気仙郡住田の城舘
阿曾沼氏と世田米
平田城・外舘城・日門城・世田米新城

舘と舘主、その光と影
葛西氏編・気仙郡 壱

舘熟知度T〜W 舘規模S〜D 遺溝保存状況A〜D 難易度T〜W  
T・場所のみの把握
U・全体像或いは一部把握
V・全体の遺溝等の箇所把握
W・図面等作成可能
Aを基準(鍋倉城)に規模が小、B〜D
大なるものはS
A・ほぼ判然と残されている。
B・風化や一部破 壊があるが、判別できる
C・ほぼ皆無
T・平城系
U・車等で行け着ける
V・山登り必要
W・危険度大
急斜面多い
平田城
  舘(城)名 平田城(平田砦・ひらたとりで)  別名 外根岸城  
  所在地 岩手県気仙郡住田町上有住根岸 
  現存遺溝  土塁  帯郭   平山城 南北100m、東西40m、比高20m
関連諸氏・人物  内藤豊前   
築年代・使用年代 天正年間〜慶長年間
  その他 案内板有
舘熟知度 U 舘規模 C 遺溝保存状況 C 難易度 U   その他
攻  城  記
2003年3月
 あたり一面、まだまだ残雪の遠野とは違って気仙郡住田町は春の息吹が感じられ、野山には雪がなかった。
 
 いつもながら、目星をつけていたにも関わらず、場所がわからない、知らないままに下有住の外舘城跡に着いてしまった。
 この日の平田城探訪は結局はわからず仕舞いで終わった。

 一週間後、住田町役場にメールを送信、主な舘跡の場所をご教授いただき、これにて万全の体勢、早速前回見逃していた平田城を訪問。
 少し本街道から外れているものの、それでも国道から見える位置、ちゃんと探せば見つかる場所でもありました。
 説明板と全景を画像に収めるにとどめる。

2005年5月
 八戸の睦月庵さんをお迎えしての遠野春の陣、遠野郷舘めぐりの2日目、午前中は三陸の大槌城を堪能後、遠野に到り、さらに午後はここ気仙郡住田町内の城館跡探訪、はじめに平田城を訪れた。
 
 入る道をひとつ間違ったが、なんとか到着、今回は城跡突入と考えていたが、睦月庵さんが突入口を発見、藪を少し漕ぐとそこは帯郭と思える場所、頂部とおぼしき平場も確認したが、他にこれといった遺溝等は発見に到らず、隣接の西側の山野、果樹畑のような感じがしたが、数段の平場にもみえる、再訪にての調査は必要と感じた。
城館跡及び近在の歴史

 なんといっても慶長6年3月と伝えられる遠野合戦の初戦、平田の戦いの主戦場である。
 
 詳しくは「遠野阿曾沼氏の落日」をご参照ください。

 遠野の歴史家達の間では長らく平田の戦いは釜石の平田(へいた)の戦いと語り継がれてきた経緯がある。
 が、しかし、昨今は気仙郡内上有住の平田(ひらた)の戦いという見解が主流であり、平田の戦いは、ここ平田城付近での戦いが史実であると思われます。
外館城
舘熟知度 W 舘規模 C 遺溝保存状況 B 難易度 U   その他
  舘(城)名 外館城(とだてじょう)・別名 下有住城 
  所在地 岩手県気仙郡住田町下有住十文字 
  現存遺溝  土塁  帯郭  空堀  数段の平場   平山城 
関連諸氏・人物  紺野美作     今野右近
築年代・使用年代 葛西氏時代〜慶長年間
  その他 案内板有
攻  城  記
2003年3月
 平田城を探しているうちに、外館城の標識を発見、しかも国道近く説明板も設置されているが、しばらく説明板を見ていますと、近所のご年配の男性が近づいて来て「お寺の上がそうだ、この車なら本丸まで行けるべ」と教えてくれ、早速お礼を述べて教えられたとおり車を走らせる。

