遠野阿曽沼時代 中世
遠野の宗教観 仏教編
遠野の古刹、 妙泉寺・東禅寺
遠野七観音
阿曽沼時代の寺院総覧
まとめ

早池峰山妙泉寺
早池峰山と薬師岳
遠野では古より信仰の霊山として崇められた
山門と参道
拝殿
本殿
明治新政府による廃仏稀釈で早池峰妙泉寺は、早池峰神社に名を変え、その後著しく衰退した時期があったが、地域の復興にかける情熱などでその荒廃を食い止め現在にその往時の姿を残し、早池峰神社として現在に至る
早池峰山妙泉寺  遠野市附馬牛町大出
開基 慈覚大師円仁 天台宗後に真言宗・関係寺、奈良県長谷寺小池坊の末寺
古代東北(奈良、平安初期)は、蝦夷や夷狭とよばれる人々が暮らし、遠野地方においては、早池峰山は北上山系の中心的な山として古くより狩猟に明け暮れる蝦夷にとって生活の糧を与えてくれる恵みの山であり、さらに外敵から守護してくれる聖なる山であったと推測されます。
やがて大和民族と接触、さらに侵略と受け取れる歴史がありますが、蝦夷達の素朴な信仰と大和民族がもたらした神社や仏教信仰と結びついた時、そこに新しい早池峰信仰と妙泉寺の草創があったと想像されます。

妙泉寺由来によりますと・・・
来内村の猟師、始閣藤蔵という者が、大同元年(806)3月8日、例の如く、早池峰山に猟に行き、途中吹雪に会い、難を逃れようと山嶺の一岩窟に泊った。ところがその深夜、不思議な奇瑞があり十一面観音の尊容を目のあたりに拝した。深い感銘をうけた藤蔵は下山後、居宅の側に一草堂を建て、三十刈の御供田を寄進して朝夕礼拝に勤め、その後、同年夏5月5日、雪解けを待って再び登山し始めて御供を捧げ一宮を建造、次いで弘仁年間、居宅、田地を次子に譲り、長男と共に大出で至り剃髪して普腎坊と称して信心参詣の登山を欠かさず承和元年に遷化したと伝えられている。
長男、兵庫は長円坊と称し、その跡を受け、承和14年(847)山峰の宮が倒壊したので別の神殿を造営して権現の神霊を奉遷して若宮と号し、旧宮も修復し彌陀
三尊を安置して本宮と称した。

斎衛年間(854〜856)天台宗祖、最澄の高弟、慈覚大師円仁が東北巡行の折、当地を訪れ祭祀因縁の奇瑞を聞き、深く感動し、同伴の長弟、後持福院に随身の正観音を与えて神社を住持せしめ、一字の宮寺を草創して早池峰妙泉寺院号を持福院、坊号を大黒坊と呼ぶこととした。
妙泉寺は山嶺の池水の霊妙にちなみ、持福院は民人に福徳を及ぼす義をとり、大黒坊は自ら彫刻した不動の三尊及び大黒天の像を安置したことに由来するといわれている。

その後、寛治年間(1087〜1093)に天台宗から真言宗に改宗、しかし度々火災などに遭い、宝物の多くを焼失したとされ、鎌倉時代に入ると時の領主、阿曽沼氏の祈祷寺となり、遠く京都や奈良方面との交流も盛んでよくその聖域を守り、慶長年間、南部利直より旧領130石、寛永年間、遠野領主、南部直義より35石、その子、遠野南部二代、南部義長より30石、会わせて200石余りの寺領を有し遠野随一の大寺院として存続するも明治維新後、廃仏稀釈にて廃寺となった。

早池峰山に仏教信仰の導入がなったのはどのような経過だったのか・・・
原始宗教〜初期の仏教信仰(宗派も明らかでないもの)〜天台宗〜真言宗、そして大迫の岳への分離という経過と考えられるが、本格的な創始については天台宗によるものと考察され、開山の経緯についての伝承は白山信仰とも良く似、東北天台宗の総門とされる平泉の隆盛時代に天台仏教布教が盛んに当地でも行われ、比叡山を中尊寺、それに対する白山を早池峰山にみたてたものとも受け取れます。慈覚大師の遠野訪問の是非は伝説のみであるが、いずれにしろ天台の僧等によって開基された可能性は大であり、後に山伏、修験者といわれる全国各地を行脚する人達の修行の場として名を馳せ、天台宗に少し遅れるが真言宗が徐々に入り込んで、後に宗派の移動があったものとも考えられます。

大宝山 東禅寺
阿曽沼氏治世の室町時代〜江戸初期、大寺院東禅寺があった山々・・・遠野市附馬牛町大萩地区より望む
東禅寺址
東禅寺開祖、無尽和尚の墓
遠野合戦に大軍を率いて来援、大槌攻城戦にて戦死したとされる三戸南部、第13代南部守行の墓
木々に覆われ、当時の面影を残すものはほとんど残されていない。
大宝山 東禅寺  遠野市附馬牛町東禅寺大萩
開山、建武年間(1334〜1335)・開基、無尽和尚(妙什大師) 臨済宗

鎌倉時代、武家政権である鎌倉幕府が開府されると、京都や鎌倉では、新しい仏教が芽生え、その教えは武家や庶民に急速に広まり、やがてその布教は東北の地にももたらされたのである。
親鸞直伝の高僧、是信坊が親鸞自作といわれる木像を背負い建保年間(1213〜1218)に和賀郡に至り、後に紫波郡彦部の本誓寺で浄土真宗の布教活動と伝えられ、曹洞宗においては総持寺縁の無低禅師は、貞和4年(1348)胆沢郡黒石に正法寺を開基、そして遠野郷においては浄土宗養安寺と
無尽妙什大師による臨済宗大宝山東禅寺が草創された。
無尽は、かつて下野国今泉の興禅寺開祖の真空妙応禅師に学び、高足の誉れ有といわれ、後に諸国を遍歴し遠野の附馬牛に至って、現在の大寺の地に東禅寺を開基した。
無尽は識徳の名一世に高く、後に集い集まる僧の数は2百人を超え、禅風大いにあがってその隆盛を極めた。その規模は七堂伽藍を連ね松島の瑞巌寺をも凌ぐ大寺院でその名は奥州各地に広まったと伝えられ、遠野領主阿曽沼氏により多大な援助もあったと推察され、さらに下野国出の阿曽沼氏と共に遠野へ来たとも、無尽和尚をして遠野へ至らしめ、その基盤が整うと本格下向したとも思われますが推測の域は脱しない事柄です。
遠野での大寺院を物語ように近在の末寺は現存する寺、その数八寺を数えている。

永享9年(1437)、領主阿曽沼秀氏時代、気仙、大槌の兵が遠野へ侵攻、阿曽沼氏はその救援を三戸南部氏、南部守行に請い、南部軍が来援し気仙、大槌勢を破ると大槌へ遠征、この時、南部守行、大槌勢の放った矢にて絶命、その遺体は東禅寺に埋葬されたと伝えられている。このことが縁といわれるが、後に阿曽沼氏が慶長年間に没落すると遠野を領有する南部家によって寛永年間(1624〜1643)盛岡北山に移転させられ、現在はその寺址を僅かに残すのみである。
東禅寺の末寺とされる東禅寺と同集落にある常福院の説明板
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