南部氏奥州下向と定着の真実?
南部氏のルーツについては、戦前戦後を通じて多くの学者等によって研究されているにもかかわらず史料不足などの問題もあって、多くの謎を残している。
戦前までは「三戸南部」(盛岡)の系譜が主に説かれてきたのですが、それによると南部光行が源頼朝の平泉攻めの戦功により糠部五郡を拝領し、海路八戸へ下向、三戸に至り築城し、二代南部実光のときに六人兄弟のうち五人が糠部に移り各地に定住したというのが奥州での足跡の始まりと伝えられている。
しかし、この系譜は江戸期につくられたもので、戦後、今度は「遠野南部家文書」や「鬼柳文書」その他中世史料の研究が進むにつれ、南部氏は少なくても鎌倉期、糠部郡に居たという形跡は見当たらず、甲州から下向したのは「建武中興」の頃という説が有力となっている。
さらに糠部に下ってきたのは分家筋の「八戸南部」(遠野)南部師行・政長兄弟だったという説が通説化しており史料による内容としても明らかであり、このことは青森県史・資料編・中世T(2004)でもその根拠を明確に示されている。
糠部地方は鎌倉期、北条氏や工藤氏、曽我氏、三浦氏といった鎌倉御家人の所領だったことは明らかで、南部氏は得宗家北条氏の被官であり・これら領主の代官として赴任、或いは得宗被官として封地を与えられていた可能性が極めて高いと指摘されている。
遠野南部氏(根城八戸)の奥州下向
根城八戸(遠野)南部氏の糠部郡との関わりは、建武中興の頃での遠野南部(根城八戸)、南部師行との関わりが史実でもほぼ明らかになっている。
鎌倉幕府滅亡前の元亨二年、津軽での安東の乱にて甲州波木井南部第三代、南部長継が北条方として動員され、この乱は六年も続いたとされ、長陣のため糠部郡内において兵糧科所が南部長継に与えられた可能性があるといった見解もあって、その説が極めて高いと考えていたが、これを裏付ける史料もなく、さらに「青森県史・資料編・中世T」また、2004年10月、青森県八戸市で開催の「中世糠部の世界と南部氏」等のシンポジウム、講演会でも、はっきりと波木井系南部氏と南部師行との関係を否定、所伝での波木井南部氏、南部長継の養子となり波木井南部氏、南部実長(初代)の系譜を継承したとされる形跡は見られない点、さらに山梨県身延関連史料及び南部氏近世文書の研究成果もみられ、従来の波木井系南部氏との関連は少なくても中世においては認められないという見解がはっきりと示されている。
南部師行は、南部宗家の一族の代表として、建武親政下、陸奥守、北畠顕家幕下として奥州下向、さらに弟、南部政長をはじめとする南部一族並びに郎党が付き従ったものと思われます。
奥州下向が史料でも事実である南部師行は、元弘三年冬〜建武元年秋にかけての津軽争乱で検断職となりこの鎮圧に関わっている。
八戸南部系譜では、この時、南部師行は甲州から下向し八戸に一万石の所領を拝領し根城を築いたと伝えられるが定かではない、当時一万石といえば約一千町歩の水田という計算とかで、しかも津軽の豪族曽我氏の所領は90町歩と俗にいわれ、師行が一万石の所領を与えられたというのは論外で到底考えられず江戸期に書かれた発想という見方がされている。
八戸領有は南部政長が論功により工藤氏の欠所地を南朝から与えられたとの解釈をすべきで、兄師行戦死後のことと解釈される。建武の時点では八戸はまだ工藤氏の所領であったのは史実とみられる。
南部師行が八戸と関わりを持つとされる史料として、遠野南部家文書(八戸)の中に「糠部郡闕所事」に一戸、八戸、三戸の工藤氏、横溝氏の欠所地を南部又二郎(師行)、戸貫出羽前司(稗貫氏系・中条氏)、河村入道又二郎に一時期預けるといった書状が存在している。この書状により工藤氏等の欠所地が上記の三名の奉行に預けられたのですが、その中の八戸が南部師行に預けられそのまま所領として認められたという発想によるものと推測されます。
一戸は岩手郡から糠部南部地域を管轄する奉行である戸貫氏が管理し、後に一戸は戸貫氏の所領となっているので、八戸、三戸は南部師行といった考えからともとれますが、師行の弟である南部政長が八戸を後に恩賞として授かった土地とするのが妥当という考えでもあります。よって八戸南部氏の初代は南部師行というより弟政長とすることで氷解とまでもいかなくてもそれなりにすっきりするものではないでしょうか。(このことについては、次頁にて補足いたします。)
次に奥州において最も緊迫し情勢の厳しい糠部を含む北奥羽に北畠顕家が南部師行を検断職という重要なポストを何故与えたのか・・・。
甲州南部一族は、鎌倉幕府御家人であり、得宗家北条氏の被官であった可能性が極めて高い、よって糠部郡内に点在する北条氏所領のいずれかの代官として南部一族の誰かが派遣されていた可能性も高い、特に南部政長は、新田義貞による鎌倉攻めに長兄南部時長と共に従軍し、軍忠状にみえる「政長奥州より馳せ参じ」をみれば奥州のいずれから鎌倉攻めに加わったものと解釈される。
推測するに得宗家領の代官として糠部郡内へ師行、政長兄弟は代官或いは南部一族の有力者に付き従い一時期奥州に居たのではないのか、特に政長については、現地で工藤氏の婿となり、或いは工藤氏から嫁を取るといった婚姻等が成立していた可能性は大きいのではないのか、これらの事から南部師行、政長兄弟は糠部郡との縁により南部一族惣領家の一員として、或いは嫡流の系譜として南部師行が、国司北畠顕家から検断職に任命されたのは、こういった事情と系譜があったためではないのかと考察いたします。
