遠野郷土淵の城館跡
本宿舘
  舘(城)名 本宿舘(もとしゅくだて) ・別名 西館  
  所在地 岩手県遠野市土淵町栃内   標高378m 比高88m
  現存遺溝 山城  空堀  水路  腰郭     
関連諸氏・人物 本宿老之丞家久  
築年代・使用年代 天正年間〜慶長年間
  その他
舘熟知度 V 舘規模 C 遺溝保存状況 B 難易度 V   その他
館の概要
 土淵町本宿集落を眼下に望み、高楢山、八幡座山からの峰が続く南端、東西に流れる小烏瀬川沿いの北側山野に位置している。

 峰続きにて西側約300メートルには八幡館、東側約500メートルには大楢館の中間に位置しており、舘跡がある山野の西は頂部はつながっているはいるものの、浅い谷状となっており、東側も同様である。

 北側から延びる峰の先端を主郭となし、その平場は南北約30m、東西8〜12メートル、前面となる南側は6段からなる帯郭を階段状に配置し、西側は2段、東側は谷に落ち込む急傾斜地を形成している。

 また主郭背部の北側は二つの堀にて峰を断ち切っており、西側下部には空掘跡が確認でき、前面の6段からなる帯郭下部に至ってそのまま南斜面を下っている。

 こじんまりとした単純な館といった印象がございましたが、2度の探訪により、ほぼその全容を確認したということで、遠野では一般的規模の山城であり、標準的な造りでもあると考えますが、よく遺溝も残されており見応えのある館跡でもあると思います。

 遠野型規格といわれる要素は含まれておりますが、タイプ的には相違もみられ、他地方から入ったとされる館主の特徴も垣間見れる館跡といった印象も拭いきれない感想でもあります。

 第1回目探訪・・・・2006年11月17日 単独
 第2回目探訪・・・・2006年12月 3日 八戸在住 湊丸氏(I氏)同行
 
全景 主郭平場
主郭北側の第1の空掘 主郭南部分の帯郭
主郭南部分の帯郭 主郭南部分の帯郭
北側最奥部の空掘(2重目) 2重目の堀より主郭方面の尾根
主郭北側の堀と土塁 左画像の反対方面、北側方向
西側の空掘 西側下部の空掘
本宿館主について
 伊豆鈴木の人、鈴木大炊助なる人物が気仙郡内に住したとされ、老之丞家久の時、天正年間、閉伊郡本宿村(遠野市土淵町本宿)に住し、室は遠野孫次郎(阿曽沼広郷)の娘と伝えられ在名での本宿氏を名乗る。・・・・本宿 家久

 後の慶長年間に南部利直より800石を拝領、子の家重の時に150石、さらに家治の代、寛永4年(1627)八戸弥六郎直義の遠野入部時に岩手郡内(滝沢村大釜)に150石を賜り転封、遠野を去った。

 本宿老之丞家久→因幡家重→弥兵衛家治〜・・・・

 盛岡南部藩士と命脈を伝え家禄120石9斗8升3合の家柄とある。


 気仙から天正年間に遠野へ移り住んだと伝えられますが、葛西氏の遺臣か、資料には文禄年中に南部利直より家禄800石を拝領とあるが、慶長年間に南部利直より800石が正しいようでもあります。

 しかし、800石となりますと、現土淵町の大半を治めていたことになりますが、果たして事実なのか甚だ疑問でもあります。
 後に150石とあるように、本宿村とその近辺に150石前後の禄高が正しいように思えますが、阿曽沼氏の娘を室と迎え、本宿近在を治めていた本宿氏、遠野の政変では鱒沢方に付いただろうと推測され、後に南部藩士となるその過程からもみてとれます。

 いずれ小烏瀬川沿いに展開される土淵の館、海上の八幡館とはかなりの近距離、この方面に気仙や江刺といった葛西氏遺臣の一族とされる館主が散見され、旧来の館主と新規召抱えの館主との入れ替えがあったのだろうか?そんな疑問が湧き出る本宿館の印象です。

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