舘熟知度 V 舘規模 B 遺溝保存状況 B 難易度 U その他 
舘(城)名 達曽部舘(たっそべたて) 
所在地 上閉伊郡宮守村字達曽部(遠野市宮守町達曽部)
達曽部小学校北側山野 
現存遺溝等 郭、帯郭、平場、空堀、土塁     平山城  高40m
関連諸氏・人物等 多田光俊(達曽部孫太郎)・達曽部弥右衛門忠綱(天正年間以降)
築年代・使用年代 不明・建武、延元の頃との言い伝え
その他 東側隣接山野には八幡社・説明板有

達曽部舘と達曽部氏

攻 城 記
 郷土史を始めて二年目、書籍や地域に伝わる伝承のみならず、史跡探訪という分野からも郷土史を見つめていこうと思い立ったのが、2003年の春であった。
 サイトリンクをいただき、城探訪がメインでしかも北奥羽史関連も取り扱う「奥州城壁癖」の主宰者、稲用氏(東京都)との出会いがひとつのきっかけとなり、机上の世界からフィールドに飛び出して、肌で歴史を感じる、まさに郷土史を学ぶうえでの良き出会い、きっかけともなっております。

 2003年春・・・・
 平成15年3月、インターネットを通じて、北奥羽史、特に阿曽沼氏、南部氏関連での研究では私と重なる数少ない研究家である東京都在住の稲用氏と情報及び意見交換等を時折してきたのですが、稲用氏からゴールデンウイークに遠野の舘めぐりをしたいが、ご案内できますかの連絡、当方も史跡めぐりにて新たな郷土史の方向性を模索していた時期でもあって、即了承の返信をしたと記憶している。
 しかし、場所の特定がほとんどなされていない現実にて、まずは下調べとばかりに4月中旬、主だった舘跡調査に踏み切り、稲用氏を迎えての迎撃戦の形だけは整えたつもりであった。
 まさに達曽部舘は私が舘(城)というものに最初に出会った舘でもありました。

 平成15年5月2日(2003年5月)
 稲用氏と共に遠野郷における記念すべき最初の舘は達曽部舘でありました。
 まずは遠景、さらに案内板の撮影を実施、山の感じなんかを遠巻きに見て、次の舘へといざなうつもりであったが、稲用氏は城跡である山の方へと歩みを進める。「えっ、行って見るの・・」と心の中でつぶやく・・・さほどの山登りではないが行ってみたところで何があるというのか・・・正直そんな思いでもありました。
 途中、山を取り巻く段差を発見・・・「なるほど・・・城っぽい」・・・間もなく頂上の平場に到着・・・何もないが、古はここに建物があったに違いないと素人目でも考えはつく、平場を一回り・・段状の平場が全体を取り巻いている・・・「ほっぉ〜・・・」感心する自分がそこにはおりました。
 平場の探訪後は東側を探索、稲用さん曰く「空堀がありますよ」・・確かに溝のようなものが二重に走っている・・が、心の中で「この溝は木出しの際に付けられた山道であろう・・」と正直思った。全くこの時は空堀とはなんたるものか、ただの溝との判別もできない程のド素人でもあったのです。
 それでも切り崩した跡や取り巻く平場にては往時を偲ぶといったところまではたどり着いていたものと私は思っております。
 その後、この日の午後訪ねた鱒沢舘にて保存状態の良い、しかも大き目の空堀を目の当たりにしてはじめて達曽部舘の遺溝が空堀跡であったのだと・・・遅ればせながらわかった次第でもありました。
 いずれにしても、舘めぐりの第一歩を記したのが達曽部舘であります。

 
 平成17年5月2日(2005年5月)

 稲用氏を通じて八戸市在住、同じく北奥羽関連の舘跡を紹介するサイトを開設している睦月庵さんと出会うという幸運に恵まれていたが、睦月庵さんとは何度かお会いし、遠野の舘も共に一度探訪、さらに盛岡や八戸でも盃を交わして歴史話等を興じている今や北奥羽史関連の友好サイトとなっているが、自分の中では遠野郷舘めぐり第二弾、遠野春の陣と称して睦月庵さんを迎えて遠野含む旧上閉伊郡、さらに気仙郡の一部を踏破する城廻りを実施するに至る。
 その最終日、気仙郡(住田)の舘跡を探訪、予定の箇所は消化していたが睦月庵さんを花巻駅までお送りする途中ということで、比較的探訪し易い達曽部舘をご案内、奇しくも二年前の同日という偶然でもありましたが、今度は以前のように軽く見ないでしっかりと探訪するぞ・・との意気込みを持って達曽部舘に挑みました。
 睦月庵さんも流石でして、稲用さんが発見した二重の空堀を見るとすぐに反応し、まさしく空堀とのご見解、遠野郷には割りと珍しい平山城を堪能されたものと推察いたします。


