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楢山佐渡(ならやまさど)
天保2年5月〜明治2年6月(1831〜1869)
南部藩家老・楢山帯刀隆冀庶子。幼名茂太のちに五左衛門、佐渡。 母は栗屋川恵喜、叔母烈子は38代藩主南部利済側室、39代利義、40代利剛母。家禄1267石
22歳の若さにて藩加判列(家老)に任じられ、藩政改革に当たった。慶応4年(1868)奥羽越列藩同盟が結ばれると、主戦・恭順と真っ向から対立した藩論を同盟を脱退した秋田久保田藩討伐に一決し、自ら総大将となって秋田へ侵攻するも、ついに敗れ、反逆首謀の臣として責任を問われ、1869年、盛岡報恩寺で切腹の形はとられたが刎首した。享年39歳
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幕末盛岡藩
南部家(盛岡)第38代・盛岡第12代藩主、南部利済は、豪放な独裁者的君主で藩政を人任せにできるといった性格ではなく、企画性にすぐれ弁舌も達ち、さらに武断派であったといわれ重臣等の追随を許さなかったといわれている。
また沿岸防備と称して大砲を鋳造する一方で城の大奥に豪壮な三層楼を造営、城下の玄関口たる奥州街道筋に吉原を模した遊郭を設けて旅人を驚かせ、嘉永6年東北遊歴で盛岡を訪れていた吉田松陰をして「南部藩政は紊乱推して知るべし」と慨嘆させている。
当時、盛岡藩財政は北辺警備により火の車状態で、しかも利済の前後の見境もない政策によって窮迫の一途をたどっていたが、それでも利済の道楽は止む気配もなく、むしろ拍車をかけるように豪勢な広小路御殿、清水御殿の造営もなり、もはや常識を逸脱したものであった。
盛岡藩のみならず全国的な凶作がつづいた時勢にて特に天保年間の大飢饉は悲惨で領内各地で一揆が勃発、天保7年(1836)の一揆はこれまでの一揆の比ではなく、数千人の農民が盛岡城下に侵入し、暴動の様相を呈しため、藩当局は要求を容れる以外の策がなく窮地に陥ったといわれている。しかし、藩主利済は反省の色がなく、翌8年にも大一揆が起こり、その解決のため藩内豪商に御用金を申しつけ急場を凌ぐ有様だった。
藩主利済は、石原汀、田鎖左膳、川島杢左衛門の3名を若年寄として財政再建を担当させていたが3名とも奸曲のことが多く、利済の横暴を助長させることが多々みられ、その反対派を退けることに専念していた伝えられている。特に石原は利済生母の油御前の血縁であり、利済の寵臣である石原は利済横暴の片棒を担ぐ者として藩民の憎しみが強よいものがあった。
楢山佐渡17歳の弘化4年、三陸沿岸北部で起こった大一揆は、最も規模の大きな一揆で参加農民1万2千人にのぼり、沿岸各地を席捲、重臣達も藩主利済の隠居を願い、利済の世子で英才の誉れが高い南部利義に譲位を切望したが、3名の側近達に阻まれ、苦肉の策として南部一門、南部土佐を上席家老とし、表看板を替えたのみで現状維持を貫こうとしたとされる。
弘化4年の大一揆の痛手は大きいものであったという・・、藩当局は民意を尊重した形で新税を課すことを取り決めたが、この公約に反し理不尽な取立てを命じ、このことに対して農民の不満が一気に爆発、再度大規模な一揆となったが、この農民達は、隣藩仙台へ出稼ぎに出て、その労賃を以って支払うというもので、農民が大挙して仙台藩に移動されると盛岡藩の恥を天下に晒すこととなり、南部土佐はやむなく新税等12ヵ条の免除することで収拾を図るも、この騒動が幕府の知るところとなり、南部利済は病気退隠となり第13代藩主は南部利義が就任となる。
26歳の血気盛んな藩主をいただいた盛岡藩であったが、その期待と裏腹に、利義お国入りに際して前藩主、利済は利義との対面を避け、その後も何かと接触を避けたと伝えられ、城中の空気は前にも増して暗い空気が立ち込めた。また、利済は表向きは政務から退いていたが、南部土佐をはじめ石原、田鎖、川島といったかつての側近を側に置き、あきらかに院政が執り行われていたとされている。さらに英才の誉れ高いといわれた利義も日々、悶々とした生活の中で精神錯乱に及ぶといった行為が目立ちはじめ、遂に一年にして利義隠居となり藩主に弟の南部利剛が就任するに至る。
