遠野郷の城舘跡
宮守の城舘跡
石倉館 仔の頁
落合館
神成館 別項
宮守館 別項
達曽部館 別項
鱒沢館 別項
高館
遠野郷宮守の舘跡
石倉舘
舘熟知度 V 舘規模 B 遺溝保存状況 B 難易度 V   その他
  舘(城)名 石倉舘(いしくらだて)  別名 館(たて)  
  所在地 岩手県遠野市宮守町上宮守戸草   
  現存遺溝 山城  空堀  土塁  腰郭    
関連諸氏・人物  詳細不明 
築年代・使用年代 室町時代〜
  その他 南東に八幡社

 遠野市宮守町(旧上閉伊郡宮守村)は、東の鱒沢地区は遠野市綾織地区、小友地区と隣接し、宮守地区は、東部分で鱒沢地区、南、西は現花巻市(旧和賀郡東和町)北は達曽部地区と隣接、達曽部地区は東は附馬牛、南は宮守、西及び北は現花巻市(旧和賀郡東和町、稗貫郡大迫町)と隣接し、猿ヶ石川流域に古くから栄えた地域であったと思われます。

 
阿曽沼時代の遠野郷宮守は、大きく分けて、達曽部地区は多田氏系の達曽部氏、宮守地区は本姓を菊池氏と称する宮守(宮杜・宮森)氏、鱒沢地区は遠野阿曽沼一族の鱒沢氏がそれぞれ治める地域であった。

 
特に北、西部分は稗貫氏、和賀氏との領域が隣接しているが、遠野阿曽沼氏との結びつきが強く、一概にはいえないが、遠野阿曽沼氏影響下といった位置付けであったろうと想像されます。

 宮守町内には達曽部館、宮守館、鱒沢館さらに伝説的に伝えられる神成館(上宮守)、高館(鱒沢)が主に紹介されますが、未だに眠る知られざる城館が十数ヶ所存在するといわれております。

 また、これらを紹介する資料、書籍も皆無に近く、その調べは難航することが予測されますが、地域に入って口伝等を採取しながら、その場所の探訪、探求にて対応してご紹介したいと考えております。

西部分下部の帯郭 東部分下部の帯郭
東部分下部の帯郭 同左
西部分下部、南斜面の空掘跡 同左
主郭背面北側の一重目の空掘跡 同左(堀底)
同上 同上
二重目の空掘跡 主郭下、西側の帯郭
主郭下、西側の帯郭(下部の段状の形状) 主郭背部の土塁跡
石倉館の概要
 石倉館は、上宮守戸草地区の北側の山野にあり、南側は牧草地、さらに旧国道、国道396号線が走り、隣接の西側山野に愛宕神社、南東側の山麓には八幡神社が鎮座している。

 舘跡がある山野は、西部分は雑木林、東から北部分は杉林となっているが、雑木林と杉林の境目は浅い谷状、窪地となっており、その中央中腹には、地域の水道水源施設跡が残されている。
 
 この施設跡の左右の斜面には、双方南北に細長い平場が形成されており、その下部には3段の帯郭が配置され、フェンス及びコンクリート製の階段、さらに建物が残されている水源施設跡の中腹は平場があるが、その背後、左右にも断続的ながらも2段の帯郭が配置されている。

 西側の帯郭最下部には空掘跡と思しき形状が確認できるが、下部は小さな段状の形状も確認でき、堀跡か帯郭かは判断が難しい。

 水源施設跡の北側はさらに高い山野となっているが、この山野が主郭と推測され、南北約70m、東西約15m〜30m、浅い2段の段差があるが遠野における館跡の主郭としては広い部類に入る。

 主郭周りは東〜北は2段の帯郭、西部分は3段の帯郭が配置されており、主郭背面には二重の堀で山野を断ち切っており、一重目の堀跡は、堀底幅が8メートル、土塁の高さ10メートル、鱒沢館の背面の空掘跡に匹敵する大きさを誇っている。

 また二重目の堀は、雑木や大石に覆われているが、かつての堀跡を林道として活用していた形跡があり、峰の端から大きく北方向に湾曲している。

 情報によればこの二つの堀は西方面で合流しているとのことですが、2006年12月の探訪時点では確認しておりません。


 遠野市内においては、大規模な部類に入る館跡であり、館主含むその詳細は伝えられていない。
 ただ、古より地域にて「館」と呼ばれていたとのことで、まさに知られざる館跡であると思います。
画像中央の杉林とやや左下の雑木林が館跡 館跡、南東山麓の八幡神社(屋号石倉屋敷跡地)
石倉館考察
 2006年11月、友人のブログで紹介された上宮守戸草の八幡神社関連で、神社に縁ある御仁から社の北西側の山野は館跡であるという情報をいただきました。