達曽部舘遠景・・・西側から撮影


達曽部舘(左側の山野)

南側・・・かつては水掘だったと伝えられる

頂部平場(主郭)

北側段状の平場

北側段状の平場

東側の空堀跡・・・二重のうちのひとつ

南側

達曽部氏の考証
 達曽部氏・・・・
 遠野側の古書、資料(阿曽沼時代を記したもの・・上閉伊郡誌、阿曽沼興廃記、阿曽沼家乗、その他の資料)によれば、達曽部氏は、多田光俊(達曽部孫太郎光俊)を遠野郷での祖とし、遠野代官宇夫方氏による遠野郷内における勢力浸透過程にて婚姻関係となり、以後遠野方の宇夫方氏、さらに阿曽沼氏の勢力下に組み入れられたものと語られている。
 多田光俊は、建武、延元年間に達曽部舘を築城したと伝えられ、鎌倉後期〜南北朝期前半の人物であるのがみてとれる。


 それでは地元である宮守史関連では、達曽部氏は下野国から阿曽沼氏配下として下向した一族で、主家である阿曽沼氏から達曽部地域を与えられ、以後地名の達曽部を名乗り代々命脈を保ってきた武家であると語られている。

 同地域ながら遠野、宮守双方の見解に食い違いが生じているが、遠野史においては、達曽部氏は鎌倉以前からの土豪とされ、下六郷の内とされる達曽部地区で依然勢力を保持し、遠野代官として遠野郷に入部した宇夫方氏にとっては、遠野郷西側部分への勢力浸透の脅威のひとつとされ、その懐柔には百年以上の年月を要したものと解釈されている。

 下野国からの下向説、以前からの在地勢力説、なかなか的を絞れない見解が先人によって示されているが、達曽部氏は本姓を多田といい、各市町村史をはじめ、和賀氏や多田氏関連の内容を記した書籍での見解も多田氏系の一族であるとの見解が示されている。さらに地元達曽部地区は多田姓が多く、その歴史的つながりの一端をのぞかせている点からもみてとれる。

 疑問と考察・・・・
 平泉の奥州藤原氏が滅び、それまで平泉の影響下であったと思われる遠野郷は鎌倉御家人である下野国の阿曽沼氏の領分となったといわれる。
 藤原氏が滅んだとはいえ、郷内各地には地勢力が少なからず存在したと推測され、阿曽沼代官として下向した宇夫方氏による領内統治も何かしらの障害や脅威もあり難儀したものとも推測されます。
 ことに達曽部地域は後の時代も含め、閉伊郡の内とはいえ西は和賀郡、北は稗貫郡、東は遠野、南は宮守と境を接し、諸勢力が入り乱れやすい環境だったのではないかと想像され、閉伊郡の西端という位置付けというより、境を接する各勢力とも自領であるとの認識を持つ地域だったのではないのか、それらの各勢力との狭間で鎌倉時代後期の頃に地勢力は衰退し、建武親政前後に遠野宇夫方氏による勢力浸透がみられたのではないのか・・・・こういった観点から私なりの考察をしたいと思います。

・阿曽沼氏配下として下向した一族説
 阿曽沼氏の遠野郷下向は鎌倉初期とされ、宇夫方氏を代官として下向させて、下野国からの遠隔統治がしばらく続いたとの見解が主流で、しかも宇夫方氏による領内整備は、当初、遠野郷の北側、東側部分からはじめられたとの考察がなされ、その地域は当初、現在の遠野市松崎町駒木地区、附馬牛町、土淵町、さらに松崎町光興寺、白岩地区の一部へと広がり、さらに青笹、上郷方面の東側へ浸透、西側部分への勢力拡大は綾織谷地舘築城の頃からで、鎌倉中期〜後期と私は考察しております。
 こうした西側方面の勢力浸透は宇夫方氏入部から50年〜100年の年月を要したものとの考えで、それでも綾織町全域、小友町、鱒沢を把握したに過ぎず、宮守、達曽部方面を影響下に置く時代は今少し先との考えでもあります。
 ただし、達曽部地区は遠野附馬牛地区と山岳地帯を挟んではいるが隣接しており、こちら方面からの接触は可能であったとも考えられ、阿曽沼氏というより宇夫方氏と共に下野国から下向した後の達曽部氏を名乗る一族が早くからその領内経営に携わっていた可能性がないわけではないが、宇夫方氏は下野国からどれだけの人員を率いて遠野郷入りしたのか、領内西端に位置する達曽部地区の周囲の状況を判断するにかなりの有力家臣を配置する必要性もあり、入部当初の宇夫方氏に果たしてそれだけの力があったのか、こちらも疑問でもある。

