盛岡藩遠野南部家の戊辰戦争
陪家の明治維新
その弐

秋田戦争と南部済賢(南部弥六郎)
盛岡藩と秋田戦争
さて、本題の遠野南部家の戊辰戦争への話へ移行いたしますが、まずは秋田戦争へ突入となる本藩たる盛岡藩の藩論決着についてご紹介の後、本題へ入りたいと思います。
さて、京都から盛岡に帰国した楢山佐渡を待ちかねたように、盛岡藩の去就を決するべきの大評定が盛岡城二ノ丸の菊の間において藩の要人諸士総登城により開催されました。
慶応4年7月には南奥州、白河での同盟軍敗退、浜通り(福島県太平洋側)地方への西軍の侵攻、さらには越後戦線でも戦火が広がりをみせていた時勢でしたが、隣藩、秋田久保田藩は仙台、盛岡を経て秋田入りした奥羽鎮撫総督府一行が秋田領に入るとすぐに同盟を離脱、詰問に秋田入りした仙台藩士を斬殺する暴挙に及ぶと、北奥羽方面は一気にきな臭い方向へ進み、久保田藩は庄内討伐軍を南下させると新庄、本荘の各藩も秋田久保田藩へ同調、仙台藩の目論見の一角は崩れ、北奥羽にての盛岡藩の態度が鍵を握る場面となりました。
大評定は、慶応4年7月3日開かれ、主な顔ぶれは元老というべき藩随一の実力者、南部弥六郎済賢(遠野南部家)、家老首座、南部監物、家老、南部主水、政務御用係、野々村真澄、軍務方大目付、向井蔵人・・・他。
当時の盛岡藩政務、軍務の役を担う幹部達で多数で、正面中央には藩主、南部利剛、その左には八戸家分家の南部掃門(遠野南部家分家)、そして左には南部弥六郎という重鎮が座り、一同緊張のまま評定に望み、さらにはじめから興奮状態でもあったと伝えられています。
まずは第一日目、楢山佐渡による京都情勢の報告が主で、それらを傍聴する程度で終了。翌日は、いよいよ態度決定の評定となり、まずは家老首座の南部監物から一応の経過説明がなされ、その後、各自が忌憚のない意見を具申するようにとの内容であったそうですが、当時の評定は現代のように挙手の上、議長から名指しされて発言というものではなく、司会役から「貴殿の考えはいかに・・」というように指名されてはじめて発言が許されるといった仕組みでもあったようです。
最初に指名されたのは、軍目付の向井蔵人で、津軽弘前藩討伐を発言すると、つづいて指名された楢山佐渡は仙台藩と奥羽越列藩同盟の意義を持ち出し、はっきりと仙台と共に会津を助ける意見を提議すると、かなりの藩士が頷いたりという姿が見られ同調者も多数であったようです。恭順派では野田丹後が佐渡の意見に反対意見を述べたともいわれておりますが、遠野側の伝承によると、この時、南部弥六郎は大いに怒り、正面の座から大声で楢山佐渡の変節を叱り、「評定がいかに決しようとも自分の勤皇の志は少しも揺るぎない、開戦となっても遠野南部家では一兵も出さぬ」と言ったので、評定は私語騒然となり、収拾もつかないほどであったので、司会役の南部監物は、後日、各自の意見を書面をもって明日持参して提出するようにと締め、辛くもその場を治め解散したとされています。
南部弥六郎の発言を快く思わなかった主戦派の藩士達は、弥六郎が城からの帰道を襲って暗殺を計画したといわれますが、楢山佐渡の知るところとなり、津軽や秋田と戦う前に遠野と盛岡両南部家の戦いになっては津軽討伐どころではない・・と強く説得したので南部弥六郎の暗殺計画は中止となったといわれています。
翌日、各自持参の書面を朗読したが、その大半は楢山佐渡の考えに同調するいわば主戦論が占め、恭順ととれる内容は皆無に等しい事柄で、ほぼ奥羽越同盟をもって西軍に抗し、津軽、秋田を討つにほぼ決したものであったが、この時も南部弥六郎はまたもや真っ向から反発、いかに義兄弟で以前は共に藩政の中心を担っていた者同士であっても、楢山佐渡は藩論一致を破るものとしての具申で、その場で藩主、南部利剛候により、閉門処分が下され直ちに弥六郎は退席を命じられ以後藩政の中枢から失脚させられました。
