駒木じぇんご
松崎町駒木地区の残影
このコーナーは、私、とらねこが生まれ育った松崎町駒木の失われつつ残影と既に失われた風景を現在の姿と重ね合わせながら幼い頃の記憶を紹介するコーナーです。
もちろん、独断と偏見によるものです。
遠野市松崎町駒木地域地図
駒木小学校
松崎町駒木(下駒木第6地割)
緑の山に抱かれた、小高い丘に鐘が鳴る、
             ああ・・平和なるその響き、その名ぞ、駒木小学校


明治9年、矢崎在住の鳥屋部氏宅の座敷に松崎学校分校として開校
明治20年、木造平屋の新校舎完成(公立駒木小学校〜駒木尋常小学校)
 その後名称変更、校舎改築、増築を経て・・
昭和22年、駒木小学校と改称
昭和46年4月、遠野北小学校駒木校舎となる
昭和48年3月、学校統合により遠野市立遠野北小学校統合により閉校
閉校後は、誘致企業数社の工場として使用されていたが、数年で撤退、地域の集会所として利用され、老朽化により平成12年取り壊し。
遠野市松崎町駒木
「松崎じぇんご・松崎町」参照・・・
松崎町北に位置し、北から小田沢、上駒木、下駒木、海上、猿ヶ石川を挟んで矢崎からなる集落で構成される地域。
戸数約120戸余り、人口約600名

駒木小校門・・当時は石段だった。
跡地一角は、現消防コミュニティセンター
校庭・・・一周百mのコースが精一杯だった。中央の銀杏の木が小学生時代を偲ばせる 昭和40年代の校舎・・
前教室、薪ストーブだった。
敷地西側には季節保育所があった
駒木小学校の大運動会は、学区民運動会でもあって父兄はもとより地区民がこぞって参加の各部落対抗の運動会でもあり、学芸会も地区民の見学者で講堂はあふれかえっていた。
昼食時、海苔巻や稲荷寿司など、当時ではあまり食べれなかったご馳走を、家族だけではなく、親戚と共にいただく、ほんと賑やかな運動会、学芸会だったことが思い出される。
思い出
 橋 梁 清流猿ヶ石川に架かる橋、駒木橋、野田渡橋は、子供の頃の集合場所兼遊び場所でもあった。特に駒木橋は学校橋と呼んで親しみがあった。
現在の駒木橋は以前の橋が老朽化、幅が狭かったことから河川改修工事に伴い新しい橋に架けかえられた。
野田渡橋は、木造橋で、橋の上からの釣りなどで親しんだ記憶がありますが、その後、コンクリート製の橋に架け替えられ、さらに駒木橋同様、河川改修工事により現在の橋となった。
猿ヶ石川と駒木橋
河川工事で川幅が広がり、流れも変ってしまいました。思い出の中の姿ではありません。
現、駒木橋・・・前の橋はコンクリート製でしたが、学校橋と呼んで親しみのある橋でした。 現、野田渡橋
現在の橋は前の橋より百メートル程上流に移設されていますが、こちらも川の姿がだいぶ変ってしまいました。

