遠野治世のこと
遠野武士のこと 壱
鍋倉城(横田城、遠野城)

 遠野南部家の居城、鍋倉城・・・しかし正式な名称は横田城であり、当時、城があった地は横田村と呼ばれていたので横田城と呼ばれたものですが、後に横田という地名はなくなり、鍋倉山に城があったので鍋倉城が一般的になったということです。
 鍋倉城は前領主、阿曽沼氏第13代、阿曽沼広郷が天正年間に築城と伝えられ、間もなくの豊臣秀吉時代、南部信直の附庸となり、南部家傘下になりましたが、一国一城主義においては表向きは廃城となり、一般的な城というイメージ、すなわち天守や矢倉などの戦闘的な建築物はなかったとされ、ただ大きな屋敷が四つ、家老格の屋敷があっただけといわれています。まさに戦国時代特有の山城であるが、本格的に戦時用の工作物を設ける以前に南部家の影響下にはいったもので、また徳川時代でも同様の政策でもあったので、表向きは改修工事もされてないものでもあります。
 徳川時代の中頃といわれますが、幕府の巡検視が遠野へ来た際、「この城は以前から城と申しておったのか」と城代家老、新田小十郎に問うと、新田は「古来より城と申して参りました。猿ヶ石川、早瀬川を外堀とみなし、来内川は内堀、その間には町屋が控えております。内丸には正面に本丸、出丸に三の丸があって、中舘、福田の家老屋敷、搦手の二の丸は城代の新田が守備し、城の防備としています」と答えると、巡検視は「左様か、なるほど城と申すは道理でもある」と納得したとされますが、後に古記録を研究された方にいわせると、城かの問いには、徳川幕府の一国一城主義に違反していない旨の弁明に終始していたことが指摘されている。
 藩主、南部利敬も以後、城と呼ばないように以後館と申すこと・・・と遠野側へ指示したともいわれますが、遠野では武士は勿論、町人、百姓まで館とは呼ぶものは一人もなく、以後も公然と城と呼び今日に至っているといわれています。
遠野武士の食禄と暮らし

 鍋倉城が本来ならば遠野治世の政庁となるべきところですが、城主の殿様は盛岡城内の遠野屋敷に居住し、藩の政務を執っていたので、城はただの留守居の役人がいるだけで、治世に関連する政務的はことは実際ほとんどしていないのが実情でありました。城へは諸士達が交代で詰め、仕事といえば建物の管理、火の用心、掃除、城内の修復作業が主であったとそうです。
 本来の政務は総じて担当家老や奉行の屋敷で行われ、その配下の役人達はこれらの屋敷に出向いて政務をこなしていましたが、勘定奉行やお蔵奉行はお倉で行われたりしたそうです。
 武家は今でいう公務員ですが、各自、その身分家柄でそれぞれの役職、係りが決まっておりましたが、現代の公務員、サラリーマンのように決まった時間に出勤し退庁して自宅へ帰るということではなく、各人、自宅やその屋敷で役務を果していたので、他目には武士は平穏時気楽でいつも遊んでいると思われていたと伝えられています。
 江戸時代、今日と違って毎日大勢の役人が出勤して執務をしなければならないほど事務はほとんどなく、また役務仕事の割には担当役人が多くて、毎日出勤しなくても支障はないものでもあったとされ、お城勤めはごく下働きでも2日に一度、3日に一度は多い方で、大概の諸士は5日に一度のペースだったといわれています。上級役人に至っては月に1〜2度でよかったとされ、しかも出勤執務時間も定めもなくその本人の都合次第で、現代人からすれば嘘ではないかと思われる本当の話でもあります。
 ただし、朝飯前に出勤すれば朝食が出、夜遅くまで居ると夕食が出たとされ、大抵の諸士は早朝出勤して朝食をいただき、夕食を食べてから帰宅ということで、結局は仕事内容はともかく、朝から夕方まで執務をしていることでもあります。これらの賄いは大変な出費と考えがちですが、現代人であれば頼まれたって食べてみたいと思う代物ではなかったとも伝えられますが、これらをありがたくいただく、当時の武士の生活の貧しさを垣間見ることができる内容でもあります。