7月3日の大評定に楢山佐渡が出席していたかのような記述がございますが、楢山佐渡の帰国は7月16日とされ、上記の内容と異なる説でもあります。おそらく7月3日の大評定では論議はほぼ決定し、同盟堅持の方向性だったと思われます。しかし、東中務や南部弥六郎といった恭順派、勤皇志向の実力者も力を失ったわけではなく、藩内は騒然としていたものと推測され、秋田討伐が正式に発動されるのは楢山佐度が帰国して一決したものと考えられます。
また7月3日の大評定一日で秋田征伐が決定という説もございますが、遠野側の伝承によると3日を要したとされております。さらに直ちに秋田討伐の準備に入ったとも伝えられますが、秋田攻めは決定したが、まだまだ藩内は騒然としており、秋田攻めは一日、また一日と先延ばしにしていたと伝えられ、7月18日、甲冑姿の仙台藩士が花巻城を訪れ、かねてよりの同盟により速やかに秋田へ繰り込むべし・・と仙台藩当局から催促をうけたともされ、さらに仙台軍は盛岡藩境に集結中であり、もし態度急変があれば即刻花巻城を攻めるという脅しに似た内容があったとされ、盛岡では直ちに速やかにしかるべき機会をみて秋田へ攻め込む所存であると伝えたとされています。明らかに盛岡藩では仙台藩の脅威に屈した内容と遠野側では伝えられております。
7月27日、遂に楢山佐度率いる盛岡軍が鹿角口(秋田県鹿角市)へ進軍を開始、その数、2千名余、ついに西軍となっていた秋田久保田藩、佐竹家との戦争が開始されました。
秋田戦争と遠野
秋田戦争は遂に開始され、楢山佐度、向井蔵人に率いられた盛岡軍は鹿角方面と雫石方面から進撃、快進撃というべき強さを発揮して久保田藩北の要衝、大館城を攻略、南から秋田を攻める庄内、出羽諸藩、さらに仙台藩も北へ進撃となり、まさに秋田戦線は同盟側が有利な展開でありました。
さて、秋田戦争が開始されたが、遠野へは以後何の命令も来ない、盛岡藩軍の一翼を担う遠野軍という伝統があったにも関らず、ほとんど今度の戦争は無関係に近く、遠野武士達は寄るとさわると、不審ばかり語り合ってたと伝えられております。また遠野領主である殿様の南部弥六郎からはなんの連絡もなく、遠野武士達は心配したが、閉門中の盛岡遠野屋敷からひとりの武士が抜け出し、当主の弥六郎が秋田戦争に大反対したので、藩主から閉門を仰せ付けられ、一切の口出しを禁じられた。さらにこの度の戦には遠野軍は一兵も派兵されない・・・と伝えてきたので、遠野は騒然としたそうですが、それでも表向きはせっかくの功名を得る機会が失われて残念がった武士が多かったといわれています。しかし内心は戦に出なくて幸いと思うものが多く、盛岡藩が当事者となって戦っているにも関らず遠野は秋田戦争とは無縁で他人事、しかも遠い異国での戦争と感じていたとも伝えられています。
慶応4年、明治元年と改められ、稲刈りが始まっていた季節といわれますが、突然、盛岡遠野屋敷の南部弥六郎から、「敵は盛岡軍を各所で打ち破り、盛岡城下に迫りつつある、遠野勢は直ちに軍勢をうち揃え、急いで盛岡へ出陣せよ」の命令が発せられた。驚いたのは遠野武士達、遠野留守居役の重臣も驚いた。秋田戦争は他人事のような存在であったが、盛岡から伝えられる戦況は太平洋戦争ではないが、大本営発表みたいで、届けられる内容は勝戦ばかり、今頃は秋田城下か津軽境にでも殺到している頃か、と皆で話していた頃でもあり、快進撃の藩軍がうち破られ、しかも逆に藩都、盛岡が危ないなどという知らせはまさに青天の霹靂状態であったという。だが殿様である南部弥六郎の命令でもあるので速やかに総動員令を発して、総勢2百名余の遠野軍を編成して盛岡へ向けて出陣となる。当時、二百人の軍勢を編成、しかも遠野領内危うしの迎撃ではなく、盛岡への出向ではほとんど総動員規模の編成で、とにかく武士階級の者、ほとんどが組み入れられたと伝えられています。
