陪家の明治維新
盛岡藩遠野南部家の戊辰戦争
その壱
明治維新といわれる時代の変革、それまで権勢を誇っていた徳川幕府の崩壊、奥州の片田舎の藩、すなわち盛岡藩(南部藩)の陪家である遠野南部家にもその影響は多大なものであるが、実際は遠野の人々には信じがたい出来事であり、またその事実をもってしても日々の暮らしに影響するような事ではないと思っていた、いやっ、なんのことか、そのことすらほとんどわからなかったのではないのか、時代という波が大きく動いた、流れが変わった、これらを感じとる間もなく明治維新を迎えてしまったというのが妥当かもしれません。
明治維新と盛岡藩
盛岡藩首脳
明治維新当時の藩主は盛岡南部家第40代当主、南部利剛候。38代南部利済候の末子で、幼名を鉄五郎と称するが、いわば部屋住みで、上手く人生が開ければ他家への養子、或いは家臣の後継者となる方はまだよい方で、大概はある程度の捨扶持をいただき、世捨人同様の暮らしが普通だったといわれております。利剛候は幼い頃から報恩寺に預けられ、小僧となり成人後は仏門の世界に暮らすレールが敷かれていたものが、父、利済の後継で兄である39代南部利義候は、利済候と不和となり藩主就任間もなく隠居となるや、子のなかった利義候の後継として利剛候が急遽、還俗させられ40代を継承した藩主であります。
南部利剛候は寺生活である程度の苦労を経験したことから、何事にも謙虚慎重で、また家臣の言もよく聞いたと伝えられ、何よりも小僧時代に庶民や社会生活全般にわたり知っていたので、領民事情にも通じ思いやりのある施政を実行したので領民からは慕われ名君の誉れが高かったとも伝えられています。
南部利剛候の施政を実際に司ったのは楢山佐渡で、実質の藩政実務を担当しておりました。
佐渡は新進気鋭、英才の誉れ高く、22歳で家老加判に就任、二年後には家老となり、明治維新の変乱時には30代後半の男盛りでありました。
佐渡は見識といいその弁舌といい当代並ぶものがいないといわれるほどの人物でありました。(楢山佐渡と盛岡藩については盛岡藩落日の譜を参照願います)
しかし武家においては、その人物が英才でその政治的手腕が高くても身分という壁が立ちはだかり、身分家柄の低いものは上下の信望を集めることが難しいものとなっておりました。だがこの点、楢山佐渡はその条件すべてをクリアしている存在で、藩主の利剛候と君臣一体の藩政を取り仕切ることで家臣、領民から大きな信望を得ておりました。
(楢山佐渡は高知衆の上級家臣で叔母は藩主利剛の母であり、利剛とは従兄弟)
楢山佐渡と共に藩主の側近にあり藩政の中心にあったのは遠野領主で別格諸家の位置付け、いわば盛岡藩ではその格式は宗家と同格とされ、藩大老を勤めたこともあった南部弥六郎(南部済賢)でした。
南部弥六郎は、性来豪気で、しかし政治感覚にも優れ、盛岡藩では第一の実力、権威、政治家として領内では信望の厚い人物でありました。弘化4年の三閉伊一揆では南部弥六郎に藩当局への取次ぎを訴えるため遠野へ押し寄せ、遠野南部家当局の計らいで大混乱は避けられると嘉永六年の野田一揆では、仙台藩との交渉が暗礁に乗り上げ解決困難の様相を呈すると、幕府からは「遠野弥六郎を仙台に派遣して交渉に当たらせよ」の指名がかかるほど高名でもあり、仙台へ出張すると仙台藩との交渉を成立させ一揆に関る事柄を解決、また弥六郎の室は楢山佐渡の姉で、佐渡、弥六郎、利剛の組み合わせは当時の藩政組織では理想的トリオというべきものであったとされています。
他に家老首座に南部監物、家老南部主水、三戸式部、桜庭愛橘、軍奉行(花巻城代)毛馬内九左衛門伊織の面々で家柄はもとより見識も優れた人物揃いでもあり、特に元老というべき南部済賢、家老楢山佐渡、そして藩主南部利剛の三人は、保守頑迷どころか他藩にも劣らぬ尊王革新の人材でもありました。
鳥羽伏見の戦いと盛岡藩
慶応3年、将軍徳川慶喜は大政奉還となると徳川幕府は崩壊、王政復古が宣言されると全国諸侯に各藩の藩兵を上洛させよとの命が発せられました。盛岡藩もこれに応じ三戸式部を指揮官にオランダ砲一門と銃隊を中心とした一中隊を京都へ派遣したとされています。
