| 南部藩治世、遠野のこと |
| 岡前騒動 |
| 岡前宮内・・・ 遠野南部氏が八戸時代からの譜代の重臣にて、遠野南部氏(八戸氏)を裏表にわたって支えた家門の家柄で、遠野へ移封前後の遠野南部家では、三指の高禄(350石)、さらに実力は第一ともいわれております。 このため、岡前家の長年にわたる由緒、家柄に傷をつける大事件でもありますが、実はこの騒動の関しては何の記録も存在しないものとされ、ただ数百年にわたる伝説的な物語めいた事柄として語り継がれてきたとされております。 しかし、この事件は紛れもない歴史的事実であり、記録的な文書がなくても、遠野の民衆、また武家達によって後世大切に語り継がれたといわれるものでもありますし、長い年月の間には多少の尾鰭が付く、語り落しは勿論考えられることではありますが、それでも内容の真実性は失っていないともいわれております。 寛永11年、遠野を二分する大騒動と発展する事件があったと伝えられております。その騒動の中心人物、岡前宮内は遠野南部家において足軽奉行と軍奉行を兼務し、いわば当時の遠野地方の防衛庁長官とでもいいましょうか、軍事全般の指揮権を握っていた人物でもありました。 事件は、後から考えれば解決の道はいくつもあったものと思われますが、当時の武士の面目など、その気性などをよく表したものなのかもしれません。 ※当時実在した人名が登場いたしますが、その御子孫は現在遠野に在住している方々もおりますので、姓名のみ記述いたします。 時は寛永11年と伝えられますから、初代、八戸(遠野南部)直義の治世で、南部藩では三代藩主、南部重直の頃で、南部重直公に供奉して直義公が江戸に参勤していたときといわれております。 ある日、江戸南部屋敷の長屋にて祝事があって、諸士達が多数招待され、いよいよ祝膳になろうとした時、岡前宮内の組下の山尾某が頼まれもしないのに自ら進んで席順の事など何かと指図、世話をしていたが、そのうち誰からもわかる失態をしてしまった。山尾某はごく身分の低い従侍であったが中々学があって、無学揃いの遠野侍にあっては珍しい存在で、これがため、同輩からは注目されてはいたが、当人はこのことを鼻にかけ、何のときでも出しゃばり、口を挟むのでいつしか皆から鼻つまみものとなっていたと伝えられています。 この江戸屋敷での山尾某の出しゃばりが何かと気に入らなく思っていた勘定方の小笠原某は、山尾某の失態を横合いから大声で指摘して訂正させたまではよかったが、いつもの出しゃばりを面白くなく思っていたのか、つい憎まれ口を利いてしまった。このことでいつもの山尾某の態度が気に入らない面々は、小気味よく一本取られる姿が痛快がり、ことさら周囲の笑いも大きなものとなったので、山尾某はすっかり面目を失ってしまったそうです。 座の笑いも一時のこと、皆はそのことをすっかり忘れてしまっていたが、当の山尾某だけは苦笑して頭を掻けばよいというものではなく、腸が煮えたぐる思いで、気分がすぐれないとの理由で中座し、その足で組頭の岡前宮内を訪ね、「平常のご教示通り処置いたしたところ、小笠原某のために屈辱を与えられた」と報告、この時、多少の尾鰭がついたものと思われますが、讒訴に及んだとされています。 岡前宮内は元来物に動じない大人物の風格を備えた気性といわれており、組下にはたいへん人望があって、平常ならこのような讒訴など歯牙にもかけるような人物ではなかったそうですが、この時は、どうした訳か虫の居所が悪かったのか、この讒訴を聞くと山尾以上に怒り出して「事の始末はともあれ組下の恥じは大将の恥、恥辱を受けたまま泣き寝入りすることは武士の面目を捨てるも同然、この恥じは是非そそがなくてはならない」と言うと、今は暫く忍んで機をみて仇討ち致そう・・ということでこの時は一応事が終わったと伝えられている。 