出陣の際は家族、町人、百姓までが見送りしたといわれ、遠野軍の姿だけは勇ましく、厳しいものだったが、しかし本藩の負戦に出て行く出陣なので見送りの者達は涙をもって兵士達を見送ったとされています。
成年層の遠野家士ほとんどが出陣、遠野を守る留守部隊も必要で、留守家老、新田小十郎は、仕方なく町人、百姓まで徴兵、さらに12歳以上の武家子息も召集といった具合で、もし万が一、盛岡が破られ、遠野も攻められ篭城戦となったら会津白虎隊ではないが、遠野でも少年兵の悲劇があったかもしれません。
召集された者は守兵であるが、町人は兵糧集めに借り出され、遠くは海岸方面まで塩、干魚、海草の仕入れに出されたり火薬作りにも従事、百姓は兵糧集めの他、玄米、白米つくりの任、猟師は鉄砲の扱いに精通しているということで、特に重宝され広く領内全域から集められ、また女も多く借りだされ、上下の別なく交代で飯炊きとなり、召集された者ひとりも暇を持て余すことなく、戦となれば武士以上に領民、女子供まで大変なことでもありました。
さて、盛岡へ出陣した遠野軍は、盛岡に着けばすぐに迎撃態勢を整え、必死の覚悟で盛岡に向かったとされますが、いざっ盛岡城下に入ると、敵を迎え撃つどころか、盛岡城はひっそりと静まりかえり、城下も閑散としている状態、この時、既に盛岡藩は西軍に対して降伏を決定、藩主の南部利剛候は本丸を出て三の丸へ移り、門を堅く閉ざして閉居となると、家老首座の南部監物をはじめとする重臣達も各屋敷に閉居して登城せずの状態、まるで城は葬式でも出すような静けさだったといわれております。
閉門中の南部弥六郎は、藩主に代わって二ノ丸に入って一応、藩政に復帰、・・・といっても盛岡城と城下の取り締まりの任となって遠野軍をもって行うこととなり、遠野軍の武士達は、弥六郎が官軍の命によって後始末を仰せつかり、しかも遠野南部家は秋田戦争に加担しなかったということで官軍となったと思い込み、一層その取締りの任にも力が入ったといわれています。遠野軍の仕事は、まずは鹿角口や雫石口から敗戦となり続々と帰還する盛岡軍の藩士達を官軍に抗した反逆者として捕らえ、その身分によって自宅に閉居させたり、入牢させたりといった仕事で、盛岡藩士にすれば命がけで戦いに挑み、最後は惨めな負戦となり食うものも食えず命からがら帰還を果せば、ご苦労さんの一声もなく、有無をいわせず牢に押し込められたり、閉門となり、それらを得意となってこなしている遠野武士達を強く恨んだともいわれております。またその指図役は南部弥六郎ということで、国を売る裏切者、本家盛岡を横領せんとする逆心者と弥六郎を罵ると、そのやるせない不満は遠野武士達にも向けられ、盛岡武士達は遠野武士達を批難する態度もあり、遠野武士と盛岡武士、すなわち遠野士族、盛岡士族がしばらく仲たがいした原因でもあったといわれている。
南部弥六郎は皮肉にも敗戦の混乱にて再び藩政の中枢に東中務と共に帰り咲いたものでもあるが、間もなく、藩の重鎮として秋田戦争の責の一端は自分にもあるとして、職を辞して隠居という形で政治の表舞台から降りました。
遠野武士達は殿様である南部弥六郎が官軍となった今、遠野南部家は宗家盛岡南部家に代わって南部地方の領主になる、またはたいへんな加増となりいよいよ藩として独立となるに違いない、また遠野南部家が加増となれば家臣の自分達も加増となるといった取らぬ狸の皮算用が遠野武士の多くに蔓延していたとされています。後の歴史を知っている私達にすればなんとも世間知らずの面々か・・と思うことではありますが、現代社会のようにメディアが発達していたわけでもなく、瞬時に置かれている立場など知るすべもない、また気がついた時には時既に遅し・・・ですから天下の情勢がどうなのか、薩長がどんな考えで国作りを目指しているのか、そのようなことは知る由もない、自分達の足元ですらどうなるのかわからない時代でもあったと思われます。ですから自分達の都合の良いことばかり考え、良い方向になれることのみを願い、またそれらを信じることで明日への糧としていたと思われます。