 御城出勤や役宅出勤の際は大小を腰に差して行くものと想いがちですが、遠野では大小を差しては行くが、詰所に入る前は番の者にこれらを預け、番の者は氏名を書いた名札を付けて次の間に保管、武士達は退庁時に大小を受け取って帰りましたが、執務においても邪魔でもあったので道理にはかなっています。こうしたことから大小は不要という考えが広まり、大小は差すが中身は木刀だったりしたそうです。家老達や上士の身分の者達は前記のとおり月に1〜2度の勤めでよかったが、たまに登城すればすることもなく大抵は世間話、家老達の一番の仕事といえば縁結びとされ、諸士達の縁談話の詮議だったそうです。

 当時の給与の話となりますが、武士は現代の公務員と同じですから、月給を支給するのは普通ですが、当時は金銭の貨幣で支給するのではなく、食禄として米の単位とし直接田畑を耕作する百姓から受け取る仕組みだったとされています。その食禄は何石何斗というように規定されていましたが、武士達は知行地、田畑の場所が決められていましたが、問題は納める百姓達との関係で、納める方は今も昔も同じでなるべく自分達の取り分を多くしたい、武家側では決められた数をきっちり取りたい、このようなことで色んな問題があったといわれています。
 俸禄関連については別頁、遠野移封、遠野治世の項に記載しておりますので参照願います。
 知行地から生産されるものの配分は藩で規定されていましたが、実際は耕作する百姓との合意で取り立てていて、年々の気象などで生産高は変化するものですがこれらによっても配分の紛争が絶えることはなかったが、南部領でも花巻は六公四私、すなわち六対四、遠野では五公五私、つまり半々ということになります。詳しく説明しますと一石は十斗の実収、その半分の五斗が武家の取り分ですが、お借り上げと称して一斗から一斗五升が現在でいう所得税の意味合いで差し引かれたそうです。ですから実収は三斗五升、俵一俵ということになります。
 百石取りの上士の場合を例にとりますと、一石は三斗五升俵一俵、百石ですから俵百俵、三十五石の実収ということになります。
 遠野は実高一万二千七百石余とされていますが、実際は米の生産高は七千石、その他はすべて雑穀、すなわち稗、粟、豆、蕎麦ということで米に換算して石高を算出したものです。
 武士は米が主食とも考えがちですが、実際は上士の家でも、白米を食べるといったことはほとんどなく、稗粟米の混食は良いほうで米だけを食べれるのは先祖の仏事、神々の祭礼に限られていたといわれています。むしろ一石あたり五斗をもらえる百姓の方が知行地を持つ武家よりは実は勝った暮らしぶりだったというのが本当の話でもあります。
殿様の暮らし