さて、南部氏の参勤も終わり国許に引き揚げることになり、一同盛岡に無事到着、遠野武士達も遠野帰還が許され、一同喜んで夜道をかけて遠野へ帰国したが、岡前宮内だけは盛岡に一日長く滞在した後、遠野へ帰った。そして遠野へ帰着するや自分の屋敷にも入らず、その足で小笠原某の家に行き、「上意により切腹申し付ける・・・罪はその方に覚えがあろう、本来は放し討ちに致すところではあるが武士の情けを以って切腹を許す、速刻にも切腹いたせ、上意により見分致す・・」と迫ったとされています。 仰天したのは小笠原某、寝耳に水状態、すっかり驚いてしきりに切腹の理由を岡前に問うが、「罪はその身に覚えがあろう・・」と繰り返すばかり、さらに「上意、上意・・・」を連呼され上意ならば致し方ないと腹を決めるも、突然のことなので家内や親類縁者と最後の訣別をしたいと懇願、なんとか晩まで切腹は待ってほしいと涙ながらに額を畳に擦り付けて願ったので、流石の岡前も晩までの猶予を約束し、足軽ひとりを監視につけて自邸へ帰った。 さて、岡前が帰った後、小笠原はいくら考えても切腹しなければならない罪状を思いつかない、理由もわからないまま切腹したとあっては死んでも死に切れないと思うと、監視の目を盗んで裏口から裸足で逃亡、その足で、今回の江戸参勤では遠野の留守を預かっていた、仕置家老の松崎大学の屋敷に駆け込むと何の罪あっての切腹かと訴えでると、松崎は驚き、「それほどの重大な事を留守を預かる拙者に一言もない法はない」と言うと、「事の次第を盛岡の直義公に早馬をもってお伺い致す故、それまで切腹には及ばない」と言ったので、小笠原は安堵して自宅へ戻った。 一方、岡前宮内は監視役の配下から小笠原に逃げられ、その上、松崎大学の屋敷に駆け込んだとの報告を聞くと「しまった、この上は闇討ちにしても討ち取らなければ面目が立たぬ」と言うと配下の組下、足軽の50人ばかりを集めて小笠原の家を夜襲することとしたが、50名からなる人数が岡前屋敷に集まりいかにもどこぞやに攻め込むといった雰囲気であるので、たちまち小笠原の耳にも達し、またまた小笠原は仰天して、妻の実家である馬場某の屋敷に家族もろとも逃げ込んだといわれています。 舅である馬場某は、話を聞くと大いに怒り「いかに岡前殿が軍奉行の御役目にあるとて、理不尽は許されぬ」と無体な狼藉を致すならこちらにも覚悟があると言い放つと、方々に使いを走らせ、親類縁者の助勢を求めると、いずれも武器持参で馬場某の家に参集し「岡前来たれ」と迎撃態勢を整え、馬場の周囲は殺気立っていたとされる。 こうなると今度は、岡前の縁者も黙っているわけもいかず、「岡前殿御自身が乗り出す程の喧嘩とあっては、見過ごすこともできぬ」というとこちらも甲冑姿、武器持参で加勢となるや遠野町は蜂の巣を突いたような騒動となった。 当の岡前は思いの外の事態に発展したので、心中は後悔の念だったと伝えられますが、しかし武士が一度、決断したことであり、「事の善悪、得失の是非はともあれ、かくなった上は、初一念を通さでは武士の面目に拘わる、是が非でも小笠原を切腹させねば意地が立たん」と言い張ったといわれています。 岡前の主張は現代人には無法と捉えられる内容ですが、当時の武士の間では、原因がどうであれ、仕掛けた岡前に分が悪いものでもありますが、その後の武士の面目等はごくありがちな気性、理屈とされ、岡前の主張を多くの遠野武士達が支持したとも伝えられております。 