 河 川  駒木地区を縦断する川、猿ヶ石川。ヤマメ、イワナ、マス、クキ(ウグイ)カジカ、コイ等の淡水魚の宝庫であり、また夏は鮎釣師で賑わいがありました。
少年時代、川遊びや魚捕りに興じた猿ヶ石川は、河川改修工事で記憶の中の顔とは随分異なる様相と変わり果てました。
また、岩魚(イワナ)釣りの隠れた宝庫、大沢川、こちらも河川工事が進んで水量も減り、往時の面影はほとんど見られませんし、小烏瀬川も同様、これ以上の河川工事は景観的にも不要と私は思いますが、一方では農業基盤整備という生活に関わる問題もあり難しい局面ではあります。
駒木地区での猿ヶ石川で河川工事がされていないのは、小田沢地区の上流域を残すのみとなっています。写真は、小田沢集落、通称ポンプ小屋付近。少年時代、魚突きをした最上流部となります。 妻の神、奥深くから流れる大沢川、約5キロほどの流れにて猿ヶ石川へ合流します。岩魚の宝庫でしたが、水量もだいぶ減り下流はコンクリートに固められた小川になっていますが、上流域にはまだ渓流といえる流れが残されています。
大 柳 おやげ
おやげ・・・松崎町駒木と松崎を境とする小烏瀬川に架かる橋(大柳橋)またその付近。
こちらもまた圃田整備に伴う河川改修工事によって、全くその様相が変ってしまった。川両岸はうっそうとした樹木が茂り、駒木側には文字通り柳の木が生えていた。
橋は、大丸太を半分に切ったもの二本を対岸に渡しただけの造りで今思えば趣がありました。その後、台風などで流された後も厚手の板数本を番線で固定しただけの橋でしたが、乗用車なども辛うじて渡れるといった頑丈な造りとなっていました。
少年時代は、釣りや探検、さらには松崎の子供達との対決の場でもあった。
駒木
松崎
両岸は木々が生い茂り、湿地帯もあり蛇やイタチ、穴熊が頻繁にでる、一種、気持ちの悪い場所もあって子供心に探検遊びは緊迫するほど真剣だった。
また、対岸の松崎側には鮒釣をした沼があった。
現在は、白岩から駒木に至る農免道路が通り、遠野市街地へのルートが便利になったが、中学、高校生の頃は、ここに道ができれば楽だなあと思ったりもしましたが、二十数年を隔てて現実なものとなるとは夢にも思いませんでした。
農免道路駒木・薬研淵線
小烏瀬川
大柳橋
 白 崖 
しらがけ
松崎と矢崎を結ぶ主要道だったが、白崖は、矢崎側にあって道脇は1キロに渡って杉木が生い茂る、昼なお暗く怖さを感じる道路であった。
文字通り、矢崎の崖崩れにて白い地肌が現れたということでそれが語源であるが、こちらもマムシなどの蛇が道路に出てきて、車にあちらこちらで轢かれてネクタイみたいになっていたことが思い出される。
また、道路下には、猿ヶ石が淵となって渦巻くところがあってこちらも釣りの絶好のポイントであった。
現在は、木々は伐採され、川の流れも移動してしまった。
白崖
←松崎
→矢崎
天然記念物
 又五郎ナシ 松崎町駒木第6地割(下駒木)
遠野市指定天然記念物・・1983年指定
大橋家(屋号・又五郎)の先祖は、鎌倉時代初期にこの地へ来た平家の落人ともいわれるが、その後の先祖が山伏であったといわれ、全国を修行行脚し、その道中、珍しい本種を持ち帰ったものと推測される。
本種は中国産とも、本州中部以南のものといわれる野生種で、二十世紀、長十郎の原種といわれる謎に富んだ種類である。
目通幹囲3.7メートル、樹高16メートル、樹齢約3百年
実は、ピンポン玉を一回り大きくしたもので、酸味が強い。
また駒木小学校校庭の東側の大橋家(屋号・又右衛門)にも同種があって、小学生の頃は随分と食べたものでした。特に秋台風の後は、梨が落ちて、それを拾うのが楽しみでもありました。
しかし、残念なことに老木のためか嵐で倒れかけていたものを伐採してしまいました。
モリオカシダレ桜 松崎町駒木第15地割内(海上)
岩手県天然記念物・・1977年指定
モリオカシダレはソメイヨシノとシダレザクラの雑種とされている。
このシダレザクラは生育もよく樹勢旺盛で毎年、見事な花を咲かせている。
県天然記念物指定時の計測によると根元幹囲2.8メートル、枝張り14.5メートル、樹高12メートル、樹の地上1メートル付近より二つに分かれており、目通り太さ2メートルと1.85メートル
推定樹齢約120年
森林軌道 私が生まれる以前のものであるが、圃田整備事業により水田の拡張、農免道路工事が行われるまでは、その名残りがありました。
現在は、駒木においてはその名残りは皆無です。

