| 清心尼時代・遠野南部家江戸初期の事件等 |
| 遠野の治安対策 寛永4年、先祖伝来の八戸より遠野へ移封した遠野南部家(厳密には遠野八戸家)により、遠野治世が始まったのですが、遠野領主である八戸弥六郎直義は、宗家南部利直の命により、盛岡の遠野屋敷に住まいし、盛岡城勤務となったので、実質の遠野治世は前当主である清心尼を中心に家中の重臣達によって行われました。 当時の遠野は暗黒時代の様相で、前領主、阿曽沼広長が気仙落ちすると、名実共に盛岡南部家の統治するところとなりましたが、阿曽沼主家を追いやった阿曽沼一族、家臣である鱒沢氏、上野氏、平清水氏が大禄を食んで遠野の盟主的な役割を担っていた頃はまだよい方でしたが、鱒沢氏、平清水氏は間もなく南部家の策謀とされますが、断絶の憂目に遭い、上野丹波広吉のみが実質の盟主となり横田城(鍋倉城)代として権勢を振るうも、主家を追いやった風評は消えることはなく、まもなく病没、南部藩当局から派遣された遠野城代、毛馬内三左衛門は武将としては優れた人物といわれますが、行政官としては能力が低かったという評価もあり、不逞のやからが横行し、事件が絶えることはなく、まさに荒れ放題の地といわれていたそうです。 遠野南部家はまさに遠野暗黒時代の真っ只中に入部したことになりますが、当主、直義に代わって実質遠野を治める清心尼は、復興の中心に治安の回復、人心の安定を優先させる政策を打ち出し、まずは人心の安定を図るため、役人の身分の安定をと考え、阿曽沼遺臣達の身分保障に着手したと伝えられております。この阿曽沼遺臣達は、実質的には浪人扱いで、それでも暫定的に従来通り遠野治世に係る政務を執り行っていたとされますが、身分保障がない上、その見返り的なこともないとなっては身が入らない事柄でもあります。 清心尼は、遠野移転に伴い武力が著しく衰えた遠野南部家の家臣の補充にまずは阿曽沼遺臣達を一律の俸禄で取り立て政務と軍事の補強を行い、さらに治安の回復には当初、特に力を入れたとされております。 当時、遠野を荒らしまわっていた第一の悪党達は、仙台領と南部領との境界地帯に巣食っていた浮浪人といわれ、南部領で悪事を働いては仙台領へ逃げ込み、仙台領を荒らして捕縛されそうになると南部領へ逃げ込むといった所業で両藩の役人達も手を焼く始末、昔は今と違って双方の藩で協力して取り締まり強化、捕縛をと考えがちですが、日本という国の枠内でも藩は国という位置づけでもあり、国と国との外交問題にも触れる事柄で、双方がなかなか妥協するといったことは難しく、また双方とも裏で糸を引いている大きな存在があるのではと警戒もしていたともいわれ、このようなことにて悪党達のなすがままにしておくより仕方がないことでもあります。 しかし、清心尼は、いつまでもこのような事では遠野治世の安定は図れないと思いつめると、重臣で軍事奉行、岡前宮内に悪党達の掃討を指示、また同時に悪事を働けば必ず罰せられるということを自覚させること、さらにどこまで逃げても追手を差し向け必ず捕縛して処罰するといった強行策を掲げ、この意を受けた岡前宮内は配下の足軽を率いて遠野町内を厳重に警戒すると共に悪党どもの人相、隠れ家等を事前に捜索、また阿曽沼時代に悪事を働いた者を容赦なく捕縛して罰すると、中には仙台領まで逃げ込んだ者もいたが、悪事を働いた者を仙台藩に入れては申し訳ない、遠野の恥でもあるとして遠慮なしに仙台藩へ越境して犯人を捕まえるといった行為に及び、また仙台側でも兼ねてからその対応に困っていた悪党共ですから、岡前の行為に目を瞑っていたともされ、みるみる内に遠野領内の治安が回復していったと伝えられております。 