 この情報により、当サイトで掲載の遠野、宮守の館跡一覧表では、該当の館跡は「石倉館」、さらに日本城郭体系2(青森・岩手・秋田)の城跡では、主な城館跡としては掲載はされていないが、その他の城館跡一覧表として上閉伊郡内の城館の中に「石倉館」として掲載されております。

 その沿革、遺溝等は不明という内容ですが、初探訪での調べでは、遺溝等はよく残され、しかも要所と思われる場所には帯郭が配置され、整然と配列されており、また空掘も大きく見応えのある館跡との印象でもあります。

 さらに遠野市内の館跡では大きな部類に入る山城であり、極めて遠野規格型に該当する館でもあるという印象です。

 
 遠野阿曽沼時代、ここ上宮守地区の歴史をみれば、第一に宮守一族(宮森)が挙げられると思います。
 (宮守氏に関しては別頁に掲載)

 宮守氏は、少なくても室町時代初期には当地域を領していた一族であると私は考えてますが、その当初の居城を神成館(上宮守西風)と伝えられ、(私も館跡の探訪を実施済み)その遺溝等の痕跡はだいぶ薄れてはいるが、かつての館跡であった痕跡は確認できます。

 後に宮守一族は、主館を宮守館(小沢館・熊の洞館の別名)に移したといわれますが、この宮守館は極めて戦国的な構えであり、他の遠野市内の戦国期に築館された館と類似している。

 さて、石倉館、石倉館も戦国的な構えであり、規模もさることながら防御という点では宮守館と遜色のない構造を有していると私は判断しますが、何故に館の歴史や館主に関して伝えられていないのか疑問でもあります。

 これはひとえにその歴史を何かしらの理由にて消し去られたものなのか、単に廃館という形でその拠点の場を移してのことなのか、これも疑問のひとつでもありますが、宮守氏がその居館を宮守館に移す以前に神成館からこの石倉館を築いたものではないのかと考えます。

 そして宮守氏のその領域も下宮守地区に広がり、北に片寄り過ぎていた石倉館から、宮守館に居館を移したものではないのか、また石倉館もすぐには停廃されず、一族の誰かを以って上宮守方面の監視、防御の要として残されていたと推測しますが、その伝承は皆無といったことを考えますと、一族とはいえ、分家した宮守氏、或いは別系の何かが混在した一族が居て、その考察が大袈裟ながらも覇権をかけた争い、内訌等が発生し、敗れた側は勝者によってその歴史が闇へと葬られた可能性も考えられます。

「私は、妄想的ながら、慶長5年(1600)、遠野阿曽沼氏を遠野から追いやった遠野の政変で謀反側の遠野勢、上野広吉に攻められ落城し、一族四散したと伝えられる宮守館の宮守氏と謀反側に組し、南部利直から宮守に5百石を拝領した宮杜主水を擁する宮守(杜)氏が存在していたのではないのか、どちらかの一派が石倉館主であったのではないのかと妄想気味ながら現段階の考察とします。」

 妄想的な根拠のない考察を上記に示しましたが、宮守町内には菊池姓を名乗るかなり古い御宅が存在しております。
 その昔、本姓を菊池とする宮守氏縁の人々であったとも言われ、また綾織町には宮守を姓とする御宅が数軒ございます。

 どちらも宮守氏縁の人々とも語られますが、遠野の政変にて一族、郎党は四散、その後に辿りついた地だったかもしれませんが、伝えられる宮守氏は、南部家(盛岡)により、宮守地区を賜り、その配下となりましたが八戸氏(遠野南部)が八戸から遠野入部前に、鱒沢氏、平清水氏等と同じく絶家、改易と処断が下され、宮守氏は改易となり浪人となります。

 おそらくこの時に一族が四散したものと考えられますが、南部重直時代(利直の子)に鬼柳(北上市)に隠遁していた宮守主水の子、清右衛門祐光が召抱えられ、以後花巻御給人、南部藩士として命脈を伝えております。(宮杜左並家・本姓菊池、65石8斗3升4合)

 何故に本姓の菊池をそのまま名乗る宮守氏縁の家々があるのか、さらに宮守姓を名乗る家もあるのか、石倉館の事績が全く後世に伝えられていない点からも、館に縁ある一族はこの地に残らなかった、或いは過去を捨て、新たなる出発をしなければならなかった何かがあったのではないのか・・・とも考えます。 

 まさに石倉館は他の遠野市内の館も同様ですが、事績もろとも山中に眠れる館跡といっても過言がないものと思います。

下宮守方向と上宮守国道方向

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