 一般武家の暮らしぶりは実はそれほど裕福でなかった、むしろ貧しい部類であったということは前節で記述しましたが、殿様自体の暮らしぶりはよく語られる贅沢なものだったのは本当のようです。
 ただし殿様の生活の典型は、食事とお妾制度によるところが大とされ、食事に関しては朝昼晩とも三ノ膳付き、その皿数も60以上でもあったともいわれています。またお妾は一万石強の遠野南部家でさえ、少なくても常に五〜六人、盛岡南部家では十人以下になったことはないともいわれています。
 殿様は封建時代においては権威の象徴ですので、現代人には想像もつかない存在でもありますが、お妾制度に関しては、ことに反女性蔑視やセクハラが叫ばれる現代においては、閉口する事柄でもあり、随分女性の存在意義を無視した内容でもあります。しかし、このお妾制度は単に殿様の好色という意味合いからはじまったものではないことをなんとかご理解していただきたい。
 徳川時代、それ以前もいえることですが、武家はいかなる場合も食禄相当の働きを成すもの、御家の存続、繁栄が常でもありました。武家の後継者の養育は何よりも大切で、後継者は少しでも早く成長していつでも父親に代わる事が出来るようにと教養や訓練を欠かすことはできないものでもあった。このような理由から武家は早く結婚して、できるだけ男子をもうけできるだけ早く一人前にさせることが要務でもありますが、殿様に関しても同じで、遠野南部家の場合は宗家である盛岡南部家による軍務を支障なく遂行できるよう後継者を備えること、また大名家に至っては幕府の命ずる事柄を支障なく果すためには、同じく後継者を備え置かないと、国の没収、取り潰しの沙汰でもあるので、家臣達は出来るだけ早く、また多くの男子をもうけてもらわなければならないと考え、そうなると奥方一人では心もとない、二号、三号と殿様の子供を生んでいただくといったことで、当時としてはやむをえないことでもあったようです。
 初代、直義公は新田家からの婿養子でもあったのと、その義母清心尼公が遠野にあって厳と政務を取り仕切っていたので妾は持たず、また子の義長公は人格者だったとされ、清心尼公の遺訓、一夫一婦の考えと愛妻家だったということで、妾はいない。しかし、子供は三代を継ぐ義倫公ただ一人で、僅か17歳とも18歳の若さでこの世を去り、その跡は盛岡宗家から当主が入ったが、これ以降家臣たちはお妾を薦めたと伝えられております。お妾は男子を産むことが絶対要件ですが女子ばかり生む側室、二年経っても生まない側室はそのまま実家に帰され、ある時は家臣で特別な功労あったものに御嫁に下されることもあったようです。今から考えれば女性の方々にはなんとも失礼な制度でもあり憤慨される方々もいると思われますが、それでも当時の家臣で殿様の側室を下げわたされた者達は女性をたいへん大事にしたとも伝えられ、殿様と穴兄弟となったということでたいへん名誉なことでもあったといわれております。


 昔の殿様の暮らしは食事とお妾制度による印象が強く、実際の生活ぶりは裕福と捉えられることではありますが、実はその内情は表向きであって台所事情は火の車だったようです。
 当時、南部藩内の諸家にあっては、遠野南部家はその俸禄をみてもダントツの高禄ではありましたが、幕末の頃の石高、一万二千七百石のうち、八千石は家臣の食禄、三千石は遠野治世の公費、残りの一千七百余が遠野南部家の殿様ご家族の生活費となります。藩政時代の遠野南部家当主は盛岡城内の遠野屋敷に住まいしていましたが、南部家高知筆頭にふさわしい屋敷を構え、その敷地面積は三万坪にも及んでいたのでこれらの維持管理、環境整備にも手間がかかり、維持管理費も相当なものだったようです。また殿様は権威の象徴でもあるので、これらを保つためには護衛も含む多数の側近がおり、近従小姓約十名、御用人五名、納戸役五名、政治向御用の取次役五名、玄関の間詰五名、その他若党、人足、小者等もいたそうですが、この中の大半は食禄をいただいている者が多数ではあるが、出仕期間中は朝、昼、晩の食事全般の賄いは殿様持ちであり、この経費も馬鹿にならないものでもあった。さらに奥殿は男子禁制で女性たちばかりでしたから、これらの化粧、衣類、食事等のそのすべてが殿様からの支出でもあり、また奥殿も含む屋敷内に出仕している女中達はその数五十人を数え、この女中達の衣食もまた殿様持ちですから、遠野屋敷での経費は莫大なものとなっていたそうです。
 盛岡の遠野屋敷はその格式、身分にふさわしく、連日百名以上の賄いがされ、いつでも御膳が並んでおり、また藩の重鎮でもある遠野南部家に用向きの他家からの客人も頻繁で、ご飯炊き専門は十名を数え、朝から晩までご飯炊きに没頭する忙しさでもあったと伝えられています。
 他に、今でいう交際費も自前で他家や寺社への贈答費もたいへんなもので、時には南部宗家と同格の家柄の威勢を見せるために相当無理してその家格にふさわしい高価な贈答品を用意したりと見栄を張らなければならないこともあり、こちらもたいへんだったようです。
 南部藩内では比較的裕福な家とみられていた遠野南部家ではあったが、江戸中期以降は毎年赤字となり、苦し紛れに家臣達からお借り上げ金、百姓町人からは御用金と称して臨時の献納を命じたりしたということです。
遠野武士の斬り合いのこと