双方武器を携え甲冑姿、岡前方が馬場某の屋敷に攻め込めば、まさしく本物の戦闘となってしまう、岡前は一計を案じ、双方に縁のない是川某を担ぎ出し、是川は馬場の屋敷に入ると「事の理否はともあれ、この戦同様の事態を鎮めるには小笠原某の覚悟ひとつである」と暗に小笠原の自決を勧告させるものだった。小笠原もとんだ災難とはいえ、記憶を辿っていけば山尾某との江戸でのやりとりがその一番の原因と気付き、自らも少なからず責任を感じたとされ、「自分ひとりが腹を切ることによって家中二分しての騒動が鎮まるというのであれば、不本意ではあるが喜んで腹を切ろう」と言うと自宅へ帰るや即、切腹して果ててしまった。 小笠原の切腹で岡前宮内は面目が立ち満足したものの、しかしこれほどの騒動となり、ただで済む筈もなく、特に留守家老、松崎大学が自分の意思に反して何の罪もない小笠原某が切腹させられたとあっては役目柄ただ見過ごすことも出来ないとし、盛岡の直義公へ事の次第を報告、「騒動の責任は半分は我にあり」と進退伺いまで提出したが、これを聞いた八戸直義公は、以ての外とばかり怒り、「例え累代の宿老の岡前とて、このような自分勝手な無法は許せぬ、喧嘩両成敗の律法を以って処分せよ、命に背くなら放し討ちにせよ」と厳しい命令を与えた。つまり小笠原某が切腹、喧嘩両成敗の理法からすればいかに累代の重臣たる岡前でも切腹させよというもので、これを拒んだら討ち取ってもよい・・という内容でもあります。 当時は岡前宮内の積年の功労から遠野家中では重きを成す存在でもあり、その勢いもまさに絶頂期であり、遠野の重要な役職は岡前宮内の縁者、縁故の者にほとんど占められていたといわれ、このためどんな機密事項、秘密もいち早く耳に入るもので、この喧嘩両成敗、ことによっては討ってもよい」との内容を知ると「例え非は我にあるにせよ、座してむざむざ討たれるわけにはいかない」として「討てるものなら討ってみよ」の徹底抗戦の構えをみせると家族は遠い知己を頼りに立ち退かせ、自らは武具着用、持参で腹心の部下5名ほどを引き連れて附馬牛の東禅寺に駆け込み、本堂裏の土倉の中に立て籠もったとされています。 当時は徳川治世が安定期に入ったばかりではあるが、まだまだ地方では戦国の気風が抜けきらない時代でもあり、罪人が討手と戦い、これを破るなり切り抜けでもして司法権が及ばない他領にでも落ち延びれば、その罪が消えるばかりか、武士の意地を通した剛勇の士と賞賛され、他家に召抱えられる可能性も秘めていることから、岡前宮内は遠野南部家による討手と戦い、首尾よくこれを切り抜けて仙台領にでも落ちようとする考えでもあったとされています。 さて、当時、遠野に葛西七人組といわれる浪人の一団がありました。磐井郡東山(現東山町)の出身といわれ、天正年間に主家葛西氏が没落、遠野の阿曽沼氏を頼って遠野入りしたそうですが、間もなく阿曽沼氏も没落したため、仕方なく遠野に居を構えて暮らしていたのですが、間もなく遠野南部家が遠野へ入部すると、岡前宮内が自らの扶持を与えて非公式ながら自らの配下へ組み入れた者達であった。 この七人組、岡前宮内が東禅寺に立て籠もったと知ると、日頃の恩に報いる時とばかりに東禅寺へ駆けつけ、岡前宮内への加勢となるや、同じく岡前氏の推挙によって遠野南部家に召抱えられた武士達がこのことを知ると皆うち揃って東禅寺へ加勢に駆け付ける。