いずれにしても、南部師行・政長は、南部惣領である南部時実の孫としての奥州下向であり、師行に至っては建武親政での糠部郡検断、奉行としての任命であること、南部師行、政長、そして後の時代であっても日蓮宗と深き関わりある波木井南部氏であるのに対して、師行、政長からの系譜は八戸時代を経て遠野に国替えとなっても日蓮宗とはほとんど関わりがなかった点、これらのことからも波木井氏とは関係なかったといわざるをえない内容でもあります。
八戸定着と八戸根城築城については、南部政長晩年か孫とされる信光時代とみる説も大いに考えられることでむしろ妥当という見方もできる。
三翁昔語や八戸系譜では、南部信光は正平20年頃、甲州波木井に移っていて弟で第八代を継ぐ南部政光に家督を譲ったと伝えられている。・・・これは後村上帝の綸旨により甲州に新たに所領が与えられたということからきていますが、当時関東甲信越はほとんど北朝方の勢力が主で特に南部氏の本領地は甲斐と駿河を結ぶ重要ルートでしたので、このような場所を南朝方の南部氏が維持できたとは到底考えられない点、また南部政光が三戸南部第13代・南部守行の招聘により甲州の本貫地を将軍足利義満に返上し八戸へ本格下向と伝えられるが波木井家と無関係であったという結論からすれば、このことは後に作られた内容であると共に、波木井(身延)ではなく、南部惣領家領のどこかであったということにもなります。奥州に下向しなかった甲州南部一族及び波木井系南部氏は実は甲州における嫡流が存在し、戦国時代、武田信虎に滅ぼされたという伝承もあることを申し添えます。
南部師行・政長につながる遠野南部氏(八戸)は、史実でも八戸、糠部にあって南朝方として戦い北朝側から糠部凶徒と呼ばれ敵対視されていたのは史実でも明らかであり、南朝の忠臣として活躍し勤皇五世として歴史に刻んだのは紛れもない史実であるという点、このことは以前とは全く変わりないものである。
盛岡南部氏(三戸南部・・・南部宗家)
前段でも記しているが三戸南部氏は、奥州平泉征討による恩賞として鎌倉期糠部に所領を得ていたという確証はほとんど認められていない、ただ最近の研究で糠部郡内に所領のあった得宗家北条氏の被官だった可能性が極めて高く、その代官として或いは得宗家被官南部氏の所領がいくつか糠部郡内に存在、このことから鎌倉末期に奥州に下向していた可能性はある。
「吾妻鏡」には南部光行の子である南部実光、実光の子、時実の名がみられ、両者は将軍の供奉を勤める鎌倉御家人及び執権北条時頼の側近として登場している。
こうした史料による痕跡から南部氏は南部実光から鎌倉御家人であり、北条氏の有力な得宗被官として鎌倉時代を生き抜いてきたことはほぼ間違いないものと思われます。
鎌倉末期史料に登場するのは、南部師行・政長兄弟とその長兄、南部時長、そして実父とされる南部政行、さらに時長、政長、行長(時長の子)は新田義貞軍に加わり鎌倉攻めにて戦功があったとされている。政行・時長親子は甲州から、師行は糠部、そして政長は津軽から馳せ参じたという推論も成り立ちますが、いずれにしろ後に宗家、分家といわれる親兄弟が同じ軍に従軍して活躍したことは事実と見てよいと思われます。
三戸南部氏10代とされる南部茂時は鎌倉幕府滅亡にて北条氏と命運を共にしたと伝えられているがその後の研究では、架空の人物との見解でもあり、北条一門の北条茂時(南茂時)との混同の可能性が高いものである。
事実上の三戸南部氏の史実への登場は南部信長という説が有力との見解が生じる、南部師行の兄、時長の子、南部行長もまた宮方となったとみられるが、南部惣領家として奥州に下る叔父である南部師行に付き従った可能性が高く、後に叔父、南部師行から三戸の所領の一部を譲られた可能性もあります、この行長が信長であるといわれ、南朝から伊予守を受けた南部伊予守信長(又二郎)との見解が存在する。
しかし、南部伊予守はこの後府中合戦にて北朝方に転じたとみられ、三戸には幼い信長の子、政行が残され一時窮地に陥ったものを八戸南部氏が保護し、成人となってからは 甲州に移り北朝側として南北朝動乱を生き抜いたのではないか・・との推論も成り立つ、そして南北朝動乱が終結し、南部政行の子、南部守行が継ぎ、三戸へ移り住んできたとの説も有力で、南部信長が北朝に転じてからは三戸辺りは北朝(武家方)から名目上、南部信長の所領として認められていたのではないのか、南北朝動乱が合一という形で終結するとかねてよりの所領、三戸は信長の孫である守行が継承したのではないのか・・と推察されます。。
三戸南部氏の系譜についてはまだまだ謎の部分も多いが、第13代南部守行の頃、糠部郡内に下向した説が有力とみられ、以後、勢力を拡大し、後に北奥羽に君臨する三戸(盛岡)南部氏のルーツだったとみるべきではないか・・・そしてその系譜は、実は南部師行から兄、時長の子、信長を経て、守行に受け継がれ、南部氏宗家が二つの系譜(三戸・八戸)に分かれたものと考察いたします。
北奥羽南部氏等の疑問検証
次頁では、さらに南部氏について踏み込んで、最近南部氏研究が加速し、今まで語られてきた所伝、通説の類は見直しの時期に至っている現状を踏まえ、推論、史料を参考としたもの・・等、検証しております。
素人の単なる歴史好きの戯言かもしれませんが、感想やご意見、疑問点など掲示板、メールにてお知らせいただいてもけっこうです。