舘と舘主、その光と影・・・諸氏の栄枯盛衰
西門館とみさ崎氏
西 門 館
舘熟知度 V 舘規模 B 遺溝保存状況 A 難易度 V   その他
  舘(城)名 西門館(砂子沢館) にしもんだて   
  所在地 岩手県遠野市綾織町みさ崎   比高80m
  現存遺溝 山城  空堀(三重)  土塁   丘陵5段  
関連諸氏・人物 みさ崎右京   みさ(身+鳥)
築年代・使用年代 室町時代
  その他
北側一重目の空堀跡(上部方面) 一重目の空堀(下り)
二重目の空堀跡 二重目空堀、下部付近
二重目空堀跡と土塁(中央付近) 二重目空堀、下部付近(下り)
三重目空堀(上部付近) 二重目空堀付近、主郭背面で複雑に交差する
三重目空堀と土塁、主郭背面部分 背面の空堀と土塁
主郭下の帯郭 帯郭から主郭平場を望む(西側部分)
主郭下(東)の二重堀(下る) 西部分突端の平場部分と帯郭
西部分突端の段状の平場(三段) 西側平場から日影橋方向を望む
中央付近、平場の八幡社 主郭下帯郭と中央平場を隔てる堀切
西門舘概要
 遠野市綾織町砂子沢地内、西側には国道396号線が通り、北側には綾織町砂子沢地区、さらに曹洞宗長松寺が山野を隔てて隣接している。

 綾織町根岸集落からは舘跡の西側突端部分が至近にみえるも、その主郭たる本舘はさらに上部の山野となっているが、綾織郵便局付近からは奥まっているが主郭部分の山野が確認でき、本来の登口はこの方面の民有地からが登り易いと思われる。
 舘下の民家には屋号「西門」を伝える家も存在し、古に西門舘が存在した標しを残すものである。

 舘跡をみると一段高い山野に主郭を設け、さらに東部分の中央付近にも平場(八幡社)一段下って西側突端(国道が真下に見える)にも平場を配し、2段から3段の平場が確認できる。
 
 主郭下の中央部分は両脇を峰で隔て、5段の平場を麓付近まで配列、主郭背面(北側)は三重の空堀で、東側は急傾斜となっているが二重の空堀が駆け下っている。

 戦国時代築舘と思われる遺構群の配列であるが、その詳細は不明であるも、判然と残される遺構群、保存状態は良好である。
攻城記
 館跡の存在、その場所等を一応把握していたつもりで、遠景のみの撮影で満足していたが、城館調査報告資料のコピーを入手したことで、多くの遺構を残す舘跡と判明、機会をみての探訪を予定するもなかなか踏み込めないでいた館跡でもありました。

 2006年4月11日
 2006年度初の城館探訪は西門館を探訪、北側の長松寺墓地付近に車を駐車させ、至近の山野へ突入、綾織郵便局側の一段低い山野でありますが、こちらにも何か館跡の痕跡があるのではとの思い込みで踏み込んだのですが、空振り・・・・一段高い隣接の山野に向けて峰沿いを歩き、さらに急斜面を登ると少し平坦地に出たと思ったら、空堀跡に遭遇、ほぼ真っ直ぐに上部へ続いており、下部は西側へ大きく折れて駆け下っている。
 
 三重堀であり、さらに上部ではこの三重の空堀が複雑に交差しており、なかなか図面として描けなかったが、なんとかメモとして書上げる。
 この背面の空堀跡は見事というべきか、今季初の探訪でもあったので一際は感動することでもありますが、かなりの遺構残存度でもありました。

 その後、主郭、中央部分の八幡社、西側突端の平場等を確認、日影橋や綾織中宿集落を一望でき、遠くは鱒沢方面まで見渡せるロケーション(木々が多いですが・・)を堪能し、背面の空堀跡三本を越えて、隣接する山野を下って行くと長松寺の背後に出てしまった。
 峰ひとつを間違えてしまったらしいが、そのまま寺境内に至って墓地前に駐車のマイカーに乗り込んで帰宅いたしました。
西門館とみさ崎右京・・・・綾織を考察

 西門館主・みさ崎氏、遠野阿曽沼時代の諸氏に関しては、謎か多く彼らが何者だったのかを知る手立てが極端に乏しい現実がありますが、みさ崎氏と西門館に関しては以下の事柄、大きく三つのことが古書等郷土史資料に示され、伝承されている。

@ 鎌倉時代初期、遠野郷を拝領した下野国の阿曽沼氏の代官として宇夫方氏が遠野へ入部、当時は安倍、藤原時代の名残とされる土豪がまだ勢力を保持しており、綾織方面に居たみさ崎氏もそのひとつの勢力であり、入部当初の代官宇夫方氏の脅威のひとつと伝えられている。

