鍋 倉 城
遠野南部氏(八戸氏)居城

なべくらじょう  (横田城)

鍋倉城址の遠景

旧城下・遠野市街地・二の丸址から

名  称 横田城後に鍋倉城・・遠野城    (山城)
築  城 天正年間  遠野阿曽沼氏第13代 阿曽沼広郷
寛永4年〜明治2年 遠野八戸氏(遠野南部氏)
   遺 溝 等 土塁、空堀等・・・現在は鍋倉公園
 中世遠野領主、阿曽沼広郷によって築かれたと伝えられている。阿曽沼氏は現松崎町光興寺にあった横田城を居城としていたが、猿ヶ石川の度重なる氾濫や防御性をさらに高められる城建設を思い立ち、天正年間中に着工、完成と推測されます。
 慶長5年(1600)の政変により広郷の子、遠野阿曽沼氏第14代 阿曽沼広長は鱒沢氏、上野氏、平清水氏といった一族及び家臣に叛かれ、気仙郡世田米に亡命、遠野は三戸南部氏、南部利直の直接統治の地となり、遠野城代に上野広吉、後に鱒沢氏、平清水氏没落、さらに上野広吉病没後は、南部家家臣、毛馬内三左衛門が遠野城代として赴任していたが、治安は悪化し、遠野は暗黒時代の様相を呈していたといわれます。
 南部藩主、南部利直は軍事上の要衝として、さらに治安が悪化し統治難航であった伊達藩との境、遠野の重要性を痛感、同系とされる八戸根城の八戸直義をして遠野統治にあたらしめ、寛永4年、八戸領主であった八戸氏が遠野へ転封され、以来明治維新まで八戸家後に遠野南部家の居城となりました。
 しかし、歴代の当主が鍋倉城に住まいしたという記録はなく、八戸家当主は、盛岡遠野屋敷に住まいし、鍋倉城は城代で家老加判の新田氏を中心に中館氏、福田氏、澤里氏等の重臣により守られておりました。
遠野市立図書館・博物館脇に鍋倉公園入口があります。
階段を少し登りますと、開かれた広場に到着。
広場は南部神社。春の桜の時期は花見客等の宴会で
賑わいがございます。


南部神社
御祭神・・南部勤皇五世、波木井南部三世
例祭日・・5月4日 遠野さくらまつりにて境内で郷土芸
能有り








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 最近の南部氏研究では、波木井南部氏祖、すなわち南部実長公と四代とされる南部師行公との関わりは、ほぼ無関係と解釈されておりますが、同じ南部一族として、さらに勤皇五世とされる歴代は紛れも無く南朝の忠臣として歴史に名を刻んでおります。

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澤里舘(屋敷)CDと西側の帯郭E、本丸、三の丸に至る堀切(土塁跡)F

重臣澤里氏・・・八戸時代以来の重臣。
八戸根城においても突出した部分に屋敷を持ち、攻城戦の際は敵を迎撃し易く、かつ最も激戦が予想される位置に配置されている。

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I
J
三の丸及びその付近
本丸からみた三の丸G、三の丸に至る場所の土塁跡Fの上部方面H、三の丸跡I、展望台J(観光用)
 
 三の丸には、福田氏、中館氏といった重臣二家の屋敷があったとされる。中館氏は一族譜代の家柄、新田氏に次ぐ家柄、福田氏は新参ながら遠野南部家における実質的な政務を執り行ったといわれている。

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二の丸址
本丸と二の丸との割堀K、二の丸址、現遠野南部家歴代及び室、墓所L

二の丸は遠野南部家第一の家、新田氏の屋敷があったとされる。現在は遠野南部家菩提所である大工町の大慈寺や関連地より墓所を移し、一族の墓所となっております。

二の丸

本丸

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鍋倉城南側(裏)
搦手門跡(阿曽沼時代)M、空堀跡NO
本丸側搦手門跡(南部藩時代)

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本丸、大手門方面
三の丸からみる大手門方面Q、拡大画像R
大手門に至る階段S、大手門跡21

22 本丸東南側

23 本丸西北側

24 本丸西側・搦手門跡

本丸から三の丸を望む

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 鍋倉城、当初は横田城と呼ばれていたが、鍋倉山に築かれたことで、遠野の人々は鍋倉城と呼び、以後鍋倉城で通るようになったようでもあります。
 阿曽沼広郷が天正年間に築くも天正19年、天下は豊臣秀吉の治世となり、小田原に参陣しなかった阿曽沼氏は、改易は免れたが三戸の南部信直の傘下に組み込まれ、しかも豊臣政権による一国一城主義により、横田城(鍋倉城)は表向きは廃城となり、戦国的名残りの堅固な山城ながら防御及び戦闘的施設等は本格的に建設された気配がないとされ、後に八戸氏が転封されてからは、本丸や郭内の家老屋敷は萱葺屋根の平屋造りと伝えられております。
 前面(北)と東側は来内川を天然の堀となし、背後は物見山、幾重かの空堀等をめぐらせ、西側は断崖、さらに城下には桝形を配置している。これらの工作物は八戸氏が鍋倉城に入ってから本格的に補修或いは建設されたものか、以前からの阿曽沼時代の遺物で事足りたのかは不明ではありますが、八戸家によりある程度補修され桝形等は新たに建設されたものであろう。

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