敗戦の盛岡藩は賊軍の汚名を着せられ、楢山佐度は戦犯として江戸から改められた東京に護送され、藩主であった南部利剛、子の彦太郎利恭も東京に送られると、盛岡はかつての勤皇派、恭順派の天下となり、その頭目とされていた東中務が藩政の中心として復帰、藩主父子と共に東京に随行すると、盛岡での後始末は、南部弥六郎が総指揮をとって行われました。官軍からかつての配下であり、盛岡藩きっての勤皇派、今は官軍の幹部として盛岡入りした盛岡藩士、目時隆之進が協力者としてその任にあたりました。目時は楢山佐度と共に京都へ出向、勤皇の志があったと思われていた楢山佐度が京都にて同盟論者となったことで、佐渡を諌めると共に国許の南部弥六郎に事の次第を報告、目時も弥六郎も勤皇派であったことが伺われます。目時は佐渡の変心に絶望すると一子を連れて、大阪の宿から脱走し長州藩へ駆け込み、以来、官軍と幹部として奥羽の戊辰戦争に従軍、この度の故郷盛岡藩の戦後処理の任となったものです。
ところが南部弥六郎を以ってしても敗軍の藩士達は、亡国になった以上は城を枕に官軍と一戦に及びせめて美しく死花を咲かせることが武士の道・・・と言い出す輩もいて、反対にこれらを封じ込めようとする者達が相争い、敗戦の混乱に拍車をかける状態に陥ったこともあったそうです。弥六郎は盛岡藩が朝敵になったのは、楢山佐渡一派の心得違いが原因、南部利剛候やかつての重臣には何の罪もない、この上は皆で何事にも事を構えず恭順の姿勢でおれば、殿様も一般諸士にもお咎めはないものである。従って南部盛岡20万石もお咎めはないものと心得よ・・と藩士に説き廻ったので皆は一応におとなしくなったと伝えられています。
ところが新政府の盛岡藩への処分は、南部利剛の隠居、後継に南部利恭の藩主就任を許したが、減封の上、白石13万石へ移封という処分となった。一応に家名存続は叶ったが、先祖伝来の盛岡を捨てて、南とはいえ山中の白石(宮城県白石)への移封は、多くの藩士達には過酷なものであった。すなわち下級武士に至っては財産の放棄を意味し、まさに着の身着のまま状態での転居を意味し、さらに減封されたのであれば、自分達への配分がなくなる恐れもあり、何よりも旅費やその移動に掛かる労力はたいへんなものでもあり、一般藩士全員の転居はほとんど不可能な話でもありました。
盛岡藩士の憤慨と落胆はたいへんなもので、そのやりどころは戦後処理にあたっていた南部弥六郎と目時隆之進に向けられ、ふたりは我々を売って自らの栄心を計ったに違いないと口々に叫び、またもや盛岡は騒然とすると白石転移の打ち合わせ、手続きをして盛岡に帰国途中の目時は遂に盛岡に入ることができず、黒沢尻(岩手県北上市)の宿にて「尽忠報国」を血書して自刃という悲劇が起こる。こうなると南部弥六郎も盛岡にいつまでもいることも叶わず、後始末は東中務に任せて、自ら隠居、盛岡遠野屋敷も引き払い遠野へ帰国となりました。遠野武士達もこれに先立ち明治2年8月、全軍遠野へ引き揚げました。
混乱の中、時代の流れは否応なしに過去り、戦犯として楢山佐渡が処刑されると一応の戦後処理に区切りがつき、いよいよ白石移転が開始されると4千名の盛岡藩士は僅か2百人のみが白石に移転、残りの3千8百人は浪人となり、敗戦の戦後処分は一層藩士達に厳しく映るものであったが、間もなく盛岡復帰が認められ、それでも20万石に復帰ではなく13万石のままでの復帰で故郷に帰ることが出来ても日々の暮らしは一層厳しいものだったと伝えられています。
戦後の遠野
