大軍事演習ともいわれています。
陣立は関ヶ原の戦い当時とほとんど変わらず、近代の戦い、また後の戊辰戦争での西軍との火力の差などを知っている現代の人間にはなんとも滑稽な戦法ではありますが、当時の武士達は大真面目で、これで戦えると本気だったともいわれております。
全軍3千5百人余、盛岡藩軍の総軍に等しい数が動員された大演習で、先鋒は三戸衆、指揮官は戸沢駿河と横山兵庫。前備は桜庭肥後指揮の七戸、九戸衆。右備は奥瀬内蔵。左備は漆戸滝口。旗本勢は楢山帯刀、向井大和を大将に総大将の藩主の本陣の備え。御馬廻に栃内瀬蔵、原直記、田鎖六兵衛、高屋長門等が手勢を率いて総大将の身辺護衛の任。後備は花巻衆で指揮は北土佐、東雅楽之助という陣構であった。
肝心の遠野軍は、浮軍と呼ばれ、いわば遊軍という位置づけで予備軍であったが、遠野軍はいつでも遊軍となるのが常でもあったようです。遠野軍総大将は、領主、南部弥六郎済賢、当時は義普とまだ名乗っていたそうです。遠野軍は中野吉兵衛率いる紫波勢と共に左翼に備えていたそうで、万が一の場合は先陣にも旗本にも加勢できる態勢とされています。
さて、その大演習の内容は、まずは大砲隊の連打を合図に全軍3千5百が一斉に行動開始。当時の戦法は大阪の陣以来の戦法そのままで、まずは鉄砲隊の一斉射撃で合戦の火蓋を切ると、その硝煙燻る中を長槍隊が槍襖を作って進撃をする。その背後からは弓隊、鉄砲隊が各個射撃で敵勢を攪乱し、そして乱軍となるや戦国時代からその勇猛を誇る南部騎馬軍団、馬上槍隊が集団となって突進し敵陣を一気に蹂躙するといった戦法で、この日の演習も大方、この方式だったと伝えられる。
余談ではありますが、20年後の戊辰戦争、秋田方面へ攻め込んだ盛岡藩兵は、概ねこの時と同様の戦法で攻め込み、当初は勝利を収めたが、最新銃火器装備の西国兵にはほとんど通じず、以後敗退を繰り返すのみだったのです。
遊軍たる遠野軍は、演習も最高潮となった頃、本陣から伝令が到着、「遠野勢は戸沢殿の後詰をなされ候・・」の命が伝達される。すなわち先陣である戸沢勢に加勢せよの命令であるので、侍大将であり遠野軍の軍師たる福田諸領は「畏まって候」と応えると、かねてからの手筈どおり采配を振るって「かかれ・・かかれ」と大声で下知すると、遠野南部家自慢の馬上槍隊が真っ先に一塊となって疾風のように先陣の戸沢隊の前に躍りでると鉄砲隊、弓隊が横様に仮想敵を射撃しながら戸沢隊の前面に到達、長柄槍隊も密集体系で穂先を揃えて突進、遠野軍は先陣の戸沢隊の前面に至ると先陣を交代した。
遠野南部家馬上槍隊、南部家自慢の主力部隊であり、遠野南部家もまた八戸時代からこの騎馬隊を誇りとしていたものである。今回の演習では、見事な戦法を披露したので、他の隊は遠野軍の活躍に目を見張り、中でも土佐浪士で中島徳兵衛という盛岡に食客の兵法学者は、その見事さに感じ入り楢山帯刀に「これこそ武田信玄の川中島での実戦的戦法で甲州流軍学の真骨頂と・・」と激賞したので、遠野侍は鼻高々だったそうです。遠野の軍学は盛岡藩内では有名であったのは確かなことでもあり、陪家にして倍家にあらず・・と長年いわしめた家格が口だけではなく態度としても表われていたものでもあります。
遠野調練のこと
元治元年(1864)、まさに幕末の激動の時代で、ことに江戸や京都は尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、京都では新撰組が活躍し、遂に長州勢と徳川方が戦端を開いた禁門の変が起こった年でもあります。