 ところが城跡に入る道が1回や2回の切り替えしでは到底右折できる場面ではない、130度くらいはギックラと曲がっている道でもあり、そのまま直進して行き当たったお宅に入る道でUターン、今度はそのまま突入できると思うも、少し登ると倒木が・・・・車から降りて力一杯引きずって脇に除いて再び発進、少し狭い道ながらも程なくして本丸跡に到着。

 よく整備されていて公園風になっている。往時は城とされる段状の形状もきれいに残されいる。観音様が安置されておりました。

2005年5月
 八戸の睦月庵さんをお迎えしての遠野春の陣、遠野郷舘めぐりの2日目、午前中は三陸の大槌城を堪能後、遠野に到り、さらに午後はここ気仙郡住田町内の城館跡探訪、平田城につづき外館城を訪れた。
 
 城址からは春の風景、桜もまだ残っていていい季節と実感できる気候、また下の満福寺から城址に到る登り斜面は木々の伐採が盛んで視野がことのほか良い。
 遠野での感覚で本丸跡の背面を確認、ありました二重堀と思われる溝が・・・・新たなる発見もあり、しかも割りとよく整備された城跡、堪能いたしました。
城館跡及び近在の歴史

 山城  戸館古城 東西22間、南北18間 館主は紺野左近、葛西氏没落後、閉伊郡へ去ったという・・・。

 紺野、今野・・・金氏の流れを汲む一族と伝えられが、紺野氏の菩提寺、城跡下の満福寺、明治初年の火災にてなんらかの資料も焼失といわれる。
 葛西氏配下としての紺野美作。左近等の名を伝えるのみである。

   平田城前景

帯郭

@下有住満福寺方向

A本丸と段状の形状

B登り道下の堀跡・・背面からの道を挟んで下る(南西側)

C背面及び西側の空堀跡(二重が確認できるも背面に到
 っては帯郭らしき形状か・・・。
  

D段状の形状

@

A

B

C

D

日門城
舘熟知度 T 舘規模  遺溝保存状況  難易度 V   その他
  舘(城)名 日門城(ひかどじょう) 別名 判官館
  所在地 岩手県気仙郡住田町下有住火の土横川 
  現存遺溝 数段の平場  土塁  山城  未調査  
関連諸氏・人物 千葉河内守貞信
築年代・使用年代 天正年間〜慶長年間
  その他 案内板有
攻  城  記
2003年3月
 
 外館城の後、世田米城を散策、この日最後の探訪は日門城、しかしよく場所がわからない城跡でもあったので、前もって町役場にメールで問い合わせをしておりましたが、詳細な説明をいただき、難なく行き着くことができました。
 
 しかし、かなり高い山城、登り口は農地もあって、しかも作業中、遠景からの撮影と案内板のみの撮影にて退散いたしました。
 よって現地調査は未調査です。
城館跡及び近在の歴史

 説明板には、阿曾沼広長が南部勢(遠野)を迎撃したかのように書かれているが、おそらく阿曾沼広長による遠野奪還戦最後の戦い、この火の土集落を過ぎて行きますと遠野小友境、すなわち樺坂峠に至りますが、樺坂峠の戦いで阿曾沼広長率いる気仙勢は大敗を喫し、散り々となり退却、広長はこの日門城にて敗残の兵をまとめ遠野勢の追撃を絶ったのではないのかと・・・推測されます。
世田米城、及び世田米と阿曾沼氏考察は次頁
住田町その他の城館跡一覧
城館名 所在地 関連諸氏及びその他
上原館 住田町世田米本町柿内沢  世田米中務重範
樋ノ口城 住田町上有住恵蘇 城玖寺裏山 松田大隈守
上有住城 住田町上有住八日町 玉泉寺裏山 千葉内膳   浜田喜六
熊谷館 住田町世田米城内 不明
里古屋館 住田町世田米大股 不明
和山館 住田町下有住高瀬 月山神社裏 不明
狐石館 住田町上有住蓬畑 及川常陸介朝詮
小股紺野館 住田町世田米小股 小股内膳
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世田米城及び世田米と阿曾沼氏考察

参考図書等・
日本城郭大系2(青森・岩手・秋田)
住田町史第2巻通史編
遠野市史1