一定の成果が見られた清心尼の治安回復策でしたが、まだまだ手緩いと云わんばかりに、毛馬内城代時代の未解決事件にも手を広げ、中でも最大の事件とされる「田瀬の馬泥棒事件」の解決に取り掛かりましたが、この事件は仙台生まれの伊助、伊三郎兄弟が犯人と判っていたにもかかわらず、ふたりは他領の仙台城下に隠れ住んでいるとの風評で手出しが出来ない状況でもあった。清心尼の主張、「悪事を働いた者はどこに逃げても必ず追手を差し向けて捕縛する」に反することもあって、何が何でも捕える、そのためには他領である仙台藩との外交交渉も必要で遠野側の主張を有利にするためには証拠固めが必要でもあり、そのため役人を変装させて仙台へ送り込むとその役人は二人の居所をつかむと同時に田瀬から盗んだ馬を買った人物も探しあて、その馬も発見、動かぬ証拠を揃えた役人は変装を解き、その足で仙台町奉行所に赴くと事の次第を述べ、二人の捕縛を約束させ、間もなく仙台藩当局に捕縛された二人は犯行を認め、縄付きのまま遠野境の赤羽根峠まで連行されて遠野側に引き渡されたと伝えられております。 この遠野の出来事は盛岡の南部藩主、南部利直の耳にも届き、遠野南部家の迅速な行動、事件解決を褒めたと伝えられ、その処罰は遠野南部家に一任、さらに以後の事件処理も一任するといった許可を与えたとされ、徳川幕府治世の中で大名家ではない陪家に司法権の独立を持っていたのはこの時代、毛利藩の吉川家と南部藩の遠野南部家の二家のみとされております。 以後、遠野侍は「遠野南部家は陪臣にして陪臣にあらず・・」と鼻高々だったとされ、その後も極悪事件を解決し、その処罰は極刑を科したため、遠野では殺人などの凶悪犯罪は無くなったと伝えられております。 遠野動乱三人男の復権 遠野治安の安定に一定の成果が現れたとみると遠野当局は、慶長年間、中世遠野領主、阿曽沼家を没落させたといわれる三家の復興に着手したと伝えられている。南部家側からすれば遠野動乱の功労者という位置づけでもあり、後に南部宗家によって理不尽な理由で断絶させられた家々でもあり、遠野が南部家統治と名実共になったのは鱒沢氏、上野氏、平清水氏あってのこと、この功家を取り潰したままとすれば南部家は後々まで策謀にて遠野を手に入れたといわれても仕方ないことでもある・・・として清心尼はこの三家の復活を考えていたとされている。 まずは、阿曽沼一族にして阿曽沼時代、第一の大族だった鱒沢氏。鱒沢広勝の嫡子、忠次郎は理不尽な理由にて切腹、家は断絶していたが、鱒沢広勝の異母弟の多田広利が達曽部(宮守村)の中斎に隠遁していたのを召しだし、その子、忠右衛門に五十石を与えて鱒沢氏の墓守役を命じたとされます。忠右衛門は、鱒沢氏は罪あって滅んだ家であるので、そのまま継ぐのは世間にはばかり有りと訴え、母方の姓、多田を名乗って郷士になったと伝えられております。 次に平清水駿河の跡は、駿河の弟で新谷姓となっていた新谷帯刀を召しだして六十石を与え、小友番所勤務とし、伊達境の警護の役として明治維新までその任が続きました。 最後に上野広吉は阿曽沼氏直系の家柄で13代阿曽沼広郷の弟とも、その子とも伝えられますが、鱒沢氏、平清水氏が断絶した後も遠野城代として二千石を食んでいたが、その子達は皆早世したこともあって広吉亡き後は家は断絶していましたが、上野広吉の長女の婿であった人首監物の子、九右衛門には男子がありましたが、遠野動乱の頃の人首監物は伊達家家臣同様の身分でもあり、南部家に憚って男子は近在の百姓家に養育されていたが、遠野南部家が遠野へ入部した頃には成人しており、清心尼がこのことを知るとすぐに召しだして、破格の五百石を与え、上野広忠と名乗らせ上野氏の後継としました。 ところが上野氏は阿曽沼直系でもあり、その跡継ぎがその縁の人物と知れ渡ると、上野広忠の屋敷には阿曽沼旧臣達がその復興を喜び、しきりに多数が出入りすること頻繁となるや間もなく、阿曽沼氏復興の陰謀説が流れ、不穏な空気が漂い始めると清心尼は盛岡当局と協議して盛岡直参とする名目を取り付け、あらためて二百石を与えられ南部藩士となり、後に百石を減石されたと伝えられますが、永らく上野氏として盛岡にあったと伝えられています。 これらの処遇により、阿曽沼遺臣達も遠野南部家を信頼し、以後忠節に励んだともいわれ、遠野治世が安定期に入った由縁でもあるといわれている。 |