こうなると親類縁者も黙っているわけにもいかず、その縁故の者、ほとんどがまたもや加勢となり、放し討ちといっても、戦いとなれば戦争規模の様相を呈していたと伝えられています。 遠野南部家では討手として軍勢を差し向ける他、手立てもなく、しかも軍勢を動員したとなれば藩当局、さらに幕府からどのようなお咎めを受けるかもわからない、松崎大学も頭を抱えてしまったそうですが、まずは再度、当主の直義公に報告を行い、指示を仰いだそうですが、直義公はまさに激怒し、本来は岡前家の長年の功績により内々に事を済ませようと考えていたが、一大勢力となってあくまでも一戦もやむなしの態度であれば、仕方なしに正規の手続きを以って討手派遣とならざるを得なくなってしまった。しかし、正規の討手軍派遣となれば、幕府からの許可も必要で、さらにお家騒動的な事柄でもあり、遠野南部家のみならず宗家盛岡南部家も相応の処分は免れないことでもあります。しかし、事は急を要し、一日の躊躇はその分だけ事態の悪化を招くことでもあるので、盛岡当局では幕府への許可申請に早馬を走らせ、一方では藩の大目付、長崎藤兵衛を遠野へ派遣して遠野軍を動員、討伐軍の監督役となり、いよいよ東禅寺総攻撃のための総動員令が発令となりました。 遠野では上に下へと戦支度がはじまり騒然となったが、岡前宮内の縁故の者の中でも岡前勢の加勢に駆けつけない者達もいたが、総動員で東禅寺を攻めたら、岡前のみならずその縁の者達までも討ち取られるのは忍びないと口々に言うと、またもやそのほとんどが東禅寺に馳せ参じたので、討手軍は出鼻をくじかれた形となりました。さらに東禅寺の住職が征討軍の本営を訪ね、城攻めとなれば焼き討ちは常道の方法となりますが、当山は阿曽沼時代からの大伽藍の寺、また南部守行公の菩提寺でもあるので、火攻めだけは御免願いたいと懇願されたので、討手軍もすっかり困り果て作戦変更を余儀なくされ、このことでも気勢があがらなくなった。しかも、昔から遠野南部家(根城八戸)は抜け駆けを得意する戦法でもあり、(味方に先んじて敵に挑戦することを名誉としていた)岡前方へは多くの知人や縁者も居る、これほど戦いにくいものもなく、また岡前方に加勢した者の中には当地方を代表する剛の者達もいて、一騎撃ちでは勝ち目がない、討手軍は討伐の決め手を欠いたまま連日、困った、困ったと毎日評定ばかりで事は進展しなかったそうです。 盛岡から派遣された長崎藤兵衛は、いつまでも困った困ったでは済ませられない、強いては遠野南部家のお家騒動がためにその責任の一端を負わされるのも心外であり、東禅寺を包囲してから4日目、ついに強襲を指示、討手軍全軍による総攻撃を命じようとしたが、ここへ遠野南部家番頭格の工藤某が本陣を訪れ、「討伐の目的は岡前宮内只一人、総攻撃ともなれば義理で馳せ参じて加担した者まで皆殺しにしなければならなくなる。拙者は罪なき者達まで殺されるのは忍びない、そこで岡前宮内を説して反抗を止めさせようと思うが、もし宮内がひとり反抗を止めて出てきたなら後の者達は許してくれぬか・・」と申し出たので、長崎はまずは期待はしなかったがこれを認めたので、工藤某はひとりで東禅寺に入り、住職に取り計らいを願って、岡前宮内と会談となったといわれています。 工藤は岡前宮内と会うと、遠野家中が真二つに分かれて知人、縁戚が敵同士となって争う姿を苦慮する事柄を述べると、「貴殿の意地が立派に通ったのだから、この上、事を大きくして家中を騒がすことは本意ではあるまい、また大軍に包囲され一戦に及んでも勝ち目は無きに等しい、今までの貴殿の功績は無きに等しいものとなり、ただの謀反人、逆臣の名を残すのみとなってしまう。