・建武親政或いは南北朝期説
 達曽部氏は南部藩参考諸系図によれば、多田氏とあり、多田源氏、多田満仲を祖とする系譜とある。
 しかし、その系譜そのものに疑念も発生し極めて疑がわしいが、本姓を多田と称する達曽部氏、多田氏系の一族である可能性は極めて高いと私は考えている。
 
 さて、遠野史においては、達曽部舘主の多田光俊(達曽部光俊)は、後継が絶たれていたが、遠野宇夫方氏、宇夫方親定の子、定行を養子として迎え達曽部氏を継がせたと伝えられている。達曽部定行は達曽部民部と称し、この婚姻によって宇夫方氏と達曽部氏の同盟が成り宇夫方氏の積年の懸案である遠野郷西側への勢力浸透の最終局面を迎えたかのように思わせる内容であり、以後、達曽部氏は宇夫方氏との関係が色濃く残る事跡も一応に散見される。


 達曽部氏の出目についてのまとめ・・・考証

 多田和賀氏とされる一族の和賀郡内及びその周辺地域にての興りは、色々と論じられているが、この和賀氏系多田氏と達曽部多田氏との関係が達曽部氏の出目を解く鍵であると考えられる。
 多田和賀氏関連の所伝によれば、建久2年(1192)多田忠明という人物が和賀郡更木に入部と伝えられ、また別系の多田氏、多田左近、右近兄弟の和賀郡黒岩入部は建武2年(1335)と伝えられているが、謎の部分ともされ、今後の和賀氏関連の研究、調査の動向に注目しつつ、私も機会を捉えて和賀氏関連の研究の一端にて触れていければと思うところでもあります。

 さて、簡略的に語られるも、興国6年(1345)、南朝方鎮守府将軍、北畠顕信(顕家弟)が発した教書の相手に多田左近将監(たださこんのしょうけん)という南朝側の武将が居たことが知られている。この教書では南朝側として多田氏に軍事催促をしている内容ながら、後の府中合戦では多田左近将監は南朝側から北朝側に転向、この多田氏が和賀郡内に居たという確証はないものの、和賀郡内或いは北上川流域の何処かに居た可能性も高く、多田氏系一族の土着としては有力な人物であると思われます。
 また、北畠顕家が糠部郡、津軽方面へ宮方としてのテコ入れ強化の為、南部師行への支援として送り込んだ多田木工助貞綱なる人物も散見され、さらにその多田氏の一族と目される多田三郎左衛門尉という人物が気仙地方に活躍と伝えられ、この多田氏の一派は気仙北部、そして猿ヶ石川流域、閉伊地方へと移り繁栄したといわれ、これら建武年間から南北朝期に散見される多田氏の一族の誰かが達曽部氏を名乗った可能性が極めて高いのではと考察いたします。
 遠野郷との関わりは私見ながら、先にも記している内容に照らし合わせるに、達曽部地区は在地勢力と近隣勢力が入り乱れる環境ながら、遠野阿曽沼氏(宇夫方氏)の把握する時代がようやく鎌倉期後半から南北朝期前半に到来したのではないのか、そして南朝側からのテコ入れ対策の一環として多田氏が送くり込まれ、遠野代官、阿曽沼朝兼或いは宇夫方氏の支援の下、多田氏が達曽部地区に入部、近隣勢力で当時一番影響力が強かった宇夫方氏と婚姻による同盟が成り、以降達曽部氏は遠野との関わりを強めながら代々命脈を伝えて行ったのではないのか・・と推測いたします。
(隣接の宮守地区においては、俗説ながら南朝方菊池氏一族の入部が伝えられ、その考察として、南朝側による遠野阿曽沼氏支援ととれる内容が語られている・・・・九州菊池一族・菊池武敏の宮守舘築城等「遠野菊池党・入内嶋崇 著」)
 
