| 盛岡藩落日の譜 |
| 戊辰戦争は政見の異同のみ・・・・原 敬 旧藩の一人 原 敬 大正6年9月8日、盛岡市の名刹・報恩寺境内にて盛岡藩(南部藩)の戊辰戦争殉難者五十年祭が挙行され、事実上の祭主は政友会総裁・原 敬であった。 祭神は戊辰戦争において盛岡藩の賊名を一身に背負ってこの寺の一室にて刎首した家老、楢山佐渡を筆頭に戊辰戦争最終章を鮮血で彩り、空しく「朝敵」の名の下に散った多くの盛岡藩士達である。 「政見の異同・・・」何の官軍、何の賊軍か、政治的見解が違っただけで、政見が相違しただけで「朝敵」呼ばわりなど全くもってのほかである・・・という意味合いである。 この祭文は、戊辰戦争50年を期して「賊」の烙印を押された者側の雪辱と報復の祭りであり、屈辱の歴史への決別を意味するものといわれている。 原敬は俳句を愛したといわれ号を「一山」と称した。薩長の権力者達が武力をもって制圧した東北諸藩を蔑み「白河以北一山百文」といっているのをあえて俳号としたものであったという・・・・薩長の輩がお手盛りの華族の椅子を奪い取って、足軽、郷士に等しい者までが侯爵、公爵、伯爵、子爵、男爵と連なっているのが猿芝居にみえたとされ、勝てば官軍、負ければ賊軍となるのは仕方ないものであるが、原敬にとってはこれらのことが不愉快のなにものでもなかったとされている。 原家は祖父、原直記の代まで盛岡藩家老加判であり、俸禄は維新時、220石。藩では上士の家柄である。武士は上流になればなるほど教養と日常の躾が厳しい、さらに自らを律することも厳しいものとされ、そこにエリートとしての将来の道が引かれている。この点は楢山佐渡にも共通するもので、後に平民宰相と呼ばれ、その生涯、無爵の大政治家として貫いたものには、薩長の軽輩達のように栄爵には飛びつかず、自身にはそのような飾りは必要ない、生まれながらの上級武士の出である自分には必要ないものであると考えていたとされる。 原敬14歳、盛岡藩の戊辰戦争が敗戦という形で終結する。賊軍となった藩は大幅減封の処分で白石に転封、既に父は亡く17歳の兄と母、そして姉、妹と共に家財道具を二束三文で売り白石に移るも住む家もない、ほどなくして盛岡復帰を認められて帰郷すれば家は荒れ果て、俸禄も22石余りと明日からの生活にも困窮する屈辱の毎日だったと伝えられている。 楢山佐渡処刑の朝、少年だった原敬は佐渡の最後の姿を人目見ようと幽閉されていた報恩寺の周囲を涙を浮かべながら歩いたといわれている。祖父も父も楢山佐渡とは極めて親しく生前付き合いがあったといわれ、楢山佐渡の死は原少年の心に復習を誓わせるには充分な出来事であり、かつ、近代人原敬の中に息づいていたに違いない。 |
| ねがわくば太平洋の橋とならん・・・・新渡戸稲造 稲造は明治維新を6歳で迎えたが、おそらく楢山佐渡を直接知らないものであろう・・・しかし祖父・新渡戸伝は佐渡とは大変親しく、また叔父、太田時敏(父十次郎の弟)は道場で直接佐渡から剣術の指南を受けたとされ、その人格にも傾倒していたと伝えられる。 叔父太田時敏は佐渡切腹の折、介錯人に名を連ねたとあるが処刑記録にはないものとされ、それでも稲造は叔父の言葉を信じ、そのためか武士の切腹には深い関心を持っており、明治32年英文で書かれた「武士道」にも佐渡の切腹に関わる何かの作為があったのではといわれている。 |
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原 敬 1856〜1921 盛岡藩士、原直冶二男、幼名健次郎 藩校作人館に学び、上京すると司法省学校を経て郵便報知新聞、大東日報、後に外務省入り。通商局長、外務次官まで昇進したが、1896(明治29)辞任して大阪毎日新聞主筆、社長となるも藩閥政府に反抗しながら陸奥宗光に傾倒。しかし藩閥打倒を念頭に置きながらも長州閥とも妥協し1900(明治33)政友会幹事長、総裁に就任、1918(大正7)ついに首相となる。 民衆からは平民宰相と歓迎されたが1921(大正10)11月東京駅で暗殺された。 |
