舘と舘主その光と影
宮守氏と宮守舘(宮杜・宮森)
遠野菊池氏関連諸氏と舘
神成舘・宮守舘
T・場所のみの把握
U・全体像或いは一部把握
V・全体の遺溝等の箇所把握
W・図面等作成可能
Aを基準(鍋倉城)に規模が小、B〜D
大なるものはS
A・ほぼ判然と残されている。
B・風化や一部破 壊があるが、判別できる
C・ほぼ皆無
T・平城系
U・車等で行け着ける
V・山登り必要
W・危険度大
急斜面多い
舘熟知度T〜W 舘規模S〜D 遺溝保存状況A〜D 難易度T〜W  
舘熟知度 V 舘規模 C 遺溝保存状況 C 難易度 U   その他
  舘(城)名 神成舘(かんなりだて) 別称 宮杜舘 
  所在地 岩手県遠野市宮守町上宮守西風地内  
  現存遺溝   一部空堀    土塁    帯郭   
関連諸氏・人物 宮森 左近 ・ 宮森 主水   (別説・菊池 武敏・武世)
築年代・使用年代 南北朝期、室町初期
  その他 案内板、標柱有り
神成舘
概要と攻城記
 神成舘は、遠野市宮守町上宮守、西風地区内に位置する。
 北は上宮守宿地区、西側は下村、沢村地区、南は小沢地区に隣接し、東は遠野市綾織町へ至る小峠付近への山野が連なる西端に位置している。

 築城年代は不明ながら、南北朝期に築城とされる諸説有り、また永享の乱(1437)での遠野合戦にて、遠野横田城救援の三戸南部氏、南部守行、義政父子が三戸南部勢を率いて遠野郷入りし、その際の宿陣として、この神成舘に入ったと伝えられている。
 遠野横田城を囲んだ気仙勢、大槌勢は、三戸南部氏が遠野阿曽沼氏救援の軍を進発させたと知ると、機先を制すべく伏兵を配置し、南部勢が宿陣として入った神成舘に夜襲を敢行、不意を襲われた南部勢は散々に敗れて、達曽部方面へ退却したと伝えられている。

 舘主は宮森 左近と伝えられるが、その後の歴代は主舘を西に2キロ程の宮守舘を築いて移り、その後の神成舘はどうなったのか不明でもあります。
 詳細については、別頁「宮守氏」にて記述いたします。

南部守行遠野来援「永享の乱・遠野合戦」はこちらを参照ください。

攻城記

 平成15年春、遠野郷舘めぐりと称して東京都の稲用さんをお迎えしての探訪、この際は場所の特定と一部標柱の建つ箇所付近の調査にて終了。
 しかし、稲用さんのサイト「奥州城壁癖」での記述には、標柱の場所は的場跡の可能性があり、主郭部分は東の山野にあるのではないのか?と考察されており、以後少し気にしていた舘でもありました。

 平成17年11月25日(2005)・・・・・
 11月23日に宮守氏居舘である宮守舘を調査、以前の宮守氏居舘とされる神成舘の調べも必要不可欠でもあり、二日後の11月25日、単独攻城。
 標柱が建つ段上の農地、最上部の平場にて農作業中の地権者と幸にも接触でき、色々と舘にまつらうお話しを伺うことが出来た。

 伺った内容は以下のとおりです
 
 @標柱の建つ平場は舘内か
   
 以前から馬場跡といわれている。段上の平場が数段続いているが、今は畑としている。標柱の建つ頂部は以前はもっと狭かったが、自分が削って平らな部分を増やして農地とした。
 北側を取り巻く道跡が残されているが、昔、馬の調練のコースだったと伝えられている。


 A隣接する東の山野は本舘ではないのか。

 東側が舘跡とは聞いたことがない、しかし、近世に入って(藩政時代か)山伏や修験者が使ったといわれる道跡が残されている。
 自然のものではなく、人工的に造られた形跡を残すものである


 B神成舘の本舘はどこなのか。

 この標柱の場所ではない、馬場跡といわれているので、その一部にかかっている可能性はあるが、地元郷土史家の先生が目立つ場所として標柱を建てたにすぎない。神成舘は西側に隣接の山野である。
 馬場跡下の道跡が広くなって、舘跡の平場をとりまく地形につながり、その跡がよく残っているが、昭和の初めまで、地元で馬の手綱をひいて運動させたりもした。


 C何か掘跡とか、土塁といった人工的に造られた形跡の地形はあるか

 西の山野には、段状の形状はあるが、舘として使われた時代のものかは不明である。

 次に上記により実際に現地にて確認した事柄

@について
 平場下北〜西を取り巻く道跡とする形状は、帯郭の可能性が大きいが、隣接する西側山野との切通しらしき形状がみられ、空堀とみられる形状が一部みられる。

Aについて
 5〜6メートル程の斜面を駆け登り、峰伝いに進入すると、峰伝いに幅1メートル、深さ50センチ〜1メートルの空堀らしき形状が東に続いていた。
 無論、自然による形状とは考え難く、人工的に造られた形状と判断する。峰伝いに100メートル近く確認したが、空堀とされる防御構築物ではなく、道跡ではないのかと判断する。

B、Cについて
 西側山野で一番高い場所の頂部は平場がみられる。東西約10メートル、南北約5メートル、中央には馬産関連の石碑が建つ。
 さらに周囲を帯郭らしき平場(幅約3〜7メートル)が東から北、西そして南方面を取り巻くように位置している。
 さらにその場所から西へ進むと北側に急に落ち込む急傾斜地があり、その峰沿いにAと同様の東側山野にみられる道跡らしき形状がつづいている。
 また北側に落ち込む縦堀らしき形状2本を確認するも、堀跡かどうかの判別は不明。
 西端まで確認したが、急傾斜地に段状の平場は確認できなかった。



2005年11月末における現地調査による考証

 地元の方による説明、さらにそれに近い形状を確認することができ、ほぼ標柱の建つ場所に隣接する西側山野が神成舘である可能性は大である。
 主郭と思われる平場は狭すぎると感じもしたが、これらを取り巻く平場は、紛れもなく帯郭であると思われ、背面すなわち東側は切岸され、一部堀跡と思われる形状が現存しているところを考えますと、こちらが神成舘の本舘と思わざるをえないことでもあります。

 また、西端は眼下に一部上宮守各地区が広がり、位置的な事柄でも舘としてのロケーションは十分備わっていると判断もいたします。

 西〜東につづく道跡らしき跡は、空堀といわれる遺溝的なものと判別は難しいものの、尾根伝いにつづいている点、地元で語られる山伏達が使う裏街道的な要素も十分考えられ、遠野へ至る山道だった可能性は十分考えられることでもあります。
 私の住む松崎町内の裏街道的な道も、尾根伝いに構築されたものが現存しており、平地を迂回する道を辿るより、案外楽にしかも時間短縮になることは十分考えられることでもあります。
 ただし、中世における舘機能として、高い位置での東側山野から舘の生活用水と引いた水路跡ともとれる考えも成り立ちそうでもあります。


 なお、参考までに、「岩手県中世城館跡分布調査報告書」にて、東側の山野が本舘とされ、その道の専門家による調査に基づいてのものでもあるので、さらなる探訪と調べが必要でもある。

馬場跡から西風集落を望む

東側山野の道跡

東側山野の道跡

西側・・主郭付近の帯郭

主郭と思われる頂部平場

主郭付近の段状の形状

西側の道跡

馬場跡と西側帯郭との切通し部分・・空堀跡

西部分における北側に落ち込む縦堀跡?

馬場跡下部、掘切部分からつづく堀跡?

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