 まだまだ未解明であり、推測での内容でもありますが、遠野郷における下郷(宮守、達曽部等の西地域)は遠野阿曽沼氏(宇夫方氏)による勢力浸透は難航したと思われ、ようやく鎌倉期後半から南北朝争乱の頃に把握する段階に至ったものと推測され、それでも他勢力や在地勢力との何かしらのトラブルもあり、直接統治は難しいものではなかったのか、折りよく建武親政が成り、さらに南北朝時代が到来すると南朝方による支援対策の一環として有力武族が派遣され、これら諸氏も阿曽沼氏(宇夫方氏)の武力に頼りつつ、互いに協力関係を築くことで遠野郷西側地域の本格統治が始まったものと解釈され、この時代背景、環境の中で達曽部氏の興りを見ることができるものではないのかと考察いたします。
 よって始祖とされる多田光俊、建武年間に達曽部舘を築城、宇夫方定行を養子とする・・・の所伝は若干年代が繰り下がるも、南北朝時代の頃、ほぼ「阿曽沼家乗」の記述に近い内容かもしれません。


 戦国期及び以降の達曽部氏

多田光俊(達曽部孫太郎)→達曽部民部(孫七郎定行)→達曽部民部→達曽部兵庫→達曽部孫右衛門(忠綱)

 遠野側における達曽部氏の系譜を列記いたしましたが、南部藩参考諸系図に記載の歴代には多田光俊、民部、兵庫とされる歴代の人物は掲載されていない。しかも歴代が大まかで、少なくても天正年間の人とされる多田忠綱までには3代の当主が入るものと思われるが、参考諸系図と阿曽沼家乗や郷土史資料の遠野側の所伝とは孫右衛門(忠綱)以外はほとんど合わない内容となっている。

このことについては、サイトリンクいただいている「奥州城壁癖」管理人・稲用氏(東京都)が、系図含めてその出目、疑問等から詳しく分かりやすく見解を記しておりますので、一読をお薦めいたします。
奥州名族史略・達曽部氏参照・・・こちら


 戦国期となると達曽部氏は北で隣接する稗貫領大迫氏と共に紫波郡の斯波氏の影響下となっていたことが知られている。
 これは南下攻勢を強める三戸南部氏と斯波氏が岩手郡をめぐる攻防戦に関連する内容であるのは明らかであるが、室町幕府による北の鎮台というべき大崎氏(大崎探題)により紫波郡に一族である斯波氏が派遣され、以後その権威を示す時代にて近隣諸氏がその旗下に馳せ参じるといったことによるものと解釈される。
 三戸南部氏の南下攻勢が激しさを増すのは天文年間からと思われるが、それ以前にも南部氏と和賀氏との戦いが紫波郡内でも繰り広げられていた伝承もあり、この時既に和賀氏、稗貫氏、そして斯波氏の連合によって南部氏に対抗していたものと推測されます。
 一時期は斯波氏は南部氏に対して反撃に出、岩手郡の一部を回復していたものと思われますが、和賀氏、稗貫氏のみならず遠野阿曽沼氏の武力援助があったことも資料には散見され、阿曽沼一族と思われる人物や家臣、さらに達曽部氏といった遠野郷内の小領主も、家臣として出仕していたと思わせる記述等がみられる。
 達曽部という閉伊郡の西端、近隣勢力の影響の受けやすい地域柄ではあるが、斯波氏による武力援助の要請は遠野阿曽沼氏にも及び、特に稗貫郡、紫波郡に隣接或いは近隣である達曽部氏にまずはその白羽の矢がたてられ、阿曽沼氏の前衛部隊としての位置付けが当初の斯波氏との関係ではなかったのか、天正16年(1588)南部氏による紫波領の侵食は岩手郡から斯波氏本領地域に及ぶに至り、斯波氏家臣団の内紛によりその結束は乱れ、ついに紫波高水寺城は南部氏の手に落ち、斯波御所家といわれた斯波氏は滅亡、その際の離反組に達曽部氏の名もみえ、いわば達曽部氏は外様的家臣でもあり、戦火の渦中からいち早く距離を置くことにより、南部信直から達曽部の地を安堵されたものと推測されます。
 間もなく豊臣秀吉による全国統一、南部氏附庸となった遠野阿曽沼氏、遠野郷は表向きは南部領に組み込まれた形ながら、遠野領主としての裁量権は阿曽沼氏(阿曽沼広郷)に与えられ、その命脈は保つことができたが、遠野郷の西端たる達曽部を阿曽沼氏から切り離すことで後に遠野領完全接収の布石としての達曽部氏と達曽部地区の位置付けが生かされるだろうと思われる目論見があったのではないのか・・と考えるのは私だけでしょうか・・?

 その後の達曽部氏は南部藩士として命脈を伝えているが、系譜にみる遠野側の歴代、参考諸系図にみる天正年間以降の歴代との相違は現段階では「奥州城壁癖」稲用氏の考察が的を得ているものと思われます。
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