貴殿の先祖累代に渡る忠孝、功績は殿とてお忘れあるまい、今回の原因は些細な武士の意地の張り合いに過ぎないこと、事が穏便に解決されたとなれば殿もまた盛岡から遣わされた長崎殿もけっして貴殿を粗略に扱いはしないだろう・・・」と物静かに言うと、岡前宮内は、内心は後悔の念でいっぱいだったのか、顔色にそのことが出たとされ、工藤も山は見えたと思うと、葛西七人衆や岡前の口利きによって仕官が叶った連中を叱りつけ「そなた達が加勢してこうして立て籠もっていると岡前殿は本当に謀反人になってしまう、討伐されても仕方ないものとなってしまう、岡前殿の武士道を立てようするならばここは先んず寺を出て殿に逆心なきことを示すべきである、拙者もそれがために力の限り尽力いたす」と言うと、葛西七人組等は納得した様子で、「岡前殿はいかが」の問いに、岡前も「同士の方々も事を穏便に治めようと望まれるならば、拙者ひとり武士の意地を張っても仕方ない、拙者も方々と共に寺を出よう」というと大刀を座に置いたまま丸腰で土倉を出、工藤の先導で岡前方に加担した者たち全員が寺から出てくると、討手軍も声を挙げ、手を打ち、足で踏み鳴らし、歓喜の声で出迎えたそうです。 工藤の説得で流石の岡前宮内も欺かれ、武器を捨てて降伏となったが、直ちに籠に乗せられ中館精助の屋敷に移されました。加担した者たちは沙汰あるまでそれぞれ自分の家にて謹慎となり、まずは一同安堵したとされています。こうして遠野を震撼させ家中を二分して合戦に発展しようとした事件が、しかも死傷者もなく治まったので遠野を挙げて喜びあいました。 軍監の長崎はその日のうちに早馬で盛岡に帰還、早速藩当局からの後始末等の指示を仰いだが、事は遠野南部家中に起こった騒動、弥六郎直義公を中心に藩首脳で評議した結果、北久兵衛の発言が左右し、また藩首座家老の中野修理がその意見に賛同したので、ご法度通り、岡前宮内は切腹、家名断絶の厳刑、加担した者たちはむしろ義に厚き者として賞賛されお咎めなし、と決まりました。 長崎はその決定をもって遠野へ再訪すると八戸弥六郎直義の名を以って今回の処分を伝え、岡前宮内は切腹しました。岡前一派は工藤に騙されたと悔しがったとされますが、岡前宮内は切腹を前に「欺かれことは拙者の洞察不足、不覚の至りではあるが、逆の立場なら同じことをしたに違いない、工藤を恨むのは筋違い」と大笑いした後、見事に腹を切ったそうです。 岡前に加担した者たち、葛西七人衆は義理を知る誠の志あるもの・・と賞賛され工藤が約束したとおりお咎めはなく、かえって御酒肴料までいただき、大いに面目を施したそうです。 今回の騒動での一番の手柄は工藤某ですが、功賞の記録はひとつも存在せず、岡前派の恨みは工藤に向けられた可能性もあり、これらを刺激しないよう褒美は表向きなかったものと思われます。 一方、騒動の発端となった小笠原某、切腹したとはいえ何らかの処分となるのですが、罪なくして死んだと家中に同情され、自分一人腹を切って済むならばと切腹したことを賞賛され、子息の相続が許され、しかも岡前宮内の屋敷がそのまま与えられたそうです。これは岡前屋敷そっくり与えられたもので家財道具の類もそのままということで、皆がたいそう羨ましがったそうです。 小笠原の先祖は、八戸時代の根城八戸当主、18代八戸政栄の側室が政栄の子を宿したまま小笠原家の嫁になり、その生まれた子が小笠原家を継承、殿様の血縁者として相当重くみられたそうですが、しかし、この時代となってからは40石余りの中士で、勘定方を勤めながらも自らの先祖や血筋を考えると現在の身分、役柄に不満がり、自分より格下の山尾某の言動が気に入らず、今回の騒動の原因を作ったものと噂されたそうです。 