| 土室の追剥鎮撫 寛永8年と伝えられますが、土室に出没する追剥退治を南部藩主、南部利直自ら八戸直義にその鎮撫の沙汰があったと伝えられております。 土室は現遠野市小友町鷹鳥屋集落の山間にあるのですが、当時は江刺や気仙といった仙台領(伊達)に通じる街道は要衝との位置づけで南部藩直轄地とされ、盛岡から代官が派遣されていたとされますが、この追剥共は野武士の一団との情報で代官の手に負えるものではなく、遠野南部家の武力を以って成敗せよ、と命が下ったものとされております。 さて、この土室は遠野城下の背後に迫る物見山と伊達領気仙の山並みとの狭間に位置する山間の土地ですが、この土室にいつ、どこから流れ住み着いたのかは不明ではあるが、野武士の一団が住み着き、遠野の争乱騒動に乗じて宮守や鱒沢の村落を襲ったり、街道に出没しては旅人を襲うという行為を繰り返し、度々近隣の百姓からはその鎮撫の訴えが出されていたともいわれております。盛岡からの代官所は街道沿いの達曽部にあったそうですが、小友との距離はけっこうあり、南部藩直轄領といっても土室は厳密には遠野領でもあることから、必然的に遠野南部家にもその鎮撫の責任はあるものでもあります。 春先といわれますが、遠野南部家配下の小友奉行、及川善右衛門がその討手の大将に選任されたが、追剥共は凶悪だが人数が少ないらしいとの風潮で、配下の足軽二名を隊長に近在の百姓や金山の金掘人の若者達五十人を借り集め、代官所備え付けの武具、武器を与えると鐘太鼓を鳴らして勇ましく土室へ押し出していった。及川は野武士といっても伊達領から流れてきた食い詰め浪人、大人数の討手をみたら逃げ去るだろうと高をくくっていたとされる。土室へ突入してすぐ狭い谷間に至ると突然前方の草や萱が燃え立ったと思ったらたちまち周囲は一面の火の海と化す、なんとか日本武尊の故智にならって逆に火攻めにしようと周囲の草などを刈って火を放とうとするも、突然に左右から矢の攻撃、さらに大石も転げ落ちるといった凄まじさ、敵わじとみた討手軍は我先に逃げ去り総崩れとなって小友の町へ退却する有様、これでは討伐どころではない、遠野の正規軍を以って鎮撫願いたいと及川は懇願したとされますが、敵の姿も見ないまま、矛も交えずに退却するとは何事かと怒り出す重臣もいて、中には及川に切腹を申し付けるべし、と言い出す者まで居たとされておりますが、清心尼は、敵の実情もしらないまま、押し出した我方の手落ち、また敵が火攻めなどの計略を用いる戦を知っている集団とも知らず、百姓や金堀人足を討手とした当方の手落ちでもあるとし、今度は新参者ではあるが大目付の職にある福田帯刀を大将に下組槍組の足軽50名を率いさせ来内口から本格的な討伐軍が攻め込んだ。 今度は遠野正規軍であり、前回は狭い谷間を通っての進軍で不覚をとったが、今度は比較的平地が多い道すがらで、平地に野武士を誘い出して討ち取る算段だったが、土室までは比較的距離があり、また春の陽光が差し、季節的には気持ちの良い日和で、戦気分とはならずまた大将の福田は馬上であったが、陽気のせいで眠気まで出る始末、このような気分で全軍、土室の入口近くまで差し掛かったが、すっかり警戒心は薄れたところに左右の林から矢を突然射掛けられる。