平清水舘と平清水氏(新谷舘含む)
舘と舘主、その光と影・・・諸氏の栄枯盛衰
舘熟知度 V 舘規模 C 遺溝保存状況 B 難易度 U   その他
  舘(城)名 平清水舘
  所在地 岩手県遠野市小友町22−69  標高450m 比高80m
  現存遺溝   空堀    土塁  
関連諸氏・人物 平清水平右衛門景頼(駿河) 菊池平十郎景光(平清水後に新谷禅門)
築年代・使用年代 天正年間〜慶長年間
  その他 稲荷神社

平清水舘

平清水舘の遠景 空掘跡・・陸奥の城塞(睦月庵様)より借用
攻城記
 2003年、4月、東京都在住の稲用氏をお迎えしての、遠野郷舘めぐり第一弾に伴い、まずは御案内の舘の候補として平清水舘を選び、まずは単独にて現地調査を行なうも、場所がわからない、なんとか地元の方に声をかけたが、そのうちの一人の初老の男性が場所を示してくださり、さらに林道工事の最中であるが、林道工事に伴い地元を中心に発掘調査を実施したとのこと、しかし、遺物等の発見に至らなかったとのこと。

 2003年、5月
 東京都の稲用さんを御案内、場所の特定のみで、遺溝等の発見に至らず。
 2003年、11月
 遠野郷舘めぐり第2弾、東京都の稲用さん、八戸市の睦月庵さんを迎えての秋の陣、林道下に空掘跡を発見。(稲用氏、睦月庵氏)平清水舘といわれるその痕跡の一部である空堀を見つけたことにより、さらなる調査及び探訪への夢が膨らむ結果となった。
舘熟知度 U 舘規模 C 遺溝保存状況 C 難易度 V   その他

新谷舘

  舘(城)名 新谷舘
  所在地 岩手県遠野市小友町26−126  標高510m 比高117m
  現存遺溝   空堀    土塁  
関連諸氏・人物 菊池平十郎景光(平清水後に新谷禅門)
築年代・使用年代 天正年間〜慶長年間
  その他 白山神社  新谷番所
画像右上・国道107号線より南側を撮影(舘前景部分)
画像左下・山道であるが掘跡を道として利用している可能性大
画像右下・南東側林の中の空掘跡
平清水舘一部画像及び新谷舘堀部分の画像は「陸奥の城塞」睦月庵さん撮影のものを借用して掲載しております。
遠野の舘についても掲載されております。

「陸奥の城塞」
攻城記
 2003年、4月、5月、東京都在住の稲用氏をお迎えしての、遠野郷舘めぐり第一弾に伴い、まずは御案内の舘の候補として平清水舘と共に新谷舘も選ぶも、単独にての現地調査及び稲用さんをお迎えしての舘めぐりでも、川に阻まれ対岸に渡るすべが見当たらず、遠景のみの撮影で終了。

 2003年、11月
 遠野郷舘めぐり第2弾、東京都の稲用さん、八戸市の睦月庵さんを迎えての秋の陣、前回同様対岸への渡河場所に苦慮したが、かなり下流の橋より渡河に成功、道となっている箇所の形状が以前は堀ではなかったのか、全員一致で限りなく掘跡に近いという結論となる。さらに林の中の空掘らしき遺溝を発見。
 ただし、この部分は平場であり、主郭は背後の山野であると思われる。ひきつづきの探訪が必要である。
菊池姓、平清水氏について
 遠野における菊池姓の考察については、別コンテンツ「遠野菊池姓」及び「板沢舘と菊池氏」において詳細を記述予定です。
 また、「松崎町の舘跡・八幡舘にて一部菊池氏に関しての考察を記載しております。(菊池系図等)



 水氏の知行高について
 
菊池右近━━━又市郎(板沢氏)
         |
         |━景光(平清水平十郎後に新谷禅門・・小友)━━ 景頼
                                       | (平清水平右衛門駿河)
                                       |
                                       |━出雲 ━━新谷氏継承 
                                       |
                                       |━与三郎
                                          (細越氏) 


