遠野阿曽沼氏
舘と舘主、その光と影

遠野郷土淵の舘跡
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徐々に追加予定です

山口舘
舘熟知度 W 舘規模 B 遺溝保存状況 B 難易度 U   その他
  舘(城)名 山口舘(やまぐちたて)   
  所在地 岩手県遠野市土淵町山口   比高70m
  現存遺溝 山城  空堀  土塁  腰郭  丘陵  虎口跡 
関連諸氏・人物 山口修理  
築年代・使用年代 室町時代〜戦国時代末期?
  その他
攻城記兼舘の概要
 場所の特定は出来ていたが、現地調査はしていない舘跡のひとつでありました。2006年4月、本来は他の遠野市土淵町内の舘跡を集中的に探訪する予定でもありましたが、舘跡探訪ベストシーズンたる春に思った以上の数がこなせず、まずは土淵町の代表という位置付けにて、その第一弾として探訪調査をいたしました。

 2006年4月21日
 曇り空ながら舘跡探訪にはまずまずのコンデション、歴史郷土資料に示されている内容に中腹に薬師社とあり、山口集落東側の山野にある鳥居を目指す。
 
 田んぼと牧草地の境目の農道脇に車を止めて、「いざっ」出撃開始。
 背が低く三つ並んだ鳥居をくぐって急傾斜の道を登っていきますと程なくして大き目の社が見え、また手前にも鳥居があり、枝道に逸れた場所にも小さな祠等もある。

 薬師社がある中腹は、この場所が主郭ではないかと思わせる平場となっており結構広く、南東側は2段の帯郭的な遺構も存在するが、西側、南側共に階段状の平場は確認できない。
 
 社の背面である北東側に土塁らしき斜面を確認、その場に行き着くと見事な空堀を発見、一段高い斜面の向うにも空堀があり二重掘であることが見て取れました。

 二重目の空堀跡を辿ってさらに上部の山野に進入しますと、若干西側に傾斜しているも、細長い平場に到達、背面には一本の空堀がありましたが、その痕跡は背部の一部のみ、あとは隣接山野の伐採作業が進められ、空堀跡は木出等の道として活用されておりました。

 この平場が主郭か、北側、西側には階段状3段の平場があり、堀等配置では今まで見てきた遠野規格型とは違うものの、階段状の平場の配置等からこちらが主郭かと思わせる雰囲気を感じました。
 また隣接及び上部の山野も舘跡の可能性もあるのではと思いながらも、木出し道を辿って下山、途中、犬より大きめ、私のこぶし大と犬と同じくらいの動物の足跡を発見、しかも割りと新しいものであり、直感的に熊の親子ではとの思いもあり、そのまま急いで山を下りた探訪でした。

 この時の探訪では、二つの郭を持ちながらも割とこじんまりとまとまった見易い舘との印象でもありました。


 2006年5月1日
 遠野舘跡めぐり春の陣2006と称して八戸の睦月庵さんを迎えての探訪、この日は附馬牛の火渡舘をみた後に、山口舘を再訪、前回の見落としも含めまして睦月庵さんにもご案内ということで探訪いたしました。

 今回は麓の空堀が駆け下りている先端から入山、薬師社の西側からの攻めとなりますが、空堀跡をみながらゆっくりと登っていくコース、間もなく薬師社に到達、各々測量、メモ等をしながら探索、さらに二重空堀跡を確認、前回と同じように上部の平場へ・・・・。

 遠野規格型なればさらに上部の山野にも平場があってそちらにも空堀跡が発見できるかもしれないの思いから、最終の空堀跡を辿って道なりに上部へ・・・。
 途中堀跡かと思わせる部分もあったが、その上部には遺構はなし、また伐採が進んでいる上部の山野にも遺構等の確認はできず、そのまま空堀跡が道として利用されている場所まで至りしばし、舘の造りやら平場の展開を再確認、どうも上から見ての右手、西北側が怪しい、道なりに少し下っていくと、空堀が駆け下っている、一本しか確認できなかったが、その上部は2段の階段状の造りでもあり、その空堀の行方はそのまま道へつながっており、その道が山野にぶつかる辺りは、周囲に土塁を施し、その道はそのまま麓へ下っている。

 睦月庵さん曰く、「ここは虎口ですね」・・・なるほどよくみれば下から登ってきた敵兵は周囲の土塁から矢の攻撃を受けやすい配置、郷土資料には門跡もあったと記載されていたが、この場所は舘への出入口といった雰囲気が十分ありました。