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新渡戸稲造 1862〜1933 農学、法学博士、貴族院議員 盛岡藩士、新渡戸十次郎七男 1871(明治4)上京、1889(明治22)ドイツ留学後、東京英語学校から一転、札幌農学校に転じ、ここで国際人、合理主義、自由主義の基礎を培ったとされる。 1900年著作「武士道」は近世武士道の名を託して日本人の道義、倫理の根本を示すものとされ外国の指導者、知識者に影響を与えたもので、まさに「我太平洋の橋とならん」と言わしめた稲造の国際人としてのシンボルである。 1933(昭和8)カナダビクトリア市において死去。 |
| 南部利済 なんぶとしただ 1797〜1855 38代藩主 信濃守 利謹の子・剃髪して淨祐、還俗して三戸修理 歴代藩主の中でも性英敏にして画策に富み、武事海防に努めるも贅沢のかぎりも尽くしたとされ、飢饉等で藩財政難に拍車をかけたといわれ大規模な百姓一揆に見舞われ国は荒れる。1848年、隠居するもその発言力は絶大であったが、1855(安政2)江戸で没した。 |
| 南部利義 なんぶとしよし 1823〜1889 39代藩主 甲斐守 利済の長男として生まれ江戸屋敷住いであった。1848年父利済隠居を受けて藩主に就き、周囲からも英才の誉れ高い当主と期待があったが父利済は利義を近づけず、院政を布いていたため利義はしだいに疎外され、情緒不安定になったといわれ、僅か一年の在位で隠居。 |
| 南部利剛 なんぶとしひさ 1826〜1896 40代藩主 美濃守 利済の三男、1849(嘉永2年)兄である利義隠居により40代藩主となり、幕末の動乱、明治維新という時代的に困難な中、盛岡藩主として藩士達を指導するも1868年戊辰戦争にて奥羽越列藩同盟に加担、秋田戦争に踏み切り、盛岡藩は敗北、総督府に降伏嘆願書を奉呈し、江戸にて謹慎。同年隠居 |
| 南部利恭 なんぶとしゆき 1855〜1903 41代当主 伯爵 利剛長男、明治元年盛岡藩降伏後、父利剛と共に江戸にて謹慎。明治2年、家名再興により白石転封、白石藩知事、同年7月盛岡復帰が認められ盛岡藩知事となるも明治3年版籍奉還、辞任。 伯爵となり明治36年49歳で没 |
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| 明治2年6月23日未明、反逆首謀の罪にて藩の責任一切を背負った楢山佐渡は、盛岡報恩寺の一室にて切腹の形はとったとされるが、刎首の刑が執行される。介錯人は盛岡藩士、江釣子源吉23歳、戸田一心流の使い手で佐渡とは同門であり、江釣子源吉は藩きっての剣豪でもあった。 この日源吉は平服に白袴、白手甲の姿で佐渡の背後に立つと、「ご介錯を・・」と佐渡が首をさしだすと一刀のもとに首は転げ落ち、飛び散った鮮血は白幕を越えて蔭の襖まで飛んだと伝えられている。 源吉はすぐ様、蒼白となって控えの間に下がり俯伏して慟哭したと伝えられている。 秋田戦争では、佐渡の軍に従って青年藩士で編成された精鋭部隊、地儀隊に所属し、先祖伝来の愛刀、関孫六兼光を振りかざし、秋田兵を何人斬っても刃こぼれひとつしなかったといわれ、秋田兵10数名を斬り倒したと伝えられている。 秋田戦争が敗北となると敗戦の惨めさが身にしみり1ヶ月は全く外出しなかったとされ、佐渡が東京へ護送される前夜密かに佐渡を訪ね別れを告げたとされている。この時、駕籠を襲って佐渡奪還の企てがあったともいわれるが、佐渡に諌められたともいわれています。 