 右近は最初江刺氏に仕えたが、故あって去り南部信直に仕える。
 又市郎は遠野孫次郎(阿曽沼広郷)に仕えて知行三百石、板沢に住し板沢氏を称す。
 景光はのち禅門と称し、遠野孫次郎のちに孫三郎(阿曽沼広長)に仕え、6百石に加増小友平清水村におり平清水氏を称す。
 景頼は平右衛門のち駿河と称し、阿曽沼氏の家宰になるが反し、のち南部氏に仕え、一千石を賜り、遠野城代になるが、後に罪あって切腹し絶家になる。
 出雲はのちに帯刀を称し、父禅門とともに兄の反逆を諌め、父子兄弟の縁を切り新谷舘にこもる。
 のちに利直(南部利直)に仕え六十石を賜り、新谷舘に勤務、新谷を姓にする。・・・・・・・・・



 
 遠野市史1掲載の記述を抜粋しましたが、平清水平右衛門駿河は、慶長5年から6年(1600〜1601)にかけての阿曽沼広長の気仙落ち、そして広長の遠野奪還戦にての迎撃戦での功績により60石の中士から一躍1千石の大身となったと伝承されている。
 慶長17年頃(1612)とされる南部利直から平清水駿河に与えられた印紙によると(阿曽沼興廃記の中での写し)


 一、32石1斗5升5合・平清水村
 一、514石7斗6升9合・土淵村
 一、27石3斗3升4合・横田城廻り
 一、391石4斗3升9合・釜石村
 一、34石2斗9升5合
・佐比内村
 
 600石の食禄を得ていたという平清水氏、しかし、南部利直から加増される前は60石とある。
 上記の平清水村の石高を見てもわかるように32石余り、また現在の小友町は、(寛永年間)591石余りで、阿曽沼時代は、小友の半分は鱒沢氏の領分といわれている。また奥友氏も小友に300石といわれ、これらを考えれば鱒沢氏300石、奥友氏300石、残りの分が平清水氏の持分だったと考察できる。
 ちなみに鱒沢氏は1千石とされ、鱒沢700石、小友の半分300石で合せて1千石となる。

 それではどこで600石の加増、或いはその数値が表われるのか・・・・
 推測ながら江刺から移ったとされる菊池氏、平清水氏が本拠とした現遠野市小友町、さらに一族の名が散見される現遠野市上郷町、当初はこの上郷町に平清水氏も居て、小友に分族したものではないのか、またその逆も考えられ平清水氏を残して本領である上郷へ移ったものか・・・、この当初の移住地である上郷方面と平清水村の石高を合算した数値、すなわち遠野へ移り住んだ菊池一族の総石高を、後の時代、平清水氏が台頭して南部氏の大身となったので平清水氏がすべてを知行していたように想像した内容ではなかったのか・・と推察いたします。
 ちなみに現上郷町は・・寛永4年の南部利直から八戸直義への知行目録での合算数値は600石強である。(赤羽根村、平倉村、板沢村218石・佐比内村306石・平野原村47石・大寺村8石・切掛村17石・来内村31石・細越村64石)
※天正〜慶長年間初め、上郷地区全域が菊池一族の領分だったものではない。

ただし、石高としての数値単位が一般化するのは豊臣政権にての検地以降であり、後の江戸時代において、戦国期における表し方を何かしら換算する方式も用いたものとも想像されますが、大方は江戸時代の発想という見方が強いものと考えております。

○ 菊池右近、新谷禅門、平清水駿河の年齢考察
ひとつの疑問として、平清水駿河の祖父と一応系図で示される菊池右近恒邦と子である平十郎駿河(景光・後の禅門)、そして平清水平右衛門(景頼)との年齢関係である。
 あくまでも新谷菊池系図、遠野市史の記述を基にするならば、一説には菊池右近は、江刺重恒に強諌した為、かえって江刺氏の逆燐にふれ、追討されるといった事件で遠野へ逃れたともいわれます。
 上記の事件は天正13年(1585)ともいわれ、岩手県史によると江刺氏における内訌であり、江刺領内での内乱に主家の葛西氏、さらに江刺氏配下の菊池氏をはじめ重臣達が相争った事件との見方でもある。
 この事件に名がみえる菊池右近は、遠野へ脱出、南部信直に仕えたというよりも遠野孫次郎すなわち阿曽沼広郷に仕えたものと思われます。菊池右近は一説には天正18年没(1590)、小友樺坂峠の戦い(阿曽沼広長が気仙より遠野奪還の兵を繰り出す最後の戦い)慶長6年(1601)、鱒沢氏、上野氏、平清水氏救援の南部勢の大将格、北十左衛門信景が遠野に駐屯した際に平清水駿河の娘を見染め、これを妻としたのが、慶長7年(1602)であろう。この時、平清水駿河は少なくても30代後半或いは40歳代の壮年と推測される。
 そうなりますと、父である新谷禅門は、50代後半或いは60代、1590頃没の菊池右近に関しては、70歳前後ということがいえるものと思います。
 当時としてはかなりの高齢といえるものですが、年齢差からいって親子関係の可能性が無いというものではなく、微妙なところながらも有り得た内容とも思われます。