 武士とは二本差しにて町を闊歩し、町人、百姓が無礼でも働けば無礼討ち、また武士同士、意見の相違や気にいらないことでもあればすぐ刀を抜いて斬り合いがはじまる・・・これが現代人が思う武士の印象かもしれません。しかし、当時も今も、人命尊重の基は同じで、むしろ現代社会のように毎日全国のどこかで痛ましい事件があることに比べれば人命尊重に関してはむしろ厳しかった、武士がそのときの気分で抜刀するといったことにも厳しい規制があったということです。
 武士が抜刀、斬り合いまではじめる、これはただではすまないことで、例え相手を殺傷しなかったとしても当時の原則は喧嘩両成敗、重ければ切腹、お家断絶、軽くても追放や減禄、閉門謹慎、さらに一族や親戚までその類は及ぶといったもので、これらは当事者どちらにも適応されることでもあり、親族達は相互に相戒め合い監視しあうといったことで滅多に起こるものでもありませんでした。
 遠野では徳川時代を通じて250年間、侍同士の斬り合いは数回、無礼討ちに関しては皆無であったとされます。武士間の斬り合いにてどちらかが殺傷した場合、親類までその類が及ぶものであるので、当事者の親族達は互いに相談しあって表沙汰にならないように工作したり、死亡原因や怪我については病死などと届け出たりと、とにかく秘密裏に処理しようとする。また当局も内情はわかっていながら知らぬふりでもあったといわれ文書記録に残らないものでもあります。

 中館采女刃傷事件
 この事件の公的記録には、中館采女、「脚気衝心で死亡」、禄取り上げも「お役を勤めかねる家庭事情の為、知行禄辞退」また相手である是川宇右衛門は「落馬にて負傷」とされております。

 八戸直義、或いは義長時代と伝えられますが、遠野南部家家老加判役、是川宇右衛門は老練達識の者として特旨を以って家老の任となっていた。ある日、家老見習役、中館采女は役目上の失態した事で指導的立場の是川に厳しく咎められた。ところが若い中館はこのことを強く恨み、その夜、是川の住む長屋へ赴くと寝ていた是川を蚊屋ごと外から抜刀して斬りかけ、その腰あたりをしたたかに斬った。中館采女は相手は死んだものと思い庭石に腰掛けたまま切腹して果てたという内容です。

 盛岡遠野屋敷での出来事とされますが、固い禁制を破って抜刀のうえ、人を斬り、しかも自らは切腹して果てたとあっては容易ならぬ大事件でもあります。斬った中館は無論ですが次第によっては被害者である是川も喧嘩両成敗の原則からして何らかの処罰対象であり、これらの親戚一同も連帯責任の立場から相当な罪科も予想されますが、中館家、是川家は八戸時代からの譜代の重臣として重きを成してきた家柄であり、家中に与える影響がどこまで波及するかわからないものでもありました。そこで重臣達、親類縁者で図って中館は「脚気衝心」是川は「落馬にて負傷」となったものと思われます。当時、不慮の変死には「脚気衝心」という病名がよく使われたともいわれております。
 中館采女に後継の男子があったかは不明ですが、家族から「家禄四百石を親族、家臣で分け与えた結果、規定の御役にたちかねる」といって一時家名を閉じ断絶しております。
 遠野では新田氏につぐ大禄で家老を代々勤める家柄ですが、結果的に切腹、家名断絶の処分となったも同じことでもあります。
 一方、是川宇右衛門は、後に勝手に隠居したと理由で御役御免の上、あらためて隠居の沙汰で五十石減禄の厳しい処分となった。
武家と紋付

