奥友舘・南舘・平清水舘・新谷舘・
鷹取屋舘・鮎貝舘
遠野市小友町

鷹取屋舘
南舘
鮎貝舘
奥友舘
平清水舘
新谷舘

奥友舘(おくともだて) 別名小友舘
    所在地 遠野市小友町  岩滝保育園、小友地区センター南側山野
築城年代または使用期間、築城主または舘主(諸氏) 築、天正年間の頃。菊池喜左衛門(奥友氏、小友氏とも・・)
慶長年間末〜及川善右衛門(及川内善恒勝)
    舘説明 北を流れる小友川と西を流れる長野川が合流する内側にあって両河川を天然の堀とし谷深い渓谷の突端に築かれ要害である。
古くから金産出の地として賑わいがあり、江刺、気仙への街道筋の要衝に位置付けされる舘として機能していたとみられる。
   記述事項 阿曽沼家臣、奥友(菊池)喜左衛門は小友地域300石を食んでいたが、慶長年間における主家阿曽沼広長の気仙落ちの際は鱒沢左馬之助、上野右近に与力し、阿曽沼広長遠野奪還戦最後となる気仙境、樺坂峠の戦いに平清水平右衛門と共に気仙勢を迎撃し、これを大いに破ったと伝えられている。
後に南部氏に仕え、家士15名と共に大坂の陣へ東軍南部勢に従軍したとされる。
しかし、大坂の陣より帰参すると居舘の奥友舘は、及川善右衛門が舘を占有しており、しばらくは近在の民家に仮宿していたが、憤慨して自刃したと伝えられている。

及川善右衛門恒吉
葛西氏臣、江刺氏配下片岡城主であった及川内善恒勝は、奥州仕置にて葛西氏もろとも江刺氏が改易となると浪人して遠野へ入ったとされ、阿曽沼氏、さらに南部氏に仕え、その後、子の善右衛門恒吉は、寛永4年には遠野南部氏に仕えた。

南 舘(みなみだて)
    所在地 遠野市小友町34地割付近、太田  小友〜鷹取屋市道南側山野
築城年代または使用期間、築城主または舘主(諸氏) 築舘年代不明、一説には建保年間の築   南右近居舘
    舘説明 東西北に塹塚をめぐらし、南方は仙内川を利用したとされ、本丸跡とされる場所には古池、二の丸跡は元常楽寺の遺跡、天然石の五輪石があるといわれるが、確認はできなかった。
   記述事項 小友に南右近あり、その西方には駒木左近あり、共に小友方面を治めていたと伝えられるが、双方とも謎の人物であり詳細は伝えられていない。

鷹取屋舘(たかとりやたて)
    所在地 遠野市小友町鷹取屋  旧鷹取屋小学校跡地 別名十三坊
築城年代または使用期間、築城主または舘主(諸氏) 築、建保年間(1213〜1218) 沖舘某 居舘
天正年間(1573〜1591)石田宋順在舘
江戸期 遠野南部氏臣、高橋氏居舘
    舘説明 旧鷹取屋小学校敷地となっているところで、遠野綾織方面から通じる旧道に隣接し、遠く小友中心地付近まで見渡せる高台に築かれた舘であった。
   記述事項 石田宋順
天正の頃、遠野を訪れていた修験者、石田宗順が一時在舘していたと伝えられ、岐阜の織田信長に白鷹を献上しに赴いた奉行といわれている。
舘そのものは、天正の頃まで、どのような使われ方をしていたかは不明であるが、鷹取屋という地名の由縁を計り知ることができる。