本藩盛岡南部家の敗戦、亡国、国替え、さらに復帰とめまぐるしく時の流れに翻弄され血なまこになって必死に生きようとする盛岡を尻目に、遠野は何の騒ぎもなく、対岸の火事的な思いでのん気に日々を送っていました。この時でも遠野武士達は南部弥六郎は官軍となったので、遠野への処分はなし、反対に遠野南部家が浮かびあがるに違いない、また盛岡本家は賊軍となったので白石への国替えは当然であるといった考えが大半を占めていたといわれています。また後になって白石から盛岡に復帰が叶えられるとその条件、70万両献金にて躍起になって金の工面に走りまわる盛岡武士達をあざ笑い、一文の金さえ用立てようとする者さえおりませんでした。
丁度その頃、遠野では動天箱が来るという噂が広まっておりました。動天箱とはびっくり箱のことですが、当時遠野ではとてつもない天地がひっくり返るようなことが起きるというものでしたが、最初は良い事が起こると互いに噂しており、いよいよ遠野南部家も官軍の命により、加増の内示でも受けるのか・・・ということでしたが、時が経つにつれ、嬉しいどころか恐ろしいものが入っていて、良くないことが起きるのではと変化していったとされています。その箱とは何か、いい歳した大人までも大真面目になって、それは木で作った箱だの、竹で編んだものとか、馬の背に乗せられて来るとか、仙台領に今はあって、もうすぐ気仙を抜けて遠野へ来るなどと本気で思っていたともいわれています。
動天箱は遂に来なかったが、動天箱の話が現実になりました。突如として官軍の半小隊、30名余りの戸田藩兵が鼓笛隊と共に遠野へ入ってきたそうです。無論、遠野の重臣達には前もっての知らせがあったのですが、一般家臣や領民達には知らせがなく、見たこともない姿の兵隊が隊列を組んで、聞いたこともない音楽と共に城下に入る光景はまさに動天箱の噂そのものでした。戸田藩兵は揃いの黒ラシャ軍服に革靴、見たこともない西洋式銃を肩に、大刀は背中に斜めに背負い、まるで異人でも見るような光景だったと伝えられています。
隊長は古橋金右衛門という人物で、白毛の被物で馬上にあり、この行軍を見ていた者の中には、いよいよ官軍に遠野も攻められると勘違いして、自宅へ帰ると荷造りをする者、手荷物だけ持参で家族を伴って在郷へ逃げ去るものと大騒ぎになったそうですが間もなく奉行所から戦いは終わり、城受け取りにきただけだから安心するように・・・という御布令が発せられ一応騒ぎは沈静化したということです。
官軍は威張ることはなく、暇をみつけては空地で楽隊の調練などをしていたと伝えられ、子供達は面白がって毎日見物に訪れたり、休憩時には子供達とじゃれあう姿もあってなかなか好印象だったようです。また調練では聞いたこともない号令が面白く、「スタンガー」といえば停止、「ハイガー」といえば歩き出すといったことで、子供達の間で流行りだし、訳のわからない号令を真似て遊んだと伝えられています。
さて、いよいよ鍋倉城明け渡しの打ち合わせも終了、明け渡しの前日、重臣達は末代までの恥とならぬようにと儀式は忠臣蔵の赤穂藩の型でとなり、城内は綺麗に掃き清められ、城内にあるべき品はその場にふさわしいものを飾り、または置き、とにかく整然としかも威厳を見せかける飾りとしていたが、その翌日、城受取の上使、古橋金右衛門を案内して登城したが、驚いたことに前日並べてあった品々がひとつもなくなっており、さらに障子、襖の類までもなくなっている、まるで空家同然の光景であり、この責任はどうするかで慌てふためき、一時は切腹を以ってお詫びするといった言動まで出たとされますが、古橋は少しも騒ぎ立てず、「まあ良い、人はいざとなればこんなものだ」と言うと笑って見過ごしてくれたそうです。
この品々を持ち去った犯人は後世まで見つからなかったとされています、おそらく身分の高い人物によるものと推測され、遠野でも身分の高い人物との思いもあり、遠慮して詮索しなかったといわれております。明治後年〜大正初年にかけてたまたまそのときの品と同一の物が出てきたりもしたそうですが、遂に犯人は誰なのかはわからず仕舞いだったようです。