 武家には紋付羽織は二種類あって、ひとつは自家紋のついたもの、もうひとつは主家の紋が入ったものとされてますが、後者を伝える家にあっては、先祖以来誰かが功によって殿様から拝領したもの、あるいは殿様に代わってお役をするときに下賜されるもので、名誉なことでもあります。
 遠野では殿様からいただく際は双舞鶴紋ですが、お役頂戴の場合は首席家老新田氏からのものでこれには九曜紋が付いていたとされます。
 紋付の羽織を着て江戸の町を闊歩、飲屋で酒を飲んだり、吉原に通ったり、果ては抜刀して斬り合い、これはテレビ、映画でのこと、今でいう制服公務員が制服で飲会したり、果ては喧嘩などという場面とでもなれば、それこそメディア沙汰になり、なによりも国民から批難される大問題でもあるのは当時も同じで、紋付羽織は武家にとって身分を表す大切なものでもあったのです。ことに主家やお役による紋付羽織を着ての騒動などは言語道断でもあり、特にこれらを紛失したとでもなれば切腹ものでもあったといわれております。

 作田家は津軽浪人の出といわれ、八戸時代、新田氏に仕え、遠野初代、直義公の教育全般を担った家柄で遠野に移ってからは百石の上士となり清心尼時代の遠野治世の中心的役割でもありましたが、その後の時代、若干の浮き沈みがあって、四十石の平士に甘んじていたとされています。
 作田家はその昔の直義公のお守役であったということで、格の高い紋付羽織を拝領していた家でもあり、この時代、作田家の当主がこの紋付羽織を着た場合には、平士ながら先祖同様に席順は繰り上げられ上座へ座ることになっていたそうですから、この羽織は家宝でもあったようです。
 作田某が盛岡遠野屋敷勤めの頃、盛岡の町に色女ができてしまった、そのうち殿様が江戸へ上ることとなり、作田某もそのお供として江戸に行くことになったが、これを知った色女は江戸見物がしたいと言い出したので仕方なく連れて行くことにした。しかし自らの旅費は公費から支出されるから良いが、色女の旅費は自分で工面してやらなければならない、そこで作田某は、例の紋付羽織を質に入れ五両の金子を借りた。紋付羽織はどんな立派なものでも五両を貸すといった質屋はなく、いかにこの殿様御紋付の威力がすごかったこと、絶対質流れするものでもないという信頼もあったということです。五両という貨幣価値を測る知ることはなかなかできませんが、当時、盛岡からお伊勢参りに出かけ、京都見物もして、帰国してからも慰労会のひとつくらいは派手に出来たという金額でもあるそうです。
 五両のお金で色女も面白く江戸見物ができ、たいへん喜んで盛岡に帰ってきたそうですが、作田某は羽織を質受けする金子の工面がなかなかできずにいたが、そのうち例の紋付羽織を着なければならない会合ができ、仕方なしに遠野へ帰ってきたが、どうにもならず主家筋の新田家へ赴いて紋付羽織を盗まれたと嘘をつき、新田家から双舞鶴のご紋付の羽織を借りてなんとかその場は凌いだが、収まらないのは新田家で、ご紋付の羽織が盗難に遭ったとでもなれば、家事不取締りの連帯責任は免れないことでもあり、内々に盛岡の町奉行に頼んで捜索した結果、質屋から発見されるが、これが表沙汰になったら、作田家どころではない、親戚にも多大な影響を与えることでもあり、親戚一同でまずは羽織を買受けすると、本人を武者修行という名目で遠野から隠遁させることを思いついたが、当の本人はくそ真面目というか、事の重大さ、周りへの迷惑を考えなかったのか、夜逃げ等とは卑怯な振る舞いと言うとその場で切腹してしまった。親類達は例の「脚気衝心にて急死」と届けたとされますが、四十石から減禄、十石の従侍に格下げとなった。
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