この時、何事もなく京都に入れば御親兵の一翼となり尊王の家として歴史に名を刻んだかもしれませんが、盛岡藩兵が大津にさしかかると大阪にあった徳川慶喜は一万数千の大軍を擁して京都をうかがう姿勢を示すと、これを阻もうとする薩長を中心とする勢力が京都への関門を守備するといった動きが伝えられる。もし両軍が接触すれば合戦となる公算が極めて強いとみた三戸式部は進軍を停止させ、まずは国許に報告と、とるべき行動の是非を問うたと伝えられています。一方、盛岡藩当局もこの報に大きく動揺するも、御前会議にて徳川、薩長の私戦との結論を出し、三戸式部には中立堅持を指示、訓令を受けた三戸式部ひとりでは心許ないということで、急遽、楢山佐渡が派遣されることとなり、早速早籠で盛岡を出発したが、仙台領に入ると三戸式部からの使者と遭遇、この知らせは遂に両軍鳥羽伏見にて開戦、徳川方大敗の報であったという・・。佐渡はそのまま来た道を引き返すと、三戸式部率いる藩兵の帰国を厳命、式部のみは京都にあって朝廷との連絡の任を命じたといわれています。
盛岡藩、仙台藩の動揺
鳥羽伏見の戦いで勝利した薩長を主とした西軍は、勝てば官軍の諺どおり、錦旗の御旗を押し立てて官軍を名乗って江戸を目指しての進軍が開始されました。徳川慶喜は恭順の姿勢をとると一応に天下は朝廷に服したことになりましたが、このまま朝廷による新国家建設が順調に進めば盛岡藩も尊王藩として何事もなく済んだに違いありませんが、そう単純な事柄ではなかったのは周知のとおりです。
徳川家征討の目的が霞むと、その矛先は会津藩松平家、松平容保候に向けられ、さらに出羽庄内藩にも向けられました。
特に長州の会津藩への憎悪は激しく会津藩を取り潰し松平容保候の首を獄門に架けるといった強硬な姿勢でもあり、遂に会津は逆賊として征討の対象となるとまずは奥州諸藩にその征討の命が下されました。特に奥州の大藩、仙台藩はその討伐軍の中心的な役割を担うことになりますが、仙台藩伊達家と会津松平家は縁戚の関係もあり、朝廷の命といっても本腰を入れて会津討伐に踏み切れないでおりました。さらに盛岡藩、秋田久保田藩といった奥羽の大藩にも討伐の命がくだされ、盛岡藩では会津討伐軍、三百人の中隊を編成して陸路、会津へ向かったとされています。
仙台藩では米沢藩と共に朝廷に対し恭順姿勢をとる会津藩が奥羽諸藩の説得に応じ、降伏する構えもあるとし、奥羽での戦いは好まないとする意見書を仙台に至った奥羽鎮撫総督府へ提出、盛岡藩をはじめとする奥羽諸藩も奥羽に戦火が及ぶことは同じく好まないとして奥羽諸藩連名で会津助命の嘆願をしました。盛岡藩では嘆願書はともあれ、勤皇という名の下、藩兵が南下をつづけ仙台領に入ると、盛岡側では仙台藩と歩調を合わせ、共同にて軍を会津へ向かわせようと交渉するも、仙台藩の態度ははっきりせず、さらに盛岡藩兵の進軍を阻もうとする態度にもみえ、盛岡藩軍の先鋒隊長が煮え切らない仙台藩当局を批難すると先鋒隊長は仙台藩士に暗殺されてしまう事件が起こったとされています。こうなると友軍として遥々北方の地から遠征してきた盛岡藩軍はその頼るべき奥羽盟主、仙台藩に裏切られた気持ちが強く、仙台藩との協調は反故にして盛岡に引き返そうとする、こうなると仙台藩も大いに慌てて八方弁解に奔走したとされますが盛岡にあった南部弥六郎は大いにこの事件に対し憤慨し、勅命によって会津征討に出向いた者を殺害するとは何事か・・と言って仙台藩と手を切り盛岡藩は独自の行動を取るべきと主張したといわれますが、盛岡藩首脳も同様の考えではあったが、仙台藩は南で境を接する隣国でしかも大国、仙台を敵に回すことは盛岡藩にとってはまさに死活問題でもあり、さらに奥羽諸藩が一丸となり会津救済の目的に反することでもあり、何よりも奥羽での兵火の原因にもなることでもあったので、まずはこの事件に関しては小事として隠忍ことに一決し、暫くは現状維持の状態で時局を傍観することにしたといわれています。
しかし、現地の派遣軍としては煮え切らない状態でもあり、仙台側と衝突の可能性を考慮して藩当局は密かに藩兵の引き揚げを指示、第一軍は小隊を残したのみで国許へ撤退、仙台領水沢(岩手県水沢市)付近を進軍の第二軍もすぐさま引き返すと、仙台藩当局は大いに驚き一生懸命引止めにかかるも派遣軍参謀の江幡五郎は無視して帰還するに至ったとされています。