城受取の戸田藩兵は間もなく遠野を離れたが、多くの町人が町外れまで見送る光景がみられ、帰りは全員、馬上の人となり歩兵隊が騎兵隊に変わっていたと後々まで噂されたそうです。
鍋倉城はその後、空き家となり明治4年、民間に払い下げられ破却されました。
盛岡藩が朝敵となり、白石へ減封の上、国替え、さらに盛岡復帰が成りましたが70万両というとてつもない金額が圧し掛かり、また岩手、紫波、和賀、花巻が下され13万石となり、以前の藩領では旧藩に属さない地域が出現しました。盛岡本家では、白石移転に伴い大半の藩士を浪人としましたが盛岡復帰となると献納金に拠金した者は改めて藩士として召抱え、それらを士籍に登録しましたが、遠野では先の秋田戦争では参戦せず、南部弥六郎は官軍に協力したので、白石転移の必要もない、さらに献納に応じる何ものもないという姿勢だったのです。
さて、明治3年、遠野は江刺県の管轄となりましたが、武士の俸禄は百姓から年貢として取り立てていたが、これからは一度、役所に納めたものを支給するといった制度に変わっていました。遠野侍達はこのことにより江刺県庁に扶持米を受け取りに行きましたが、役人から遠野武士達は盛岡士族ではない、したがって浪人であるので、俸禄はないと断られたとされている。慌てた遠野武士達は盛岡県、すなわち盛岡に交渉に出向くも、遠野はかつて盛岡南部家と共に行動しないばかりか、無関係を装っていた、今になって盛岡士族と同じ待遇にせよでは虫が良すぎる、またかつての盛岡藩と今とでは組織機構も違いがあり、なんの対処もできないと一蹴されたといわれています。この後、多方面に交渉、嘆願もしたが遂に士族とは認められず皆浪人となってしまいました。
明治4年、廃藩置県が実施され、武士階級の者達は職を失い、封建制度の幕切れでもありました。
多くの武士達には奉還禄といういわば退職金が支給されましたが、旧盛岡藩では、一石につき一円程度が支給されたそうですが、高禄の者より小禄の者の方が貰う率がよいように設定されていたようです。ところが遠野では南部弥六郎のみが7千両が支給されましたが、遠野家士達には何も支給されず、また士族という名称さえ与えられない現状でした。盛岡藩士は遠野では領主の南部弥六郎のみで、その家臣はいわば陪臣、陪臣は正規の家臣とは認められないというものだったようですが、しかし、維新での遠野武士達の姿勢から発せられた事務手続への無関心、時代錯誤といった事柄が強く、他家の陪臣はそれでも士族と認められたそうですが、遠野武士達は士族さえなれず仕舞いでした。
遠野武士達、その遺児達が士族と認められたのは、遠野南部家が明治25年男爵を下賜されたのをきっかけに嘆願運動の結果、士族となったものです。
参考図書
遠野南部家物語
新遠野物語・・・・・・吉田政吉著
遠野市史3、4
あとがき
今回は盛岡藩遠野南部家の幕末維新、戊辰戦争に関る内容をご紹介いたしましたが、まずは盛岡藩全体の戊辰戦争の流れ、そして本題である遠野南部家のことを記述いたしました。
一般的に紹介される盛岡藩側からの書籍ではなく、遠野南部家側からの言い伝えや関連書籍からご紹介いたしましたが、主に遠野南部家物語、新遠野物語を多用しております。著者の故、吉田先生は、大正時代半ば頃から遠野小学校の教員として奉職、遠野にあっては遠野南部家の研究第一人者で、しかも大正、昭和はじめに遠野南部家家臣の御子孫達から直接逸話などを収録(この時代、幕末、明治初期に少年時代を送った古老達も生存していた)この御子孫達が幼い頃、両親や祖父母達の姿を思い出したり、直接見聞きした内容も多く含まれ、真実性もあると思われる内容でもあります。
なお、「奥州虎猫舘」カテゴリー遠野南部氏物語と一山百文、共通の追加事項として両者にてご紹介いたしてますが、遠野南部家関連は遠野南部氏物語をまた戊辰戦争に関連する盛岡藩は一山百文を併せて御覧いただければ一部その内容がのみ込めるものと思われますので、ご参考までに御覧ください。