杉山舘
館と舘、その光と影
 遠野郷の城館跡
遠野町の城舘跡
旧遠野町
杉山館
程洞館
長洞館
袖高屋館
鍋倉城
舘熟知度T〜W 舘規模S〜D 遺溝保存状況A〜D 難易度T〜W   その他
T・場所のみの把握
U・全体像或いは一部把握
V・全体の遺溝等の箇所把握
W・図面等作成可能
Aを基準(鍋倉城)に規模が小、B〜D
大なるものはS
A・ほぼ判然と残されている。
B・風化や一部破 壊があるが、判別できる
C・ほぼ皆無
T・平城系
U・車等で行け着ける
V・山登り必要
W・危険度大
急斜面多い
     熟知度         舘規模        保存状況       難易度
舘熟知度 V 舘規模 C 遺溝保存状況 B 難易度 U   その他
  舘(城)名 杉山館(すぎやまだて)  
  所在地 岩手県遠野市遠野町   比高66m
  現存遺溝 山城  一部空堀  土塁  腰郭     
関連諸氏・人物                  欠之上稲荷建立、欠下茂左衛門
築年代・使用年代 戦国時代末期?
  その他 欠之上稲荷神社
欠之上稲荷神社の説明板等 欠之上稲荷神社本殿
神社背部(南東側の空掘跡) 空掘上部
東側の帯郭(図のB) 北西側の平場と帯郭(図のA)
南東側の帯郭(図のA) 大日山側との境の段状の形状(帯郭)(図のC)
大日山側との境の段状の形状(帯郭、中程) 大日山側との境の段状の形状(帯郭、下部)
館跡の概要
 杉山館は現在稲荷下と呼ばれる地域の東側山野の上方、欠之上稲荷神社の南部分の山野一帯である。
 
 館跡そのものを示す遺溝等は、社殿の背部にその一部ながら空掘跡が確認でき、その跡は南側から北側に下って社殿背部付近へ至り、上方である南部分は西へカーブしているが堀跡の形跡は消えており確認はできない。

 ただし、そのはじまりであろう空掘跡なのか、帯郭的な段状の形状は確認できる。

 空掘跡の西側は2段の帯郭跡が確認でき、東西に細長い平場があるも、この部分が主郭なのかは今の段階ではわからない。

 空掘を挟んで東側山野は尾根で繋がっており、JR釜石線の線路上方の急傾斜な山野が南へ折れ、鶯崎方向へと尾根は続き、さらに青笹方向へと続いているが、館や見張場的な遺溝は確認できない。(上部の空掘跡から東側に尾根下を取り巻く帯郭が数十メートルに渡って確認できる)

 先に記述の東西に細長平場のさらに西側は緩い傾斜地、平な部分を挟んで小高い山野が隣接されており、この方面は大日山、すなわち日枝神社へと続いている。
 
 その下方は6段の帯郭が確認でき、下3段に至っては、よく切岸された形状を残し、高さ2メートルから2.5メートル、東西の長さ25メートル、幅8メートル〜15メートルと遠野の規格では大きめの段状の平場(帯郭)であり、その原型もよく留めていると思われます。
 
北方面、松崎、白岩方面・・・欠之上稲荷神社境内から 西方面、遠野市街地(旧城下)方面・・・欠之上稲荷神社境内から

 旧遠野町の城館跡は、阿曽沼時代後期の天正年間に、阿曽沼広郷が築城したといわれる横田城(鍋倉城)があるが、その北側に位置する来内川と早瀬川との間に新城下町が整備され、さらに寛永年間に八戸氏(八戸根城南部氏)の遠野入部によってさらに拡大整備された。

 これ以前の城館に関しては、後の城下町の東側、南側に点在し、上郷来内から城下へ入る道筋の山野に見られ、これら館の役割は気仙郡方面からの侵入を防備、監視といった役目を担っていた可能性が大であり、村落もこの方面に発展していたものと推測されます。

 それぞれの城舘が何時整備されたかは不明ではありますが、戦国時代の初期頃と末期或いは慶長年間か、いずれその時代背景は不明な点もあるが、上記のように展開されている事柄を踏まえ、若干の考察等も交えたいと考えます。

杉山館の役割等
 杉山館は遠野城下町の東、南側に展開し、城下町側の南部分は急傾斜地となっているも南側の大日山寄りに行くほど山野は低くなり傾斜も緩くなっている。

 館跡を探訪する限りでは、その前面は南側であり、特に大日山との境である浅い谷の南斜面は遠野での館跡でも稀な大型段丘6段(帯郭)が配置され、特に下部の3段は切岸の高さ、幅、長さとも良好な残存度であり、見るものを圧倒するものがある。

 この残存度を見る限り及びその造りを考察するに戦国時代後期或いは慶長5年の遠野の政変直後の改築かと思わせる部分が感じられる。

 このことは、遠野の政変で遠野を追われた遠野孫三郎(阿曽沼広長)が気仙勢を借受けて遠野の奪還に兵を繰り出す風評があり、遠野方はその進路と思われ、遠野城下への最後の関門となりうる杉山館の防備強化の為、新たに6段にわたる帯郭を整備したのではないのかと考察しております。

 杉山館の場合は、浜峠方面(東、南側)を前面としている配置でもあり、杉山館構築の際は、村落、集落は浜峠方面にあった可能性があり、また後の城下町を含む、早瀬町、現松崎町の白岩方面は、来内川や早瀬川の度重なる氾濫等で川原となし、その流れもいくつか変貌があって、農地としては適していなかったのではないのか、また鎌倉初期においての遠野の様子を推測ながら何人かの郷土史家も考察しておりますが、河川の氾濫等で湖沼が多く点在し農地が開拓されていなかったのではないかといわれております。

 杉山館は、気仙郡からの道筋である上郷、青笹方面の監視、防備といった要衝として青笹中妻の丑館(臼)があったされますが、この丑館はさらに遠野方面への道筋、浜峠の監視強化を狙った館でもあるといわれ、その道筋の延長線上に杉山館があったものかもしれません。

 杉山館の今現在確認できる空掘跡から判断すれば、西方面も前面とみることができますが、崖状の急傾斜地を持つとはいえ、主郭部分としてみている平場下配置の帯郭の跡がほとんど見えない点、これらを考えれば一概にはいえませんが、極めて南側が前面であろうと考察しております。


 その築館年代の特定は難しいながら、戦国初期の頃に見張場的な工事がなされ、後に戦国時代の後期に本格的な山城として改良が加えられ、鍋倉城の支城的な役割も担い、この時に城下方面を前面としたものか、さらに慶長年間に防備強化が図られたものと私は推測いたします。

 なお、欠之上稲荷神社(建立当初は欠下稲荷)を建立したとされる葛西氏遺臣といわれる欠下茂左右衛門と館との関連は不明ですが、館下に当初、稲荷社を建立したと伝えられ、歴代の館主のひとりだったかもしれません。

 葛西氏の遺臣と伝えられ文禄年中に遠野入り、葛西氏家臣団関連の調べでは今の所その名を探すことはできませんが、遠野孫次郎或いは孫三郎に登用され、その館の工事等にも手腕を発揮したかもしれません。(遠野南部家遠野入部時にはその名が確認できる)
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