火渡館と火渡氏
舘と舘主、その光と影・・・諸氏の栄枯盛衰
遠野附馬牛町の城館跡
火 渡 館
舘熟知度 W 舘規模 B 遺溝保存状況 A 難易度 V   その他
  舘(城)名 火渡館(日渡館) ひわたりだて・ひわたしだて   
  所在地 岩手県遠野市附馬牛町上附馬牛 (日渡)  比高60m
  現存遺溝 山城  空堀(三重)  土塁   丘陵5段  
関連諸氏・人物 火渡中務・火渡玄浄広家(附馬牛殿とも呼ばれる)
築年代・使用年代 戦国時代〜慶長年間
  その他 慶長5年遠野の政変時での激戦場
城館の概要
 遠野市附馬牛町上附馬牛・・・・猿ヶ石川と荒川の合流点から北東に約500メートルの位置にある山野である。
 
 館山西側直下には県道が走り北西、西側は急傾斜地となっている。
 主郭とみられる頂部平場は北東に位置し、比高は60メートルとされ、現在神社が祀られており、北西側に徐々に下り、数段の丘陵が設けられ、北西端は広めの平場が形成され2段の丘陵(平段)が構築され、その先は崖となっている。
 また二重の空堀が東から北西側にみられるも、風化が激しい。

 主郭部分は西側に2段の帯郭、北西側に数段の平場が確認でき、北側は三重の空堀がめぐらされ、東〜南方面に駆け下っている。
 大きく分けて二つの郭が存在しており、主郭と北西端の二箇所と思われる。
攻城記
 2003年4月、城館跡とはどういったものなのかをほとんど理解してないにも関わらず、遠野郷の舘跡として見切り発車するも、実際に舘跡に足を踏み入れるといったことはなく、ただ遠くから山野を画像に収めるといった形だけの内容でもありました。
 この火渡館も同様で、県道脇の突端に位置する山野であることは予想もでき、むしろ確信しておりました。

 2003年11月
 遠野郷館めぐり第2弾と銘打ち、東京都の稲用氏、八戸市の睦月庵氏を迎えての合同攻城戦、あいにくの空模様でしかも午後3時頃の到着、日暮れが早い時期ながら、登り口がなかなかつかめない、事前に職場の先輩から教えをいただいておりましたが、目印とされる神社が見つからない、一応祠はあるのですが、聞いた感じと少し違い、また稲用氏が持ち込んだ資料のコピーとの整合性もかなり薄いことでもありました。

 難局打開として、思い切って急傾斜を力攻めとすると、程なくして頂部の平場に到着、かなり広めの平場であるが藪と木々が多く難儀する。
 しかし、西側に2段からなる平場を確認すると稲用氏、睦月庵氏のお二人も間もなく合流、他に目立った遺構は発見できず、今一度資料のコピーを見て検討すると北側といいますか、北西側にも郭が存在し、遺構もあるような内容であり、眼下に広がる農地或いは山野をみて、「あちらにも何かありそうですね」・・・くらいの会話にて北西側から山を下ると、途中風化が著しいも明らかに空堀跡と思わせる溝を発見、三人でやはりここが館跡であったと確信しながら、「我々は大手と思われる場所から攻めないで一番厳しいところから攻めたんですね」と苦笑しながら次の訪問予定の館跡へ向かったことが思い出されます。

 2006年4月13日
 この冬に先人が調べ上げた遠野市城館跡調査資料を入手、これによると遠野には130を超える城館跡が存在することが判明、今後数年を費やしてまずは阿曽沼時代に築城或いは使用されたといわれる城館跡を主に調査したい、そんな思いに駆られ、色々と準備をしてきたが、待望の春の季節である4月となっても降雪やら雨の日が続き、なかなか思いとは裏腹に館跡探訪ができずにおりました。
 しかし、4月も10日を過ぎ、空模様を見ながら、まずは綾織町の西門館を探訪、さらに前回の火渡館探訪では画像がほとんど使いものにならず、サイトへのアップをしていないことでもあったので、まずは再訪といったことで、探訪に踏み切った経緯がございました。

 事前に資料や附馬牛方面に行った際にその地形なり、知人の情報等も若干仕入れていたこともあり、前回我々が探訪した箇所ではなく、隣接の山野がホントの館跡ではないのか・・・と疑ってもおり、思い切って一段高い山野へ突入となりました。

 登り口には鳥居があり、延々と登坂が続いてますが、資料の図面と一致する形状、これは・・・と思い、ゆっくりと斜度のキツイ斜面を登ること5分、先の方に神社らしき立派な建物があることを確認、息をきらしながら到着するとちょっと下の小さめの祠付近には、うねるように斜面を駆け下る空堀跡を発見、さらに頂部平場にある神社の裏には2段の帯郭とその先には三重の空堀があり、ほぼ資料の内容通りと確認する。

