舘と舘主、その光と影
大槌城と大槌氏
舘熟知度 V 舘規模 A 遺溝保存状況 B 難易度 V その他 公園

大槌城

おおつちじょう

舘(城)名 大槌城・古舘  
所在地 上閉伊郡大槌町大槌城山   
現存遺溝等 郭、空堀     標高120〜140m 山城
関連諸氏・人物等 大槌孫三郎・大槌孫八郎広信、政貞
築年代・使用年代 不明・万治2年(1659)廃城
その他 城山公園  
主郭(本丸)・二の郭・三の郭・四の郭 西の砦
本丸背後の平場・・西の郭との間 主郭(本丸)平場
本丸跡を示す石碑 主郭からみた二の郭(二の丸)
二の郭からみた主郭方向 三の郭(三の丸)の平場
四の郭 四の郭からみた南砦
 城山とも呼ばれ、東には眼下に大槌湾(太平洋)望み、西は高山が連なる急勾配の山城である。
 郭は主郭〜四の郭まで山頂の平場があり、さらに西の砦、南の砦、東部分には高舘と呼ばれる砦的な平場が形成されている。
 まさに上閉伊地区では大掛かりな城舘であり、古の大槌氏の武威を物語る構えであると思います。
 現在は、町民の憩いの場として公園風に整備され、散策の場となっている。
            高舘近辺から見た大槌湾
攻城記
 2003年4月、内陸の桜より一足早い三陸沿岸の桜を満喫しつつ、単独にて大槌城を訪ねた。
 この際の城跡探訪は、他に気仙郡内、住田の城舘の攻城も予定していたが、午前いっぱいは大槌城探訪にあてるも、町の公的建物や駐車場付近の城跡を示す石碑と背後の山を撮影したのみであった。
 そそり立つような斜面、仰ぎ見る感覚、車の乗り入れはどうやら出来ないらしく、徒歩にての城攻、躊躇してしまったのが事実でした。

 2005年5月、連休の前半、「陸奥の城塞」管理人さん、睦月庵さんを迎えての遠野春の陣、第二弾二日目は大槌城含み気仙郡内の城舘を探訪、今回は思い切って駐車場から徒歩にて大槌城の攻城を試みる。
 やはり体力的にかなりキツカッタが、頂部は比較的平場が展開されており、北から東に湾曲するように広がっていた。また、眺めも最高で眼下に太平洋を望み、遠野などの内陸部の城舘とは違う雰囲気も味わうことができた。
 なんといってもその大きさと難攻不落といわれた急斜面を持つ大槌城、旧遠野郷、上閉伊郡屈指の山城と実感した攻城でもありました。
大槌氏
大槌氏の系譜

 阿曽沼支族大槌氏と一般的に伝えられている。遠野初代阿曽沼親綱の次男とされる大槌次郎が大槌地域を分知されたのがはじまりと伝えられますが、遠野初代とされる阿曽沼親綱の遠野下向はなかったとされる見解と共に阿曽沼氏重臣の宇夫方氏を以って代官として派遣したとされる見解が主流でもあり、鎌倉初期に阿曽沼氏が大槌を含む海岸方面まで一気に影響下にしていたことは考え難いことでもある。
 大槌方面は、遠野を直接統治を行った宇夫方氏の開拓事業の広がりと共に徐々にその影響下となったと見るべきではあるが、この時代、釜石、大槌方面は閉伊氏の一族の領分だった可能性も示唆されるが不明な点も多い。
 さらに大槌氏の遠野郷史に登場は、永享の乱での大槌孫三郎で、その後の歴代は不詳とされ、天正末期に名が見える大槌孫八郎広信まで伝えられていない。
 三陸海岸の一部分を領有するいわゆる一勢力ながら、その領域は大槌〜釜石(ほぼ全域)の広大なもので、気仙郡、下閉伊郡、そして遠野との均衡を図りながら代々脈々と繁栄した事実も垣間見られ、こういった有力武族の一定期間における系譜が不明とされる点も疑問が残るものでもある。

 遠野次郎-----孫三郎---(歴代不詳)----孫八郎広紹(広信)---孫八郎政貞---三徳丸
       
孫三郎・・・南北朝末期から室町初期
孫八郎広信・・・天正19年 大槌孫八郎8百石 60人・・・九戸一揆に南部信直方として従軍。
孫八郎政貞・・・慶長5年 和賀稗貫一揆、岩崎の戦いに南部利直方に従軍。