突然のことで慌てたが、すぐに陣立てをしなおし、配下の弓隊が配列を整えて反撃にでると、今度は「ダ〜ン」と凄まじい音とともに弾丸が馬上の福田の耳元をかすめると、敵に鉄砲があるということで一同にわかにざわめきだしたと思うと、福田の乗った馬が鉄砲の音に驚き、味方を蹴散らしながら来た道を疾走して走り去る、こうなると遠野軍も大将が逃げ去ったとなると居たたまれず全軍、来た道を逃げ帰ったとされ、今回も負け戦となり、福田以下、隊長各は面目を失い自宅謹慎、さらに名入りの弓や槍、大将の福田にいたっては陣笠まで落すといった失態を演じたと伝えられています。 予想外の展開となり、その上、鉄砲まで持っているとなると、容易ならぬ敵と当初の思惑とはだいぶことなる展開に遠野当局の重臣達はすっかり頭を抱えてしまった。二度目の討伐はまさに遠野正規軍であり、こちらも一度目と同様、野武士達の姿を見ることなく退却、遠野南部家の面目丸つぶれである。当時、鉄砲の存在意義と価値は重大であり、徳川幕府からは各大名、その所持数に制限が加えられ、ただの一挺も増加は難しく、これを破れば厳罰の対象になることでもありました。 大名の場合では、一万石あたり20挺前後がその所有範囲とされ、遠野南部家にあっては25挺が許されていたとされています。このように重大な意義を持つ鉄砲を野武士達が持っているとなると、遠野側も鉄砲隊を以って攻撃をと考えがちですが、幕府の規制で鉄砲を撃ち合う戦いは公的な合戦という意味があり、まさに戦争をしたという事柄でもあり、また逆に少人数の野武士討伐に二度も破れ最後は虎の子の鉄砲隊で打ち破ったとあれば、末代までの恥じ、さらに御公儀にでも知れたらそれこそ大事になることでもあったとされています。 連日、その討伐方法を重臣達は協議はすれど、妙案は浮かばず、ただ戦のやり方を各々論議しただけに時間を費やしていたといわれますが、見かねた清心尼は、女の自分が戦の評定に口を挟むのは控えていたと付け加えた後、「ただ闇雲に討伐のみ語っても仕方がない、敵も攻め滅ぼされると思うからこそ必至であろう・・この際、退治のことは一先において、穏やかに今後は悪事を働かないよう説得する策にしたらどうか・・」と発言すると、まさに鶴の一声、説得の評議となったと伝えられている。 評議が説得と決まったが、誰がその役目を負うか、誰を使者とするか、またまた重臣達は頭を抱えたとされますが、役目柄、大目付がその任となるべきと決し、大目付の福田帯刀は先の敗戦で謹慎中であるので、大目付添役の杉岡兵太夫がその役を仰せ付けられました。杉岡は阿曽沼遺臣でありましたが新規に召抱えられ40石を食んでいたといわれますので、遠野では中士の位置づけであり、なかなかの人物であったとされております。 杉岡はただひとり、徒歩で土室へ向かったとされ、山道に迷ったことにして敵地へ乗り込む所存だったといわれますが、密林のため本当に道に迷ったと伝えられますがそれでもなんとか拓けた場所に出ることができ、ここには畑があり、また少し下ると崖際に六つばかりの山小屋を発見、ここが土室の追剥共も住居であると確信したが、いきなり鉄砲でも撃ちかけられたら大変と考え、大声を発して「誰かおらんか、道に迷って難儀している、里に出る道を教えてくれ」と言いながら山小屋に近づいていった。すると間もなく小屋の中から男女の区別もつかない風貌の者達がぞろぞろ出てきて、物珍しそうに杉岡を眺めている。しかし武器らしいものは持っていない様子なので「ここは何処か、山の見分に参ったが、道に迷って計らずもここに参ったもの・・」と嘯いて里に出る道を訪ねると一番前にいた六十過ぎの老人が「人里に出るのなら、構わずこの道を下って行きなさい、そうすると鷹鳥屋に出ますので、そこから小友までは一息じゃ・・」と風貌に似合わない立派な言葉で言ったとされ、杉岡は野武士には違いないようだが、別に敵意らしい様子がないと感じたため「これは有り難い、しかし朝から歩き通しなのでひどく疲れたので少し休ませてくれないか」と言うと、老人は少しも怪しむ気配もなく「汚いところだが、それでよろしければお休みなされ」と言って戸口に下げていた蓆を引き上げ小屋の中に導き、杉岡は「しからば御免」といって中に入ったとされる。 