平清水舘(ひらしみずたて)
    所在地 遠野市小友町長野  西来院より南西約500メートル山際 
築城年代または使用期間、築城主または舘主(諸氏) 天正、文禄の頃 平清水平右衛門(平清水駿河・旧名菊池景頼)
    舘説明 小友町長野、藤沢にあり。
南を流れる藤沢川を正面(東)に配置し堀とした可能性もありますが、そのこん跡を探し出すことはできない。
近年、舘裏に林道が敷設される工事があり、工事を中断して地域住民や識者等がその発掘にあたったとされるが、当時の遺品等は何一つ発見に至らず、伝えられる舘跡は別場所との声もあったという。しかし、平清水舘は一時的に有事の際に立て篭もる砦的役割の舘ではないのか?
平時は近在の館に居て戦時に使用された舘という見方も推測される。
   記述事項 江刺から遠野へ入った菊池一族といわれる菊池景光、阿曽沼広郷に仕え、小友南部分6百石といわれる。後に平清水氏を名乗る。
子の平右衛門景頼は平清水氏を継ぐが、慶長5年鱒沢広勝、上野広吉といった一門の誘いに乗り主家阿曽沼広長に対する謀反に加担。気仙、遠野小友境の樺坂峠の戦いでその剛勇を誇り、気仙勢を散々に打ち破り、後に南部利直より一千石の知行を受け、大身となる。
大坂の陣勃発、南部家では徳川、豊臣双方に二股掛けをしたとされ、重臣の北十左衛門を密かに大坂方に走らせる。しかし、豊臣家が滅亡すると北十左衛門は捕らえられ南部家へ預けられ、南部利直は体面上、北を処刑するに至ると北十左衛門と縁戚(平清水の娘は北十左衛門室)の平清水駿河にもその類は及び謀反に加担という罪状にて駿河は切腹。家は断絶となる。
阿曽沼広長を遠野から追い落とした盟主的な鱒沢氏、平清水氏は理不尽にも南部家から言いがかり的な事柄で双方絶家という厳しい処分となったとされています。

新谷舘(あらやたて)
    所在地 遠野市小友町荒谷  新谷番所跡西方付近
築城年代または使用期間、築城主または舘主(諸氏) 天正・文禄の頃
菊池平十郎景光(平十郎駿河)  後に子の平清水平右衛門に家督を譲り新谷舘に居たとされる。
新谷帯刀(平十郎三男)
平清水姓から新谷に改名
    舘説明 舘跡場所の特定が不明であるが、地元郷土史資料に新谷番所西方と記してあるので推測にて画像を掲載しています。
東西に二本の沢が流れ、前面(東)には長野川が流れその間を舘としたのではないかと推測される。
   記述事項 慶長年間においては気仙と遠野境の境界近くに位置する舘であり、戦略上では重要な位置であったと推測される。
慶長5年、子の平清水平右衛門が主家転覆に加担したことを歎き、他の子供達を新谷舘に呼び寄せ、平右衛門を勘当したうえ新谷舘に立て篭もったと伝えられている。
後にその兄弟達は不遇な時代があったとされるが、寛永年間、遠野南部氏に新谷帯刀(出雲)は召し出され小友金山奉行60石を給される。
小友は藤原時代から金の産地だったと伝えられ、阿曽沼時代も小友各地に大小の金山が存在していた。これら金山を有する小友地域は、舘が数多く配置され、その数12ともいわれていますが、上記に紹介以外に長野舘、西舘、藤倉舘、藤沢舘、高舘、槻舘・・等安倍氏時代から伝わる舘等も利用されていたと思われる。

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    所在地 遠野市小友町鮎貝 
築城年代または使用期間、築城主または舘主(諸氏) 文禄の頃  鮎貝志摩守
    舘説明 県道脇、東側の南北に連なる山野
江刺への道、五輪峠を控え、まさに遠野への侵攻では戦略の要所であり、いつの時代でも他勢力の軍勢の侵入、反対に遠野勢が江刺方面へ進撃の為、この地域を通過しただろうと思われます。
   記述事項 文禄年中、伊達政宗配下の出羽国在住、鮎貝志摩守が手勢を率いて小友鮎貝地区に密かに侵入、以来舘を築いて数年間在舘したと伝えられている。
この鮎貝氏の小友西地域領有は、一説には阿曽沼主家の南部氏への備えと鱒沢氏のような親南部家側の諸氏への対抗とみられ、葛西氏に代わった伊達政宗の力を頼み、鮎貝地区に伊達氏の勢力を密かに招き入れたものと解釈されている。

鮎貝氏とは伊達家家臣の鮎貝氏の一族とみられ、当地の鮎貝という地名に由来するものともいわれています。
慶長年間、阿曽沼広長が最上へ在陣中、或いは南部氏により遠野地方がほぼ吸収されると伊達領内へ撤退したと伝えられている。
鮎貝舘(小屋平舘)(あゆかいたて)