ところが、処分等も執行され騒動が人々から忘れ去られようとした時期、今度は小笠原家に対する恩恵が当初、羨望だったのが、いつしか不公平という批評に変化し、家中は何かしら不穏な空気が漂いはじめたといわれております。 岡前家は八戸時代からの重い家柄であり、縁者は有力な者達が多く、一方の当事者が切腹したとて屋敷をそのまま与えられ、お咎めなし・・とは・・と公然と批判する者まで出始め、そしてこのままでは死んだ岡前宮内も成仏できないだろうということで、敵討の噂まで出る始末、岡前派と小笠原派との確執が徐々に強まっていきました。 ところが、とある夜、小笠原の家隣の木村家から火が出たのですが、遠野武士のほとんどが現場に駆けつけて消火活動をしたので幸いにも大火にならずに済んだが、この機とばかりに岡前派の内田某がいきなり抜刀して小笠原邸に斬り込みを敢行、するとこれを見ていた岡前派の同士が遅れじとばかりに同じく抜刀して斬り込むと小笠原派でも異変に気付いて抜刀して応戦、しかし暗闇の中で敵味方の区別がつかず、内田は仲間に誤って斬られたとされ、斬られた内田は「俺は内田だ、味方討ちするな」と苦しそうに連呼したので、岡前派は内田を助けて引き揚げたとされます。しかし内田は後日、この時の傷が元で死亡、さてこうなると後始末が大変です。抜刀しての斬り合いは、有無をいわせず喧嘩両成敗、ましてや一方が死亡したとあっては、どちらも連座制が適用され、厳罰が処せられるのは明らかでもありました。今更ながら双方共にすっかり困り果て、深く後悔したとされてますが、何を思ったか斬り込んだ側の及川某が一人責任を負って切腹してしまった。襲われた小笠原方では死傷者もなく当の小笠原の息子も健在であるので、さらに二名の犠牲を出した岡前派にさらに狙われる可能性もあり、家老達は、後に切腹した及川某を首謀者に仕立て上げ、とにかく及川にその責を負わせた形にして収拾を図ったとされます。小笠原家は岡前宮内の屋敷を取り上げられ謹慎処分となりました。 及川某・・・及川善右衛門といわれております。葛西浪人の出と伝えられ小友金山奉行を務めた人物です。 今回の事件での関係者は皆、胸を撫で下ろしいつしか及川の石碑が建てられ、墓前は花が絶えることはなかったそうです。 及川の切腹でなんとか事無きを得た感じでしたが、それでも両派の反目は続いていたとされています。遠野の重臣達も悩んだ挙句、岡前家の家名再興が一番の良策と考え、直義公に献言するとその許しを得て岡前家を再興することになりました。 今度の騒動以来、青笹の糠前村に隠遁していた岡前宮内の異母弟を召しだして、この人物を以って家名再興とし、家禄百石として宮守、佐比内(現紫波町佐比内)の代官に任命したそうですが、この人物はなかなかの学と見識を備えた人物だったとされ、「罪あって切腹を命じた者の跡を、なんの功もない者をお取立てになったとあっては、後々までのご政道の邪魔になる」と言うと、家名再興は世間への見せしめのため、家名は断絶のままでけっこう、自らは岡前の家名を捨てて「岡」と改姓、また百石の禄には不足はないが先祖伝来の350石を失った上は、新たに功をたてて頂くのならともかく、百石の禄は辞退いたすというと、代官の役料のみ拝領したと伝えられております。 この岡前宮内の弟こそ誠の武士と皆が感嘆し、これ以来、騒動の余波も沈静化したそうです。 しかし、この岡前騒動は後々まで色々な方面に影響あったとされております。 |