この隠居に関しては、利義自ら乱心を装ったとの説と石原一派が幕府へ虚偽の報告をした謀略との説が存在する。
第14代藩主、南部利剛は利義の実弟で父である利済に寵愛されていたという・・この時24歳、盛岡藩最後の藩主である。
藩父である南部利済の院政は、継続中であったが、江戸では若い藩士を中心に前藩主利義復権運動が密かに進行していたが、このことが発覚、その中心人物達は厳しい処罰が加えられ、身近に危険を感じた藩士達の脱藩が相次いだと伝えられている。そんな中、嘉永5年(1852)22歳の楢山佐渡は家老加判の命が下る。まさに家老職を代々継ぐことのできる家名とはいえ、この若さでの抜擢は異例とされたが、佐渡本人は地方の代官職となって農民の実情に触れてみたいとの希望があったとされ利済に上申したが容れられずやむなく家老加判列を拝命したとされる。
嘉永6年5月、弘化4年の大一揆をさらに組織化させ拡大した大一揆が勃発、先の一揆にての公約はまたもや藩当局によって別な形で徴収というものに代わり、農民の生活は破綻寸前であって3万5千という未曾有の大一揆に発展、またも三陸沿岸を席捲し、以前の一揆とは違う統率の取れた行動にて仙台藩への越訴するといった姿勢を示すと、遠野領主、南部弥六郎と共に楢山佐渡は登城して利済に面会を求め、石原等に拒まれたが、石原以下を厳しく叱りつけ、強引に利済に会い、農民を慰撫して一揆の仙台入りの阻止、石原、田鎖、川島の罷免を要求するも逆に南部弥六郎、楢山佐渡を解職するといった暴挙に出たとされている。
一揆勢は遂に仙台領へ越境、仙台藩に一揆勢を保護し幕府の裁断を仰ぐ旨を通報されると事の重大性に気付き南部弥六郎、楢山佐渡の両名の復職が成り、善後策を命じた。
佐渡は白装束で登城し、決死の覚悟で所信を披露し、しばしの間、藩政を一任されたい旨を言上すると利済は一も二もなくそれを受け入れたと伝えられている。
佐渡は直ちに仙台藩に幕府への届出を猶予いただく使者を発し、一揆勢の45名の首謀者受け取りに南部弥六郎が出張して、一揆は日本史に残る農民運動として終止符を打ち、盛岡藩の危機を救った功労者のひとりであるのは間違いがないものである。
東中務の登場
その後、今回の一揆に関して幕府がどうでるかが、楢山佐渡含め藩首脳の心配ではあったが、幸か不幸かペリーの黒船来港で幕府は大きく動揺した時期で、盛岡藩での一揆問題はうやむやになっていた。ただ外交問題で今回への沙汰がうやむやになったとしても、まずはその原因たる藩内政の立直しが急務であり、藩改革に若き人材、協力者が必要と考え、南部一族の東次郎(東中務)19歳を登用し、早速改革に取り組み、まずは主席家老、南部土佐を罷免、隠居、三奸の石原、田鎖、川島は家禄没収のうえ、追放の厳しい処分を課した。
この時に登用された人材は、新渡戸伝(新渡戸稲造祖父)、吉田松陰とも交遊があった江幡五郎(東洋史那智通世博士養父)等で門閥に関係なく登用し、大奥改革、遊郭の廃止、下級武士の救済とともに質素倹約につとめるといった藩政改革を断行する。
また幕府へは、先の一揆での申し開きをなし、安政6年2月、南部利済の下屋敷謹慎処分という寛大な裁定をひきだして事なきを得、その年の4月独断専横の南部利済が謹慎先で死去となりまた幕府から藩政改革の見返りとして5千両の貸下げがあって財政改革の足がかりとする目途がつくが、それでも利済時代の悪政によるつけは事のほか大きく、藩財政は未だに苦しいものがあり、そのことで東中務と、意見の対立がしばしばあったとされている。
東中務は、藩士の俸禄を借り上げべきと、かなり強硬な意見があったとされ、藩士の生活窮乏ぶりがわからなかったとも言われているが、まずは領民の範たる藩士がその犠牲となるべきとの考えで、一応正論ではあった。
楢山佐渡は、東とは正反対の考えで、武士の生活を苦しくすることで、一朝有事の際は動員力に欠け藩兵の士気にも関わる場面がある・・・というもので、ふたりの宿命的な意見対立をみたのである。佐渡は東を説得したが無駄に終わり、佐渡は東中務の意見を採用、全藩士に御用金を下げ渡した後、職を辞し袂を分かったとされる。