 いずれにしろ、前回の探訪ではそれほど面白みのない舘と思っていたが、新発見やら結構複雑でよく設計施工された舘と判明、ここもなかなかすばらしい舘跡でもありました。 
@薬師社登口 A薬師社
B薬師社背面 C二重空堀外側の下部部分
D二重空堀の外側上部部分 E外側の空堀と土塁・・・社背部
F外側の空堀上部部分・・堀底2.5м、社側高さ3м、内側高さ5м G二重空堀内側の堀・・・上部部分
H二重空堀、内側の堀・・・上部部分 I二重空堀上部の平場
J上部平場(主郭?)背面の空堀 K平場背面の空堀と平場
L平場西部分の帯郭的平場 M平場西部分の帯郭的段状の平場
N平場背面から下る空堀跡と思われる道と土塁 Kからの続き O北西側山野の段状の平場・・・下部に空堀有
P  O下の空堀 Q  Pの空堀の続き、南へ下る
R  Qの続き・・・空堀跡が道として利用されている S  Rからの続きで突き当りで北へ折れている  虎口か?
21  20の中程部分へ至る二重空堀の内側空堀部分 22 舘入口

 遠野市土淵町は、東は上閉伊郡大槌町金沢、釜石市栗橋に西は松崎町、附馬牛町、南は青笹町、北は下閉伊郡川井村小国に境を接するも松崎、青笹以外は山岳地帯で接する。

 大きく5つの地区に分けられ、栃内・山口・柏崎・土淵・飯豊から成る地域である。

 ことに山口地区、飯豊地区は伝聞によれば大同年間に中央からの移住者が住まいし、また土淵地区においては安倍時代、安倍貞任の弟の屋敷跡があったといわれており、遠野郷内では早くから開発されていた土地ともいわれる。

 阿曽沼時代、太平洋沿岸への峠道が通る交通、軍事的な要衝との位置付けでもあり、土淵には各地区を治める豪族が居たことが語られる。
 栃内舘の栃内兵部、角城館の沢村図詳、柏崎舘の柏崎左馬、、山口舘の山口修理、本宿舘の本宿家久・・等・・・しかし彼らの興亡状況は大きく伝えられず、むしろ微々たる内容でもある。

 これらは遠野における阿曽沼時代全体にいえる内容でもありますが、史跡である城館跡の存在と共に若干考察するものです。

山口館と山口修理

 山口修理・・・・はじめ柏崎館に住す、後に山口へ移るけり・・・。

 山口館主、山口氏に関しては若干の伝承は語られるも、こちらも謎めいた一族であり、その舘跡に関してもいつの時代の築なのか、使われていた時代はいつ頃なのかは、ほとんど分からない。
 遠野物語・・(柳田國男)・・第18話〜21話、114話に登場の山口孫左衛門は山口修理の子孫とも考えられるが、遠野の昔を記した古書には記述がない。
 
山口館

 それなりの数の遠野各地の舘跡を見てきたつもりであるが、まずは遠野型規格とされる造りとは若干異なるように思える。
 遠野型規格とは、主郭下に帯郭、さらに段状の平場を幾段か連ね、さらに主郭背面は二重、三重の空堀と土塁で隔て、その空堀は館全体の周囲を巻くように麓へ駆け下る造りを一般的に想像できる。

 山口館は、さらなる上部の山野に主郭たる遺構が存在する可能性は秘めているが、今時点ではその確認はしていない、上部の図面のとおりとするならば、北東部分の階段状平場の頂部が主郭と思える内容でもあり、背部の空堀は一重、平場下に二重の空堀が存在していることから戦国時代初期辺りから築舘が始まったと思われる、鱒沢館や西風館、松崎館が代表の遠野型規格とは若干異なる。

 しかし、虎口跡と思わせる部分の存在、周囲の土塁の配置等、よく設計施工された跡も確認でき、比較的新しい館でもあったと推測もでき、築舘前に他地域から遠野へ移り住んだ一族或いは、城館建設技能集団を招聘しての築舘か・・・・遠野型規格と気仙や江刺の城館と融合したかのような構造でもある。

 山口地区は、三陸沿岸方面へ通じる界木峠〜和山や、笛吹峠へ通じる山道の要衝という位置付けであり、まさに大槌や閉伊郡、釜石方面との交通、軍事的な要衝でもあった。
 この地域を抑えていたといわれる山口修理、はじめ柏崎館に居たという伝承があるが、はじめ小烏瀬川流域の穀倉地帯を抱えていたが、交通、軍事的な役割の大きい山口方面へ進出、武力によって山口方面を我物としたか、或いは阿曽沼主家によって任されたものかは不明ながら、柏崎、山口といった土淵方面の二大地区を抑える遠野郷としては比較的大きな勢力だったことが推測されます。

 海岸方面との関わり等も考えますと、大槌氏との関連もありそうな雰囲気でもありますが、遠野惣領阿曽沼氏の影響下、大槌方面と関係が近い山口氏をこの要衝に置いた、或いは承認していた、このことも大いに考察に加えるべきかもしれません。
 
 いずれ、若干の伝承はあるものの、資料等ではっきり確認できない事柄があまりにも多く、これ以上の推量を当てはめることは極力避けたいと思いますが、今後、資料がない部分は地域での伝承なり、生きた史跡の舘跡関連の調査にて続けて参りたいと思います。
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