遠野阿曽沼氏
舘と舘主、その光と影

遠野郷小友の舘跡
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鷹鳥屋舘
舘熟知度 W 舘規模 B 遺溝保存状況 B 難易度 U   その他
  舘(城)名 鷹鳥屋舘(たかとりやだて)   
  所在地 岩手県遠野市小友町鷹鳥屋   比高35m
  現存遺溝 山城  空堀  土塁  腰郭  丘陵  虎口跡 
関連諸氏・人物  沖館某・石田宗順・高橋氏 
築年代・使用年代 室町時代〜慶長年間
  その他

※新谷館・平清水館は別頁

 西、南で境を接するのは他領の気仙郡、江刺郡で、気仙郡とは樺坂峠、荷沢峠、蕨峠、江刺郡とは五輪峠の他領との交通、軍事上の要衝を控えた土地柄でもあった。
 またその創始は詳しくは伝えられていないが、安倍時代とも藤原時代ともいわれる金産出の宝庫ともいわれ、後の阿曽沼時代、南部氏支配時代初期の頃は最も隆盛を極めていたと伝えられ、金山をめぐって他領との争乱が絶えない場所であったとも語られる。
 金山の数と比例するように城館跡も広範囲に及びその数20数箇所といわれている。

 交通、軍事両面にわたる重要地域だったことが伺える。

攻城記と館概要
 2003年春、小友鷹鳥屋集落に赴くも、舘跡は鷹鳥屋小学校跡地と承知していたが、館めぐりとはいわず場所の特定のみの探訪・・・・これで満足していた自分がおりました。
 よって遠方からの画像取材のみで終了。

 2006年5月2日・・・・八戸の睦月庵さんを迎えての遠野郷館めぐり・・・・。
 前日1日に引き続き、2日は平山城といわれる比較的山登りの少ない館を選定、二日目最初は上郷町の林崎館を探訪後来内を抜けて蕨峠へ・・・・、実は途中の来内館も比較的遺構を残し、しかも比高の低い城館跡と資料にあり、ここも探訪の選択肢に入ってはいたのですが、実はまだ舘跡の特定をしていないこともあって断念。

 蕨峠中腹から小友土室に抜けるスーパー林道に入る・・・。ほとんど車とは会わなかったが、それにしても立派で広めの道路、これって税金の無駄遣いではないの・・・・なんて心で思いましたが、他人の事はいえない立場でもありますから、これ以上言及はいたしません。

 まもなく土室に出て、それから鷹鳥屋へ・・・途中の畑で何やらオレンジ色といいますか黄色動物が動いている。
 最初は狐か・・・・と思いましたが、やけに細長い、しかも尻尾も長い、これはテンである。思わず助手席の睦月庵さんに「テンです、早く画像を・・・」・・・結構のんびりしているテン、睦月庵さんもかなりの画像をゲットした模様・・・・それほど珍しいものではないがなかなか画像に収められない難しい動物なんです。

 ということで、旧鷹鳥屋小学校に到着、校舎はそのまま誘致企業の工場に使われていたと記憶しているが現在は工場は撤退、空家であるが魔法瓶(ポット)やら生活用品が窓越しに見られ時が止まっているのか、それとも誰か居るのか・・・そんな生活観が感じられました。

 まずは旧校庭に停車させ付近を探索、どうやら一段高い隣接の北東方向の山野が舘跡としての雰囲気が十分感じられました。
 早速車で移動、隣接する山野には神社があるらしく、近くの道路脇に駐車させ、さほどでもない道を少し登りますと、右手に二つの土塁が・・・・・これは空堀の最終地点に違いない、まさしくここが鷹鳥屋館と確信いたしました。

 
○館跡の概要

 まずは広めで南方向に若干下る草地を探索、南北70メートル、東西50メートル(約)と結構広い、南側は一段下がっており、さらにもう一段、下部は旧小学校校庭へ続いている。
 西側は土塁らしきものが残されているが、その下は急傾斜ながら二重の空堀が存在する。
 
 空堀は二重であり神社背面までほぼ並列で続いているが、西側土塁跡下部と神社側へ20メートルほどの場所で縦堀が見られ、この二箇所で二つの空堀はつながっている。

 土塁下の縦掘は虎口かも・・・・と睦月庵さん、確かに周囲には土塁跡と思わしき工作物が・・・どうしても堀跡とか段丘が連なる階段状の平場をみて満足する自分はまだまだ城郭探訪の初心者なんだなあ・・・と実感しております。

 背部の空堀二重、深さ、幅とも割りと大きめでよく残されているものと思います。
 遠野に多い規格の館というよりも気仙や江刺によくみられる舘方式か・・・・背部の空堀が二重というのも気になるところでもあり、階段状の平場は極端に少ない・・・しかし、草地となっている部分はかつては階段状だったかもしれない・・・・。

 鷹鳥屋館の北方の山野は高館といわれる舘跡もあり、使われた時代がずれているのか、それとも何かしら共用していた部分があったのかは不明です。
 いずれ高館とよばれる舘跡探訪も必要と考えております。
神社入口 登口途中の土塁
平場(南方向) 同左
平場・・・神社方向(北) 南部分段状の平場
西部分空堀跡 西側空堀跡
西部分、縦掘跡・・・下部は二重目の空堀とつながり、そのまま落込 西部分空堀・・南側と北側下る空堀が縦堀となって下部へ・・左画像の上部
上記画像の下部付近 左画像を北側から撮影・・・空堀と土塁
上記2枚の画像の上部部分 内側空堀・・・左画像に至る
背部の掘切(内側) 背部堀と土塁・・・二重目(外側)
内側空堀・・・北西側に下る 外側空堀・・・背部(北側)
背部二重堀と土塁

外側空堀北西側に下る

鷹鳥屋・・・・・

 小友の鷹鳥屋といえば・・・・「信長公記」・・・織田信長の家臣、太田牛一が書き記した出来事によると・・・・・
 「天正7年7月25日、奥州の遠野孫次郎という者から白鷹が進上されてきた。鷹居の石田主計が北国の船路を風雨を凌いではるばる進上してきたもので、雪のような白毛に包まれた鷹であった。その容姿はすぐれて見事で、見る者はみな耳目を驚かせ、信長公の秘蔵もひとかたならぬものがあった」・・・・・と。

 遠野孫次郎とは阿曽沼広郷のことで、織田信長に献上された真っ白な鷹は信長がたいへんお気に入りだったという内容です。
 
 まさしくこの鷹は小友鷹鳥屋の産との考察がなされ、鷹鳥屋の地名の如く、鷹が多い地帯でまた鷹を飼う施設等があったとも伝承されている。

 信長公記に出てくる石田主計とは、鷹鳥屋館主のひとりとされる石田宗順のことか・・石田宗順は一説には諸国をめぐる修験者だったとも伝えられ、諸国の内情、動きにも通じていたことから、阿曽沼広郷の命により白鷹献上のため安土城(滋賀)に赴いたものと思われます。

 石田宗順が鷹鳥屋にて鷹の捕獲、飼育等の任にあったため、鷹鳥屋館主という位置付けと伝承されたものと思われますが、安土の織田信長へ献上に赴いた恩賞により館主となったものか、鷹関連の任を負ったことにより鷹鳥屋館とその地域を任せられていたものかは不明でもあります。

 いずれ当初は沖館某とされる武士が館主と伝承されるが、天正年間には石田宗順がこの地域に関わっていたことは確かなことかもしれません。 

 また全国事情にも通じ、城館築城の技術を持ち合わせていたかもしれませんし、彼のネットワークにより技術者集団を迎え入れた可能性も大いにあり得たものかもしれません。
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