 孫三郎から孫八郎広信までの歴代、おおよそ130年前後の大槌氏歴代が不詳であり、少なくても五代は入るものと思われます。

考察・・仮説・大槌氏

 大槌氏家臣とされる平野家が所蔵していた古文書に「平野文書」というものが存在するとされる。これにての内容では、建武年間から正平年間の間に阿曽沼氏から分派し、北朝すなわち武家側、足利義詮から大槌方面を安堵されている内容であるが、その信憑性はともかくとして、この南北朝時代の頃に大槌氏が形成されたのではと推察する内容でもある。
 後の永享の乱が史実とするならば、北朝側となった大槌氏、南朝側であった阿曽沼氏といった構図も成り立ちますが、永享年間において何故に南北朝合一から既に40年余、南朝、北朝の合意によりそれぞれの所領配分やら安堵される内容でもあり、南北両陣営の対立というよりもその所領配分も含む別な何かかあったものと推測もされ、特に遠野をめぐる勢力争いがその原因でもある可能性が浮上する。
 なお、永享の乱そのものの原因は気仙郡における内訌である可能性は高いということを申し添えます。
 
 さて、大槌、釜石方面への勢力浸透を図る宇夫方氏は、西側の勢力と同様に東側の勢力との武力衝突も極力避ける方策にて、大槌、釜石方面での在地勢力と何かしらの同盟関係の構築に成功、海岸方面でもその威を確実なものへと発展させていたが、南北朝末期から合一がなる時代、遠野領有の正統性を引っさげて遠野へ移り住んだ阿曽沼秀氏の登場により、以前からの宇夫方氏治世を黙認或いは共に遠野統治に関わった本来の阿曽沼氏は、遠野を離れなければならない事由が発生、大槌へと移転を図ったものではないのか?大槌を領有する在地勢力と婚姻あるいは旗下に組み込むことに成功し、この時の大槌孫三郎とは阿曽沼一族として気仙一揆に協力、本来の遠野領有は自らにあるという理由にての遠野侵攻とも考えられることでもある。
 この永享の乱は和睦という形で終結するも、以来、大槌氏と遠野阿曽沼氏は、大槌氏が謝罪といった内容にて遠野阿曽沼氏の影響下に組み入れられたかのように伝えられるが、経済的には別としても政治的には疎通がなく、大槌氏歴代は独自に戦国時代まで歩んできたのではないのか、そして遠野阿曽沼氏第13代であり、四隣にその武威を示した阿曽沼広郷時代に、大槌氏は改めてその傘下に組み入れられたか、同盟関係を構築、大槌孫八郎広信は広郷から「広」の字を贈られ阿曽沼氏の代表的な協力者として登場したのではないかと推察されます。

 天正19年、九戸政実の乱、九戸一揆といわれる争乱では、遠野阿曽沼主家、阿曽沼広長と共に南部信直勢に従軍、阿曽沼広長との交友はこの時から親密になったものと推測され、後の慶長年間における阿曽沼広長の気仙落ち、さらに遠野奪還の戦いに広長率いる気仙勢に加勢する動きをみせた大槌孫八郎広信からみてとれます。
 大槌氏は西の鱒澤氏と共に東の勢力の大族であり、遠野阿曽沼氏にとっては右腕というべき勢力であったことが伺われます。
 伊達政宗と結んだ大槌孫八郎は、阿曽沼広長支持の姿勢を崩さなかったが、釜石狐崎舘を攻略した伊達勢中島大蔵の軍勢が、遠野奪還に失敗した阿曽沼広長の敗退を知ると南部利直が発動した南部勢、遠野勢が釜石、大槌へ進軍を開始すると狐崎舘の伊達勢は戦わずして国許へ撤退、北の閉伊氏、西の遠野方、南部勢に挟撃される形の大槌孫八郎広信は孤立無援に陥るが、南部利直よりの懐柔策、すなわち和賀、稗貫一揆においてもうひとりの大槌孫八郎(政貞)がこの一揆鎮撫に活躍、岩崎城の城代に抜擢されていたものを、大槌氏存続の条件として広信と政貞の当主交代を挙げ、この案を了承した広信が大槌城を明け渡して、自らは伊達領に落ちていくといったことで解決されたといわれます。 
 なお、気仙領唐丹(釜石市唐丹)に落ちた大槌孫八郎広信は間もなく命を落としたと伝えられるが、南部方による暗殺説、或いは伊達家による暗殺説が囁かれるも不運の結末といわざるをえないものであろう。

 一方、もう一人の孫八郎、大槌孫八郎政貞は広信の子とも伝えられるが、岩崎の陣にて南部利直に従い和賀、稗貫一揆を鎮圧、しばらく岩崎城の守将の一人として留め置かれたが、大槌孫八郎広信の跡を受けた形で大槌城主となり、現山田町豊間根から南は釜石全域を領し、2千石とも3千石とも称され三陸沿岸の大身となる。
 しかし、遠野の盟主となった鱒沢、平清水氏同様、元和3年(1616)海産物取引の不正があったと南部利直から糾弾され大槌孫八郎政貞は子の三徳丸と共に成敗され、ここに精強を誇った大槌氏は滅亡してしまう。
 南部家による策謀による結果だとする説が多く語られ、間もなく大槌城は廃城となり、南部藩の直接統治がはじまり、大槌には代官所が置かれた。

 「永享の乱については、コンテンツ遠野郷戦記を参照願います」
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