余談ではありますが、徳川家康が奥州の外様大名を各所に配置した意義がはっきりと浮き彫りになった形と後々いわれております。仙台の伊達家と秋田の佐竹家、南部家と津軽家、それほどでもないにしても米沢の上杉家と会津の松平家、徳川幕府の近隣相攻の策、つまり仲のあまり良くない藩を隣藩に配置した政策がこの時代になって裏目に出る効果を示したものといわれています。まさに藩首脳もこのことを考えたものと思われ、仮に秋田と津軽と同盟したとしても仙台に盛岡が攻められたからといって先祖の以来の仇敵津軽が援軍を差し向けるとは考えられないことでもあり、秋田の佐竹家においても険しい奥羽山脈を越えてすぐ様駆けつけるとは限らない、なによりも大藩の仙台藩相手ではまずは成り行きを見守る、これが普通と考えても仕方ないことでもありました。
さて事態が西軍の会津征討が余談を許さない状況となると勅命によって会津を討つか、西軍と抗して会津を助けるか、各藩とも藩論は二つに割れ大きく動揺する事態となります。しかし、仙台、米沢を主に体制はほぼ会津救済に傾くと各藩の藩論もほぼ仙台、米沢に同調、さらに仙台藩士による鎮撫総督府の世良修蔵の暗殺と、薩長は官軍にあらず朝廷の権威を笠にする謀略と感ずると奥羽越列藩同盟を結成、盛岡藩も勤皇を旨とするも周囲の状況が一応決した中ではさらに動揺を隠すことはできず先にも触れてますが、仙台藩は大藩、鉄砲の数だけでも数千挺の仙台藩と五百挺の盛岡藩では勝負にならない、また兵の数でも数倍の仙台と事を構えることはまさに藩の存亡を賭けることでもあります。まずは仙台藩に同調して天下情勢を見極めるといった考えでもあったといわれています。
盛岡藩では、よくいわれる恭順、主戦の二派に分かれて論議を重ねたのは他藩と同じではあるが、南部弥六郎をはじめとして楢山佐渡も尊王一筋であったといわれております。同盟に背けば仙台を敵に回すことでもあり、さりとて新政府、すなわち朝廷に抗するものでもない、いわば中立を貫こうとする姿勢ではありましたが、へたをすると双方から攻撃を受ける可能性もあり、まずは時勢の成り行きを見守り時間稼ぎではないが、まずは楢山佐渡が藩兵を率いて上洛し、京都情勢に触れると共に天下の形成を見極めることになりました。
佐渡が上洛した後は、早くも白河(福島県)や越後でも遂に東西両軍が激突し、戦火は次第に奥羽を北上しつつある時勢となっておりました。
楢山佐渡は京都で王政復古はなんたるものか・・を垣間見、そこで感じたものは実は若い帝を擁して天下を独占する薩長の輩、徳川家に代わって天下を牛耳るといったものでもあると確信したともされこの時より楢山佐渡は主戦論を展開し始めたともいわれ、後に盛岡に帰国した楢山佐渡によって盛岡藩は戊辰戦争の渦中に巻き込まれて行くことになります。
盛岡藩の戊辰戦争については「一山百文」コンテンツ盛岡藩落日の譜をご参照願います。
さて、今回ご紹介したいのは、盛岡藩の陪家、遠野南部家の明治維新についてですが、詳しくは次頁にてご紹介といたします。
まずは、本家たる盛岡南部家の動向、簡単ではありますが天下情勢を含め東北での戊辰戦争に至る流れを説明いたしておりますが、盛岡藩家老、楢山佐渡は、尊王思想の持主であり、また共に藩政の中枢にいた南部弥六郎(遠野南部家当主)もまた尊王の志が強いものであったといわれております。楢山佐渡は何故に尊王思想がありながら西軍と抗する道を選んだのか・・・後の世でも色々と説が唱えられておりますが、私としてはやはり隣藩で大藩である仙台と事を構えたくなかった、奥羽諸藩が同盟しその上、当時東日本最大の雄藩、仙台藩が健在である点、対等若しくはそれ以上の戦いの可能性を見出していたかもしれません。さらに上洛途中、また帰国途上、西軍に対する諸国からの批判の声が割りと大きかったこと、旧幕軍の脱走兵団も健在で、関東方面では西軍の北上を防ぐ戦いぶりとの風評も入り、仙台を中心に奥羽諸藩連合を以って対峙すれば奥羽側に有利に展開するのではないか・・という考えも成り立ちます。
いずれにしても京都からの帰国途中、楢山佐渡は仙台藩塩釜に海路上陸、この知らせを受けた仙台藩家老、佐沼領主の但木土佐から会見を申し込まれると、すぐさま仙台城内の但木土佐の屋敷を訪問、互いの意見を申し述べ、意気投合したと伝えられております。その後も何度か会談が持たれ、佐渡に対する仙台藩の待遇は国賓並みでこの時、密かに仙台、盛岡の攻守同盟が結ばれたともされておりますが仔細は不明です。
こうして仙台、盛岡両藩は互いの立場を理解したうえ、奥羽同盟を以って薩摩、長州の野心を打ち砕くことこそ真の勤皇であると確かめ合ったといわれております。