さて、中に入ったものの手持ち無沙汰で次の言葉が出ない、そこで背負っていた風呂敷の中から握飯を取り出して、家の中にいた五、六歳の子供に差し出すと子供は人見知りもせずに受け取りそのまま食べ始めたので一同、初めて大笑いして場が和んだとされている。杉岡は改めて主人らしい先ほどの老人に挨拶をし、「ここは噂に聞く土室か」と聞くと「左様で御座る」と老人が答え、自分達は葛西家の旧臣で二十年前に伊達家に追い落とされ、やむなくここへ流れ参った者であることを告げ、杉岡は、なるほど昔は由緒ある家の出で、足軽や金堀人では敵う相手ではないと感心し、その後、身のうち話なども聞かされすっかり打ち解けた様子でもあったので、兼ねてからの本題を切り出したといわれ、自分は遠野南部家の使者であると告げたが、討伐される理由がわからない様子、一度目の戦いは、孫のひとりが小友へ買出しに出向いた際、土室征伐の噂を聞き、何の謂れで成敗されるのか見当もつかず、無理に攻め入って来るならばこちらも反撃し一泡吹かしてやろうということで、手向かいしたしだいを述べたが、杉岡は何の罪あっての言葉に面食らったが、今までの所業を全部並べて成敗するに至った事を述べた。すると、老人は赤面し大声で一声笑うと、自分達は落ちぶれたとはいえ、葛西七騎組の一方を受け賜わった者、いかに餓えたとはいえ、野盗の真似事はした覚えはないと凛として答え、さらに宮守や鱒沢に押し入った者達は皆江刺境に巣食う野武士で、隙あらば我らをも襲う所業があり、これを阻止するため、こちらから度々押しかけて仙台領まで追い散らしている程である・・と真相を語ったとされている。 それからは益々打ち解けて話しに花が咲き、杉岡も彼らの由緒ある家柄もさることながらその教養の高さに感じ入り、独断ではあるがお上に言上して遠野南部家に取り立てられるよう取り計らう旨を伝えると老人は、願ってもない幸せといい、何度も何度も額を地につけ杉岡にひれ伏したと伝えられているが、遠野南部殿の直参には恐れ多い、自分は老齢で役に立ちそうもない、またあとの者達は山中育ちで不調法者であり、せっかく杉岡兵太夫の口利きで仕官が叶ったとて後で迷惑が及ぶこともあるかもしれない、言葉に甘えついでではあるが杉岡の家来にしてほしいと懇願したとされています。杉岡は自分の一存ではどちらも決めかねるのでまずは遠野へ帰り事の仔細を報告ということで、小友あたりまで送られた後、小友奉行所の馬を借りて取り急ぎ遠野へ帰還、その足で登城して清心尼に報告、清心尼は何はともあれ、双方共死人はおろか怪我人もなく首尾よく解決したということで、杉岡兵太夫の手柄を大いに褒め、小友土室あたりに五十石の加増、野武士達を杉岡の家臣とすることを認めたとされます。もっとも土室五十石は例の葛西浪人達が耕作した田畑も含まれますが、一旦公田としたうえ、これを土室の浪人達へ改めて与えるという仕組みで加増されたとはいえ杉岡の実収となるものではありません。しかし、四十石の中士から表高九十石の上士に昇格したことは事実で家老の次席、番頭格になったので他の家臣達は羨望のまなざしだったと伝えられております。 杉岡家家臣となった葛西浪人 佐々木卯一郎照幸 十五石 佐々木左近照明 十五石 佐々木兵衛照広 十石 佐々木助太郎照綱 十石 佐々木照幸、照明は本家筋、他は分家してあった家の者と伝えられ、この佐々木家は交代で遠野へ出て杉岡家へ仕えたそうです。 |