源吉は佐渡亡き後、作人館の剣道教師として若い師弟の教育育成に携わるが、盛岡監獄に勤め死刑囚斬首の係りとなったとされ、多いときには1日27名も斬り、息切れひとつしなかったと伝えられるが、当時それほど多くの死刑囚が盛岡に居たとは思えず、源吉の剣の腕が凄かったかを物語る伝説だろうと思われます。また柔術、居合道、棒術、泳法も通じ武芸18般、すべて免許皆伝の腕前だったといわれています。 明治40年頃、東京警視庁警視総監が東京の南部邸を訪ね、江釣子源吉の神技を見たいのでなんとかならないか・・という話があったとされるが60歳を越えた源吉は、監獄暑勤め時代や秋田戦争にて自分が斬った者たちに手を合わせる静かな生活をしており、剣を捨てた身である旨を繰り返し、断ったとされている。それでは誰か推挙する人物はということで、知事部下の本堂平四郎なる人物を紹介、本堂は東京で見事な技を披露したと伝えられている。 大正2年、盛岡にて逝去67歳 楢山佐渡切腹の折、介錯を願い出たのは、秋田藩兵にでも介錯されたら佐渡殿も浮かばれまい・・との理由から買って出、介錯での手当金15両は直ちに返上したと伝えられている。 1846〜1913 |
| 中島源蔵 文政12(1829)〜慶応4(1868) 盛岡藩士・慶応4年楢山佐渡、目時隆之進と共に京都へ出張。しかし中島、目時の二名は楢山佐渡に一足遅れて出立、途中東征途上の西軍と神奈川辺りで接触を図り、奥羽諸藩の情勢を報告、盛岡藩はあくまでも朝命に従い行動することを誓ったとされている。 京都に入るとあくまでも佐渡を説得し、翻意させようと論議を戦わせたが佐渡は考えを変えることはなかった。そして佐渡は藩をあげて薩長と戦うべきとの結論を述べると、中島、目時両名はそれでも佐渡に食い下がる姿勢をみせたと伝えられ、6月4日、目時は京都藩邸を脱藩、中島は大坂へ佐渡等と移った6月8日夜半、切腹を企てる。腹を掻き切って、その血で行灯に「奸臣殺忠臣」の文字を書き、臓腑をつかみ出して投げつけると「佐渡を呼べ・・黒白を決したい」と必死の形相だったとされている。楢山佐渡が部屋に入ると「寄るな」と左足で足蹴にしようとしたが、思い直し、藩老に対する非礼を詫び、もう一度の考え直しを懇願したとされている。 佐渡は目に一杯の涙をもって「王事につくす気持ちは一緒だ、安らかに眠ってくれ・・」と言うと中島は静かに頷き、そのまま事切れたと伝えられている。 このことによっても佐渡の決心は変わらなかったとされるが、中島を思い、考えの相違はあったが、国を思う心は一緒であると言ってささやかな法要を営み、手厚く葬ったとされている。 |
| 目時隆之進 文政6(1823)〜明治2(1869) 慶応4年、中島源蔵と共に同盟反対論者であった目時は、6月8日息子を伴って京都藩邸を出奔、長州藩邸へ逃げ込んだとされている。 その後、秋田戦争において、目時は西軍東北遊撃軍器械方の幹部将兵として加わっていたとされている。 たとえ、互いの意見の相違が招いた結果での出奔でも佐渡は目時の安否を気遣い、憂国の士と信じていた目時が、盛岡藩兵が苦戦を強いられている最中、敵軍として現したことには流石に憤慨したと伝えられている。 いかに目時には勤皇という大義名分があろうと、一方では同郷の士が弾丸雨霰の中、それを討つ側の幹部としてその戦陣にあるということは武士にあるまじき行為で釈明できるものではなかった。 目時は盛岡藩降伏後、再び帰藩して新政府によってその戦後処理の執政に任命されたが「売国の徒」のそしりは免れず、現北上市の宿にて「人生朝露の如し、誰か百年の期せんや」と遺言して白壁に「報国」の二文字を血書して自刃して果てた。 目時は若くして陽明学を学び水戸学の藤田幽谷、東湖、橋本左内に傾倒したとされ、早くから勤皇の志があったことが伺われる。しかし盛岡藩では守旧的な雰囲気が多数であり、その中では目時のような思想は育たなかったともいわれている。 |