A 西門館が隆盛を極めていた頃、西門館下は小さな城下町風の賑わいがあったと伝えられている。

B みさ崎右京は、綾織谷地館主で遠野郷の実力者、宇夫方守儀の娘を室として迎え、宇夫方氏と婚姻による同盟関係を結んでいたと伝えられる。

 以上が多く語られ、古書にも記載される内容であるが・・・・・。

 @について・・・・
 伝えられる阿曽沼以前の土豪とされるみさ崎氏、鎌倉中期には宇夫方氏による綾織地区への進出が成ったと伝えられ、宇夫方氏の主館、綾織の谷地館を築城、館の構造等から判断すれば駒木の阿曽沼館と同様の平城的な構え、当時の鎌倉武士団特有の館との見解もあり、おそらく鎌倉期に谷地館が構えられた可能性が高く、みさ崎氏はこの宇夫方氏による綾織進出に伴い同盟等が成っていたか、或いは傘下に組み入れられた可能性が大きいのではと思われます。

 Aについて・・・
 西門館の構え、少なくても室町期以降の構築と思われる。
 山城的な城館の本格的な出現は、南北朝期あたりからみえはじめ、遠野においてはその出現は不明ながらも戦国前期あたりからか、同じ綾織新里の西風館、上鱒沢の鱒沢館、また戦国後期に名を留める阿曽沼氏配下の館主が居た城館の構えと類似している点、無論、規模や細かな点に相違は認められるも、空堀の配置、段状の平場の造り等が極めて共通しているという点がみられる。
 特に附馬牛町の火渡館とは類似する点がみられることを付け加えておきます。

 西門館は遠野郷内に入ってからの要衝との位置付けと思われ、横田城下へ入る直接的なルートはあったかもしれないが、一般的には、綾織砂子沢から附馬牛大萩地区へ抜ける街道が整備され、途中には東禅寺があり、さらには妙泉寺に通じ、また天ヶ森の山裾やら猿ヶ石川沿いには横田城へ通じる道があったものと推測され、これらを結ぶ交通、文化が行き来する場所柄から宿場町として一時期栄えていたのではないのか、その名のとおり西の関門といった意味合いからも西門館となったものかもしれません。

 Bについて・・・
 みさ崎右京は谷地館主、宇夫方守義の娘を室と迎えたと伝えられるが、宇夫方守儀が遠野の歴史で語られる年代は宝徳年間以降であり、推測するに1470年前後にみさ崎氏と宇夫方氏の婚姻は成立したと想像ができ、室町時代に活躍した人物と一応に思われる。
 ただし、右京以前、以後の歴代は伝えられておらず、伝承、資料にみさ崎一族を見聞することはできない。

 しかし、館の構造等をみる限りは、この右京の時代とみるべき、或いはそれ以降の築舘と考えられるも前出のとおりで謎の部分が大きいのも事実であります。


○私見

 代官宇夫方氏が遠野に入部した当初、みさ崎氏は西側の不穏な勢力のひとつだったと伝えられ、その数十年後の嘉禎年間(1235〜1237)に宇夫方広治によって谷地館が築舘されたといわれるが、このことから宇夫方氏の綾織方面の進出、制圧と考えるべきなのか、みさ崎氏との争いは伝えられず、ただ西側在地勢力と婚姻等による平和的手段で宇夫方氏は綾織、さらに宮守方面をその勢力下にしたものと伝えられている。

 全くの推測ながら、みさ崎氏は在地勢力ではなく、下野国から宇夫方氏と共に下向した一族か、或いは在地勢力ながらも早期に宇夫方氏に従った一派で、家臣的な存在として綾織砂子沢地区に入った一族、または阿曽沼主家によって砂子沢地区を宇夫方氏から割譲し、その土地に派遣された一族だったのか、いずれ想像は膨らむも決定打に欠けます。
 
 仮説としてみさ崎氏が宇夫方氏の家臣だったとすれば、右京の時代には宇夫方氏を支える重臣で婚姻により宇夫方一族としてその後活躍したのではないのかと推測されます。

 また宇夫方氏が新里に西風館を築舘した時代には、東禅寺への道、さらに横田城へつづく道の要衝の抑えを任されるほどの力ある一族となっていたのではないのか、しかし、西風館襲撃事件で宇夫方氏主流の西風館一族が壊滅すると、みさ崎氏も力を失い、後に阿曽沼一族の上野右近の配下に組み入れられたのではとも考えられますし、遠野惣領の阿曽沼広郷の配下となったのではとも思われますが、後にみさ崎氏がどのように命脈を保ったか、或いは没落したかは、ほとんど分からずといったことでもあります。

 その血脈を伝える家系の存在もあるものと思いますが、今後これらも含めて確認したいと考えております。
 

目次へ戻る

トップへ