この頃、中央ではアメリカとの通商条約調印、攘夷運動激化、安政の大獄から桜田門外の変といった激動の時代へと移り行く時勢だった。
奥羽同盟の成立前夜
幕末での盛岡藩士の窮乏化は、佐渡の予測したとおり、日常での衣食にも困る者までいた。士気は急激に衰え、その頃、楢山佐渡は再び家老に復し、藩政改革の修正を行い大坂商人からの借り入れ金を以って財政を補い、藩士の御用金を廃止し東中務の後始末したが、ふたりの間には大きなしこりとして残る結果で、それが消えないまま幕末の動乱期を迎え、盛岡藩の転落への傾斜は、この時すでに始まっていたかもしれない。
藩政改革による楢山佐渡と東中務の対立は、政策論から感情的なものへと発展していったとされる。佐渡が家老に復職すれば東中務が降りる、東中務が要路に立てば、楢山佐渡が辞職するといった構図が楢山佐渡の死までつづいたとされている。
思想的には共に公武合体論であり、ただ僅かな相違は佐渡の方が若干幕府寄りだったということだけであるが、基本的な相違は殆どみられないとされる。ところが最後の決定的瞬間において、この対立は最も深刻化し救いがたいものとなり、奥羽越列藩同盟を裏切った(脱退)した秋田久保田藩を討つか否かで最悪な状態となった。
戊辰戦争の足音
慶応4年(1868)正月3日、徳川方の軍が鳥羽伏見にての戦いで敗れ、その戦いの場はしだいに関東、東北へと移って来るが、前年の10月には徳川慶喜が大政奉還をし、12月には王政復古の号令が発せられ、幕府は崩壊していた。
この鳥羽伏見の戦いが盛岡藩が知ったのは正月18日で、江戸家老、野々村真澄が江戸城へ出頭して、はじめてこの報がもたらされたものであった。
奥羽諸藩は動揺し、慶喜追討令、会津藩、松平容保の追討令が発せられると、盛岡藩のみならず奥羽の各藩では、世の中がどうなるのか、皆目見等もつかない状況の中、仙台藩に会津討伐の命令が下ると、つづいて米沢、久保田、盛岡各藩にも仙台藩と協力して会津討つべしとの命令が伝えられる。
この命令が朝廷から発せられた以上、楢山佐渡はためらうべきではないと判断し、早速出兵の準備にとりかかると仙台から使者が到着、会津討伐はしばらく形勢をみてからでも遅くない、出兵猶予の建白書を朝廷に発したので、その返事を以って今後、行動を共にしたい・・との意向であった。
伊達家仙台藩の考えは、かつて長州藩は禁門の変にて朝敵になりながらも寛大な措置がとられ、今や官軍となっている。徳川家とて同様であり、会津もまた然り・・それをあえて朝敵として討つことは、人心をして離反せしむるのみであるとのこととされている。しかし、仙台藩は、既に奥羽諸藩を一丸にまとめ反薩長同盟を結成することを考えていたともされ、楢山佐渡はこれらに対して、意図はわかるが朝命とあれば一旦兵を繰り出し、のちに建白するべきと回答して京都へ旅立ったとされている。京都は幕府の政権返上後、各藩兵によって守護されており、盛岡藩でもこの京都守護の任のため、楢山佐渡、用人目時隆之進、目付中島源蔵、佐々木直作に2百の藩兵が上洛した。
仙台藩の建白は無駄に終わり、奥羽鎮撫総督九条道孝、副総督沢為量、醍醐忠敬一行が慶応4年3月18日仙台入りすると、直ちに奥羽諸藩に会津、庄内討伐の命が下り、もはやこれに抗することはできなくなっていた。仙台藩も藩主伊達慶邦自ら藩兵を率いて出陣、各藩もそれに追随し、盛岡藩もかねてより準備の藩兵を三軍に分けて盛岡を出陣したと伝えられている。
盛岡軍は、仙台藩の動きに合わせるかのように、軍をゆっくり南下させていたが、一軍のみを先行させ、その藩兵が桑折に到達した時点にて、かねてより仙台、米沢藩による会津降伏の策が実り、会津藩が仙台藩に降伏歎願書を提出の報がもたらされると、進軍を停止させ、その嘆願書を総督府に取り次ぐため、奥羽列藩の会津助命の議を図るという会議を白石城において開催の旨の伝達を受けると、盛岡藩は野々村真澄を派遣するに至る。
しかし、この降伏嘆願書は総督府に一蹴され、この時より奥羽は戦火に巻き込まれる運命だったかもしれない。
明治初年の盛岡城
秋田戦争