| 小友金山争い 遠野武士達が、後々まで身震いしたという事件が遠野南部家統治の初期にあり、また南部宗家、すなわち南部藩も大きく動揺した事件が小友村の金山関わりであったと伝えられております。 遠野領、小友(遠野市小友町)の山は、古来から金の産出で有名で伝説によれば奥州藤原時代から既に採掘されていたと伝えられております。小友の金山は金脈は細いが広く分布しているのが特徴とされ、どこを掘っても金が出、また谷間や沢地からは砂金も採れたといわれ、古よりたいへん重宝されていたいわれております。 阿曽沼時代の終わり(豊臣時代)小友と隣接する気仙、江刺の各郡は伊達家が糾合、仙台領となったがこの仙台領との境付近に居た浮浪人達は、小友の金山を盗掘しては仙台領に逃げ去り、役人達には手に負えないものとなっていた。阿曽沼氏が没落し、つづいて小友を支配した平清水氏も間もなく断絶、南部家支配とはいってもほとんど無政府状態が永らくつづいたとされ、八戸から遠野南部家が遠野へ入部した時には、南部と伊達の境がわからないほど堀り散らかされていたといわれています。遠野南部家は、まずは平清水駿河の弟、新谷帯刀を召しだして従前どおり小友支配を命じ境目を厳しく監視させ、さらに斯波氏が南部家によって滅ぶ以前、紫波の佐比内金山奉行だった及川善右衛門が斯波御所が滅亡すると浪人していた及川を召抱え、小友金山奉行に任じ、その開発にあたらせました。 しかし小友と境を接する気仙側は山々は遠野側とつながっており、また山も谷も深く、そこに入り込んで遠野領に来る仙台領からの盗掘人を取り締まるのは至難の業でもあり、また当時、黄金の価値は駒竹一節の砂金で白米一駄、さら金の少ない場所であっても10日も採掘すれば1人でも駒竹一節くらいにはなったといわれ、小指先大の砂金でも一ヶ月は寝て暮らせたといいますから、命がけで盗掘に来るものもあり、なんとも防ぎようもなかったと伝えられている。 さて、寛永の終わり頃と伝えられますが、気仙境の赤坂山に薪を取りにいった近在の百姓が、仙台から入ったらしき一団が小屋を建てて金山の盗掘をしていると訴えでたとされ、小友境の代官、新谷帯刀は、ひとりふたりでこそこそと来るのであれば多少は大目に見るところ、小屋掛けしての盗掘とあっては見過ごすことも出来ぬ・・ということで足軽三人と十人ばかりの金堀人を引き連れてその現場に向かったが、普通は役人の姿をみれば逃げ去るものが、平然と盗掘を続けている、新谷は興奮して、「皆捕縛して入牢申し付けるぞ」と大声で言うも、なお平気である。そのうちその中のひとりが「仙台領の山を仙台の者が入って何が悪い、どうして南部の役人にいわれるのか・・」と言われる始末、こうなると新谷もついに本気で怒りだし、その主だった者達を捕えて、半死半生のひどい目にあわせて仕置きをしたとされ、他の者達は気仙の八日町の日雇いの人夫達で口で威張ってみせても役人相手では敵わないとみるや皆逃げ去ったといわれている。代官所で盗掘人を懲らしめたので二度と来ないだろうと新谷達は笑っていたが、後日、今度は先の倍の人夫が赤坂山に来て盗掘し薪取りの小友の百姓をみるや仙台領の山に入って山を荒らす薪泥棒と罵られ、半死半生の目に遭わされという知らせを受ける。 この報を受けた新谷帯刀は、今度は全員捕えて、二度と来れぬよう足腰も立たぬくらい痛めつけてくれよう・・と勇んで出かけたが、驚いたことに今度はいつ建てたのか、二十余りの本格的な小屋が連なり、人足も百人以上はいる大人数を目の当たりにする。しかし勇んで駆けつけたからには武士の面目もたたず、まずは声高らかに人足共を叱りつけた、すると待ってましたとばかり、二人の首領らしき男が進み出て、「拙者は仙台様御領分、気仙、世田米小股の内膳で御座る。またこれなる者は気仙八日町の肝入、観蔵院の法院で御座る」と名乗りを上げると、仙台藩金山奉行、片倉半助様の指図で金採掘に参ったもの、南部殿の役人からお咎めを受ける云われはない・・と主張する。