森林軌道・・・・
薬師岳国有林(附馬牛町)から営林署の直営事業で切り出す木材(ブナ)の搬出のため、昭和10年に大出事業所から遠野町上早瀬の貯木場まで約30キロに渡って軌道(レール)が通っていたという。森林資源運搬はもちろん、早池峰登山客、沿線の住民にも利便を与えるものだったといわれている。
昭和23年のアイオン台風の水害にて軌道の大部分が流失、その機能が失われ、廃止となった。
:駒木の軌道跡に造られた農免道路。
長く農道として利用されていたが、軌道は
ほぼ真っ直ぐに伸びていたのがわかる。
現時点でその名残りを留めているのが松
崎町白岩地区である。
写真は八幡農協裏
消えた寺、松雲寺
松崎町駒木(上駒木・妻の神)

今は、この話も忘れ去られ、その地に寺があったということを語るのは、地元民でもほんの僅かである。
妻の神の奥深く、大沢川沿いの前山、赤田、或いは倶利伽羅山とも呼ばれ、その一部の大沢平という場所の北側に寺屋敷と昔からいわれていたところがある。昔、この地に寺があったといわれるが、定かではない。
一説には、松雲寺と呼ばれ、宗派はもちろんいつの時代に開山し廃寺となったかも不明である。
寺屋敷址ではないかと推測される場所には樹齢7百年とも8百年ともいわれる老松木が生えていたといわれるが、牧道整備により伐採され、参道があったと思われる場所には同じ大きさの石が点在していたとされるがこれらを確認するのはむずかしい。
松木の推定樹齢からすればこの寺は阿曽沼時代に隆盛を誇っていたものと推定される。また、この寺の門前には大沢村と呼ばれる集落もあったと伝えられるがそのことを裏付ける物証は何も残されていない。
(大沢村については上閉伊郡志による)
画像ではよく確認できないがほぼ同一の石が
数個点在している。
板状の石
明らかに人的に手を加えられたものと思われる
石柱?
別場所にて確認された角石?
元遠野市消防団第五分団第一部屯所
サイレンが朝6時と午後5時に時
を告げていた。
元遠野市消防団第五分団第七部
後に第五分団第一部海上分所
現第五分団第一部
地域住民の集会所と消防屯所を併用させた駒木地区消防コミュニティセンター
消防屯所
子供の頃、遠野市ではけっこう火災があった記憶がある。また私の住む駒木地区でも記憶に残る火事が数件あります。
地元の火災には、いの一番に出動するのが消防団であり、消防屯所の鐘やサイレンに子供心に少し恐怖心を覚えたこともありました。駒木地区では人口、そして範囲を考慮したものと思われるが上駒木、下駒木、矢崎、小田沢集落を管轄する部(第五分団第一部)と海上集落を管轄する部(第五分団第七部)があった。
その後、遠野市消防団再編により海上(五分団七部)は駒木(第五分団一部)に編入され、分所となり、小型動力ポンプを積載した軽トラックが配置される。
さらに平成14年、海上分所は廃止され駒木に完全編入となった。なお、下駒木大橋家前の市道脇に木製の火の見櫓があって昇ろうとしてよく大人たちに叱られたものでした。
南部曲屋
駒木地区には、現存する南部曲屋は下の写真にみる廃屋のみである。
南部曲屋を現在でも住まいとするお宅は駒木では僅かであるが、茅葺屋根をトタン葺に改修したり、馬屋部分を改築したものとなっています。茅の確保、費用、茅葺屋根に携わる職人の確保などが困難な状況な時代であるので仕方ないことかもしれません。
1970年代にこの曲屋の一家は5百メートルほど下った場所に引越し、その後青山学院大学乗馬クラブの遠野合宿宿舎として数年にわたって毎年使われたが、現在は廃屋となっている。
松崎町駒木(上駒木)
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2005・秋・駒木の紅葉画像