遠野さくらまつり
遠野郷は鎌倉時代以降、約400年にわたって阿曽沼氏が治めていたが、慶長5年(1600年)の政変により、翌年、三戸(盛岡)南部氏によって併合され城代支配領となった。
城代治下の遠野郷は、人心が動揺し、治安は乱れ、暗黒の時代であった。そこで、寛永4年(1627年)三戸南部氏27代利直は、八戸(根城)南部氏22代直義を三戸城に呼び寄せ、遠野領の治安維持のため、八戸から遠野への移封を命じた。遠野移封は、八戸南部氏存亡にかかわる大問題であり、家臣から反対の声も多くあがったが、南朝への忠節を誇りとする八戸南部家の命脈を守るため、止むなくその命に従うこととなった。寛永4年3月(新暦4月)八戸から50里(約200Km)という長い道のりを、幾多の苦難を乗り越え桜の開花間近な遠野郷へ入部したのである。
これ以降、八戸南部氏は遠野南部氏として、明治を迎えるまで遠野領1万2千5百石を治め内陸と沿岸を結ぶ交通の要衝として栄える礎を築いた。
南部氏遠野入部行列は、当時の資料を参考にして、遠野郷に入部した季節に行列を再現し、南部氏の功績を称え、遠野の歴史と往年の入部を偲ぶものである。
5月連休には桜が満開で最盛期と思われましたが、5月に入って一気に満開になり、3日は散り始めとなりました。
いよいよ鍋倉山(鍋倉城)下の遠野市民センターから行列が出発いたしました。
● 由 来
いよいよ、出発。
子供南部囃子(保育園児)を先頭に、本行列も出発。
ご婦人方の御一行
南部直義室と母、清心尼。
その腰元の行列
直義室と先代当主、清心尼
清心尼(八戸19代直栄の娘・20代直政夫人で直政亡き後21代を継承し女大名となる。)
直義夫人千代姫(清心尼娘)
南部(遠野)美人!
遠野南部公・南部直義公の出立。
直義公に扮するのは本田遠野市長
この後、遠野駅方面へ行列は向かい、さらに市役所へ、休憩の後、鍋倉城に無事入城の運びとなりました。
この日は、桜花馨る晴天で、遠野地方は初夏を感じる汗ばむ気候でしたが、沿道には多くの市民、観光客が声援を送り、特に遠野南部氏の故地、青森県八戸市からは2百人近い観光客が訪れ、八戸との縁を身近に感じました。
また、この後、郷土芸能団体の競演、八戸市からも神楽団体が参加、多くの注目と拍手を浴びておりました。
遠野南部氏入部行列も、遠野さくらまつりの目玉として定着しており、2003年も沿道には市内外の見物客、1千人位が詰めかけていたと思われます。
しかし、同日には県内各地でビックイベントが開催され、特に平泉中尊寺では春の藤原まつり、義経公東下りが行われ、こちらは岩手というより東北を代表する春の祭りで沿道には数十万人を繰り出す規模を誇っております。
遠野南部氏入部行列は、こじんまりとしている中にも歴史的な意味合いを考えれば、遠野が誇るイベントではありますが、歴代の市長が南部直義公役を務めるのは無難なことではありますが、例えば南部氏ゆかりの著名人を毎年お願いするとか、遠野を代表する著名人とか、その他配役のあり方も一考を要する時期ではないのか・・・・また早めに広く内外に配役を公募するとか、今後の工夫が必要とも思いますが・・・・・
遠野南部氏が遠野入部に係るあらましについては、当サイトカテゴリ「遠野南部氏物語」遠野入部コンテンツに詳細が掲載されております。
祭的な事柄と比べるのもなんですが、乗馬の家臣13名、それに僅かな徒歩の共が付いただけで、後の共の者達は、長旅で足を痛めたり、疲労で列よりだいぶ遅れての遠野入りだったとも伝えられ、直義公一行と整然と遠野城下へ入った行列は出迎えの地元遠野の町方、百姓の代表者達だったともされ、先んじて入った僧侶の先導で入城を果したともされておりますが、資料によるものともされていますので、若干は祭的なこのイベントに近いものかもしれません。