さらに手出しするならばというと・・小屋から槍や鉄砲を持った荒くれが二、三十人飛び出て事を構える姿勢となると、さしもの新谷も身の危険を感じながらも、この地は太閤秀吉公の時代から南部領の金山である。きっと仙台方に表向を申入れ致すというと、その場を退いたが新谷達が逃げ帰るようにその場を去ると一斉に歓声を挙げ、勝ち誇ったかのように囃し立てたといわれ、新谷は腸が煮え返る思いだったそうです。 新谷帯刀は早馬に自ら乗ると遠野城へ登城し事の次第を報告、仙台勢は多勢で鉄砲も揃える戦支度であるので仕方なく退散したことを説明、軍勢の派遣を要請したと伝えられ、槍、鉄砲の戦支度は公然の盗掘であり、越境侵犯でもあるので遠野方ではお家の威信にかけて退却させなければならないことでもある。 遠野は空前絶後というくらい湧き立ったとされ、血気の若侍達は戦支度をすると軍事奉行の岡前宮内の指示も待たずに、銘々武具着用で愛宕の兵糧倉前に暫時集まりだした。一方、城内では岡前宮内、仕置家老の松崎大学を中心に新田、中舘の一門が清心尼の御前で評定を開いていたが、血気の若者達が小友へ押し出そうとまとまった人数が集まりだしているという情報が入ると清心尼はいつになく声を荒げ、「血気にまかせて無分別なことはさせてはならぬ、一歩間違ったら伊達と南部の戦さになる大事、ひとりも小友に行かせるな」と命じたので、岡前と松崎は愛宕に急行して若者達を諌めると、清心尼の命でもあるので渋々皆解散したとされ、同時に盛岡の宗家にも早馬を走らせ知らせると、その処置訓令を求めたとされます。南部藩当局も非常に驚いて、ことに仙台藩で名が出た片倉半助は伊達政宗の片腕で天下に名が聞こえた片倉小十郎の一族でもあり、あるいは伊達家が得意な戦争徴発の陰謀説も唱えられ、にわかに盛岡城も動揺を隠せぬほどとも伝えられている。しかし、まずは金山争いから南部、伊達の両藩の戦争にでもなったら一大事、また伊達家は62万石の大国、まともに戦えば勝つ見込みは無いに等しい、何よりも徳川治世の世、どちらもただで済むはずもなく、ますば慎重に取り扱うこととし、使者を以ってまずは越境侵犯の真意を正す事にした。 仙台藩は最後の戦国武将といわれる伊達政宗亡き後、伊達忠宗の時代であったが、南部家からの使者に大いに驚き、そのようなことを命じたことはないと通告してきたとされ、気仙は一関、田村家の領地、本藩からよくよく調べたうえ赤坂山の金山の休止を命じたので、とりあえずその誠意を示したとされています。 この事件の後、南部藩と仙台藩は境界設定の交渉を設けたのですが、南部藩からは軍奉行 毛馬内三左衛門、大目付 小枝指権兵衛、石亀庄兵衛、金山奉行 重茂与左衛門。さらに現地責任者として遠野南部家から松崎大学、大目付 福田蔵人、菊池孫右衛門、お山奉行 小笠原九右衛門・・・いずれも口八丁、手八丁といわれている面々でもあるといわれています。 さらに小友から及川善右衛門、新谷帯刀、子の久右衛門 一方、仙台藩からは正使に若柳二万五千石、河島豊後 、副使に水沼一万一千石、中将帯刀、富田四郎兵衛、付添、千葉重右衛門、笹町七郎左衛門と他領まで名が聞こえた名士揃いであったとされる。他に遠野境の江刺人首代官、沼辺玄蕃、角懸代官、鈴木勘兵衛、梁川代官、川村嘉右衛門、これらの配下、外山采女、多田与左衛門と南部に劣らぬ、いやそれ以上の顔ぶれだったとも伝えられている。 交渉は己の国の利益を考えお互いに一歩も譲らないものとされてますが、それでも後にいわれたされますが、なかなか紳士的な会議であったとされ、時折喧嘩腰の場面もしばしばながら、お互い謝るところは謝るといった姿勢もみられたとも伝えられている。 今回の問題となった地、赤坂山は、そのほとんどは南部領と認められたということです。 |