| 遠野市綾織町の館跡 |
| 谷地舘 |
| 舘熟知度 V | 舘規模 | 遺溝保存状況 無 | 難易度 T | その他 |
| 舘(城)名 | 谷地舘(やちだて) |
| 所在地 | 岩手県遠野市綾織町上綾織 標高233m |
| 現存遺溝 | 平城 八幡社 |
| 関連諸氏・人物 | 宇夫方広治 他、宇夫方歴代 上野広吉 |
| 築年代・使用年代 | 阿曽沼時代初期(鎌倉末期)〜 慶長年間 |
| その他 |

| 館 跡 の 画 像 | |
![]() |
![]() |
| 谷地館跡がある綾織町二日町方面 | 谷地館跡と八幡社 |
![]() |
![]() |
| 八幡神社 | 同左 |
| 館の概要等 |
| 谷地館跡は、遠野市綾織町上綾織 JR二日町駅(無人)の西側に位置する田園地帯の中にある。 館主歴代は、領主阿曾沼氏の一族にして、代官であった宇夫方氏歴代といわれている。 かつては、周囲の谷地(湿地)をもって要害とし、山谷川等の周辺の河川を外堀となし、さらに館の周りには土塁、壕を何重か築いた平城といわれている。 今は、その痕跡は皆無であり、僅かにその場所に建つ、八幡神社の祠のみがその面影を伝えるのみである。 (地名に、館川原・二日町・札場・後小路・横町・堀合) 阿曾沼家乗によると、文治5年(1189)、平泉征討に功があった阿曾沼広綱は、遠野を賞賜され一族である宇夫方氏を遠野代官として派遣し、後に広綱の子である阿曾沼親綱が遠野へ下向し、横田城を築いた際に宇夫方氏第3代の宇夫方広光が谷地館を築いたといわれる。 別説では、広光の兄である広治が綾織方面に進出して、谷地館を築き、広治は綾織殿とも称されたとも語られる。 以来、遠野下郷(西側)の盟主的立場として、宇夫方氏は繁栄したと伝えられるも、主家である阿曾沼氏、阿曾沼氏分家の鱒沢氏が台頭する時代に、その力は陰りをみせはじめ、2度の戦いで遂に没落したといわれている。 関連頁・・・宝徳合戦 こちら 関連館 西風館跡 谷地館は、平城といわれ、山城が圧倒的に多い遠野の館の中では、珍しい部類であるが、これは谷地館が築かれた時代を読み取ることができる歴史的史実でもあり、通説でも語られるように、鎌倉時代に築かれた館であろうと想像ができます。 代官として遠野入りした宇夫方氏は、現松崎町駒木の阿曾沼館に最初にその拠点を置いたと伝えられますが、阿曾沼館もまた平城であり、当時の鎌倉武士団特有の館の築城等を伝える内容が何かしらあったものと推測できます。 主家が下向して横田城の築城に併せて、綾織に谷地館を築いたかのように語られますが、山城である横田城の登場は、さらに後の時代と見るべきで、松崎町駒木の阿曾沼館をそのまま温存し、宇夫方氏が綾織方面へ進出、その勢力下としたと見るべきではないのか、阿曾沼館には下野本国から遠野領主となった阿曾沼一族が下向し、谷地館は、代官職というべきか、執政家である宇夫方氏の政庁という位置付けがあったのではないのかと推測しております。 宇夫方氏没落後は、阿曾沼広郷(第13代)の弟、上野広吉が入ったといわれ、江戸時代初期まで機能していた館であったと思われます。 |