このように中央での激動する時代であっても遠野ではそれほどこれから訪れる自らの運命や時代急変の事柄もほとんど感じることはなかったようですが、それでも何かしらこれらの気運は伝わり、遠野では空前にして大規模な大調練が行われました。
時の藩主は美濃守左近衛中将、南部利剛公でしたが、天下の情勢が伝わりにくい奥州の地であっても安閑としていることは許されないとし、藩内各地の兵備視察の名目で各地に赴き、遠野にも視察で来ることになり、このことで調練となったということです。
さて藩主一行は4月11日に盛岡を出発、翌12日夕方遠野入りし、鍋倉城には入らず城下の金沢屋を宿とし、13日には武芸百般御覧、14日にいよいよ早瀬河原での実戦調練統監という日程だったと伝えられています。
いよいよ調練の当日、会場となる早瀬川の河原は近在の百姓、町人までもが弁当持参で見物に押し寄せると、遠野外の気仙や藩内の釜石方面の沿岸からまで見物客がやってきたといわれています。
太鼓の合図で調練の諸士は鍋倉城城門前の広場に集合、次の太鼓の合図で一同うち揃って早瀬川へ向かったとされ、この陣立は遠野軍の基礎的な陣立とされ、遠野軍最強の編成であったといわれています。この時の編成表は現存しているそうで、私の手元にも参考とした書籍に掲載されておりますが、割愛させていただきます。
鉄砲隊25人・長柄槍隊10人・騎馬槍隊15人、弓隊20人
服装は騎馬隊は先祖伝来の甲冑に陣羽織、その他は腹巻の上に揃いの陣羽織姿で人数こそそれほど多くなかったが壮観に映ったといわれております。
午後一時頃、いよいよ調練開始となり、総指揮は家老の沢里佐司馬主膳、しかし実際に采配を執ったのは番頭の工藤紀内であったそうです。
まずは河原を各小隊、旗を合図に一進一退しながら運動調練後、いよいよ戦技の実演となりました。
最初は鉄砲隊25挺による一斉射撃、一同一列横隊となるや折敷姿勢で一斉射撃となり轟音が響きわたり見物客も度肝を抜かれる凄まじさ、ひとり三発まで発射したのですが、見物客、巡察の盛岡侍含め驚いたのは最初だけ、当時は旧式の火縄銃のみであったので、二発目発射に至るまで早い者で5〜6分、各人の技量が大きく作用し三発発射までは実に20分も要したとされ、盛岡藩鉄砲奉行、赤前四郎太夫からかなり厳しい評価がされたそうです。
工藤紀内の采配で鉄砲隊が退陣すると入れ替わるように長柄槍隊10名が槍襖を作って気勢をあげながらドッと押し出すと、標的の藁人形に三間の長槍を気合と共に突き刺す・・・・これは何の雑作もないものと映るものですが、実際は狙ったところを突き刺すことは難しく、これを突き刺してはすばやく抜いてまた突き刺す、これを3度繰り返したとされますが、皆大汗で息も途切れがちだったそうです。
長槍の後は弓隊が登場、20名の射手が一列に並んで的に向かって矢継ぎ早に10射を行ったそうですが、そのほとんどは的に命中、盛岡からの軍事専門家はこの技に驚き、弓隊の面々は男をあげたそうです。
そして最後は遠野南部家最強でしかも主軍の位置づけ、馬上槍隊の登場です。各人先祖伝来の甲冑に身を包み、手綱は腰に結びつけ、両手で九尺の手槍を持つと馬の平首にそえて構え、一斉に発進、黒い塊となって疾走する姿は実戦さながらの迫力があったそうですが、しかし、途中、落馬する者が二名あって、後で重臣から大目玉をいただいたそうです。
この後は大砲の各流派の実射で調練は終了し、南部利剛公はこの後釜石、宮古と沿岸を巡察されて盛岡に帰られたそうです。
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