 また住田町史や遠野市史に掲載の共闘にて江刺岩谷堂に攻め込むといった内容からは、天正年間の早い時期との見解も生じ、菊池右近なる人物は、推測ながら7〜8年早く遠野に入っていた可能性も否定できないものと思います。
 
 年齢による三人の考察をしてみましたが、一概に無理が生じるといった内容ではないものの、子である平十郎景光、父である右近恒邦、平十郎景光に「恒」なり「邦」の一字を使用していないのは何故か・・・・、

 いずれ遠野における菊池姓に関しては、臼舘・板沢舘と菊池氏の頁で詳細に取り上げる予定です。

 平清水駿河(平清水平右衛門景頼)

 生年没年不明・・・・平清水舘主

 平清水平十郎駿河景光(後に新谷禅門)の長子。
 小友平清水村(遠野市小友町長野)を知行していたが、慶長5年、主家阿曽沼広長(遠野孫三郎)が南部勢として最上攻めの留守、阿曽沼一門の上野丹波広吉(広則)、一族の鱒沢左馬助広勝に誘われ、横田城を制圧、さらに謀反に加担しない遠野の諸氏を電撃的に攻めて遠野を制圧する。
 最上の陣から帰参した阿曽沼広長は遠野へ入ることが出来ず、気仙落ちすると、伊達政宗の支援を受けて三度の遠野奪還戦を繰り広げた。いずれも遠野勢が気仙勢を退けたが、三度目の戦い、小友と住田との境、樺坂峠の戦いにて、平清水駿河は、手勢を率いて第一線にて迎撃、恐るべき強さを発揮し、さらに天候も遠野方へ見方し、気仙勢は敗退。
 この樺坂峠の戦いの功績により、遠野、釜石に合せて1千石の所領を南部利直より給され、上野右近広吉(丹波)と共に遠野城代となる。
 南部家の重臣、北十左衛門信景に乞われて娘を十左衛門の室としていたが、慶長19年、大坂の陣が勃発、北十左衛門は、主家南部家が東軍(徳川)に付く中、南部和泉守を名乗って大坂方へ走る。この時、南部江戸屋敷詰めだった平清水駿河に十左衛門が訪ね、共に大坂に入城することを勧められたが、これを断るも、鶴の吸い物と酒で歓待し、別れを惜しんだとされている。
 大坂冬の陣にて大坂方豊臣家は滅亡、北十左衛門は捕えられ南部利直のもとに送り届けられるが、南部家により処刑、南部利直は、北十左衛門の親類として平清水駿河を捕え、理不尽にも俸禄取り上げの上、切腹、家名断絶となる。
 南部宗家による遠野糾合の現われだとする説が有力で、平清水駿河の栄華は、僅か十数年で切腹という形で幕が閉じられる。
 平清水氏は、金山採掘のプロ集団ともいわれ、禄高以上に金採掘による利益もあったといわれ、娘婿の北十左衛門もまた鹿角(現秋田県)での金採掘に成功した人物でもあり、互いに何かしら金採掘でのつながりがあったものかもしれない。
 なお、平清水氏は滅んだが、父禅門からなる新谷氏は、駿河の弟とされる新谷帯刀が南部氏に召しだされ、遠野南部氏家臣となって小友境の古人(番所役人)として60石を給され、命脈を伝えた。
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