 また北西側は徐々に下り、途中数段の平場が展開され、その先は前回我々が探訪した箇所へと続いている。
 まさしく、前回我々は館の一部ながら、その北西の突端を探訪したに過ぎないという点に気づかされたということになります。
館、頂部南東側付近、空堀跡が消えかかり帯郭的にもみえる 主郭部分の神社・平場東西南北12メートル四方
南東側空堀跡・内側三重目の堀が駆け下っている 東部分の空堀跡。二重の堀と思われるも途中消えかかっている
西側帯郭 西側帯郭2段目
北西方向の様子。2段の平場、さらに下部は数段確認できる 西側の段状の平場、帯郭
西側最下部の段状の形状 北東側の空堀跡、三重の堀
北側の空堀跡 北側〜北西方向
北側、内側三重目の空堀跡、。北西側へ下る 三重目の空堀上部
背部空堀部分、各空堀が複雑に交差する 三重目の空堀跡。南東側
二重目の空堀跡 北東部分の帯郭
北西の突端部分・・・2段の形状及び北から西に伸びる空堀跡有 左画像の拡大

簡略図の間違いです。

目次へ戻る

火渡氏(附馬牛氏)
火渡舘主

伝承・・・・義将・火渡(日渡)玄浄 「火渡舘落城のこと」

 火渡玄浄は附馬牛火渡舘主、火渡中務の子といわれ、火渡弾正広家と名乗っていたが、剃髪して玄浄を名乗る。
 慶長5年(1600)、主家である阿曽沼広長(遠野孫三郎)が南部利直の旗下として遠野勢を率いて出羽最上へ出陣すると、遠野の留守を預かる阿曽沼一門で重臣の鱒沢左馬助広勝(鱒沢館主)が阿曽沼一門である上野右近広吉、阿曽沼臣の平清水駿河平右衛門を誘って広長が留守の遠野城を制圧、また郷内の舘主を威圧及び説き伏せて、そのほとんどを組み入れるも、附馬牛火渡舘主、火渡玄浄のみは、その非道を責め、謀反に加担しないばかりか火渡舘へ篭って謀反軍を迎え討つ姿勢を示す。

 鱒沢広勝は、再び火渡玄浄の説得を試みるが、玄浄は頑としてこれを受け入れず、鱒沢方の使者の耳、鼻を削いで送り返すと鱒沢広勝は大いに怒り、火渡舘攻めの軍勢を差し向けるに至る。

 鱒沢勢は軍を二手に分けて火渡舘を攻めるも、攻防は数日間に渡る激戦、玄浄の家臣で附馬牛大野舘の大野源左衛門は強弓の士と伝えられ、攻め寄せる謀反軍へ自慢の弓を放つと、敵兵が串刺しなる恐るべき強さを発揮、しかし、多勢に無勢、食糧も矢も尽き火渡舘は落城寸前となり、玄浄は海岸地方の有力豪族大槌氏を頼り逃れることを決意するも、玄浄は勇戦及ばす自害して果てたことにして、家臣大野源左衛門は玄浄を白布に包み、遺骸を東禅寺へ葬るとして脱出を図るも、敵兵に白布ごと刺され、玄浄は非業の最期を遂げる。

 大野源左衛門はその遺骨を高野山へ納めたとも伝えられる。

 なお、玄浄の子、左助(12歳)は東禅寺に匿われていたため難を逃れ、閉伊郡山口村(現土淵町山口)に隠遁し、後に父玄浄の義ある死を賞賛した南部利直に見出されて、山口村に食禄50石にて南部家臣として召抱えられた。
 左助は山口内蔵助と名を改め、南部家臣山口氏はその後7系を数え存続した。

                    考察・・・火渡氏

 火渡氏は附馬牛殿とも称され、附馬牛地方の領主であったと伝えられる。
 中世当時、附馬牛地区は早池峰山妙泉寺、大宝山東禅寺といった当地方では大寺院にあたる寺院勢力が隆盛を極めていた時代でもあり、大旦那阿曽沼氏の庇護もさることながら、附馬牛地区を食む小領主、すなわち舘主達との関わりも何かしらあり、また寺院を通じての文化、他地域の情報をもたらす重要な地域だったものと思われます。

 火渡玄浄広家は、遠野阿曽沼氏の主家が用いる「広」の文字を持つ名からして、また上記のように文化的に発達し、寺院勢力との協調と抑制といった観点からも阿曽沼一族につながる誰かを附馬牛地区に配したのだろうとみるべきではないのか、すなわち火渡氏は附馬牛殿と呼ばれるように、遠野郷内では実力者或いはその血筋と考えるのは妥当ではないのかと・・・・。

 慶長5年(1600)、玄浄は12歳と伝えられる左助という子が居たことは知られている。
 そうしますと玄浄は当時、30代から少なくても40代前半の壮年と思われ、主家である阿曽沼広長と同年代か若干年齢が上と想像がつく、また父である中務は阿曽沼広長の先代である広郷とほぼ同年代との推測できる。

 すなわち阿曽沼一族にして当時文化や宗教の一大拠点たる重要地域の附馬牛に配されたのは阿曽沼広郷の兄弟たる人物、それは中務その人だったのではないのか・・・さしたる証拠もなく推測だけを当てはめた内容でもありますが、異母兄弟だったかもしれませんし、いずれ阿曽沼広郷と大いなる関係があったと考察いたします。


 最後に・・・

 火渡中務→広家(玄浄)→内蔵助(左助・山口氏)→金右衛門・・・・・

 上記のように家系は伝えられ、代々山口家は存続し、初め50石、さらに釜石村等にも加増され南部藩士として命脈を伝えたといわれております。

 なお、土淵町山口にはその家系を伝えるご子孫も存在・・・・・現在は不明(要調査)

トップへ
旧大野館
角地山館
大萩大館・小館
小出館
館石館
荒屋館
根岸館