盛岡藩落日の譜・盛岡藩と楢山佐渡
岩手山(南部片富士) と北上川
南部盛岡は、うづくすう(美しい)国でがんす・・・・
楢山佐渡暁暗に散る
明治元年10月9日、諸道の西軍が続々と盛岡入りし、翌10日、正式に盛岡城開城が行われ、楢山佐渡は戦線から帰陣するや禁固を申し付けられ、反対に謹慎中の東中務が幽閉を解かれて筆頭家老に就任、その後の戦後処理にあたることになる。

11月8日、新政府から監察使藤川能登が兵七百を率いて盛岡到着、藩主南部利剛と後継彦太郎(14歳)、さらに奸徒重罪の者として楢山佐渡、佐々木直作、江幡五郎を東京に護送することが決定され、藩主父子には正義勤皇の家臣31名の随役が許されたがその大部分は反同盟論者だったとされている。
11月10日頃、藩主父子、楢山佐渡含め3名は相次いで盛岡を出発、二度と盛岡の土を踏めないだろうと覚悟していたとされ、遠く仰ぎ見る秀峰岩手山の姿を瞼に焼き付け故郷を後にした。
東京に到着した藩主一行は盛岡藩邸に入ることが許されず、菩提寺で芝の金地院に送られ、その日から厳重な監視下に置かれ幽閉生活となった。佐渡一行は一旦新庄藩邸に身柄を預けられるがその後、金地院に送られるも藩主父子とは顔を合わすことなく、謹慎して沙汰待ちの日々を送る。

その後、新政府からの沙汰で南部利剛は領地召し上げ、隠居謹慎、その子彦太郎(南部利恭)に旧伊達領岩代国白石13万石への転封の命令が出され、20万石から7万石の減、この沙汰を素直に受け入れるしか盛岡藩のとる道はないものだった。

楢山佐渡等3名は、そのまま金地院にとめ置かれたが、取調べというものはなく、翌春、佐々木、江幡の両名は禁固を解かれるが、その頃から楢山佐渡の尋問が開始されるも形ばかりのものだったとされ、楢山佐渡は、「首謀者は自分ひとりのみで他にあらず、兵は自分の一存で進めたもの」と終始答え、それ以上多くを語らなかったとされる。
5月14日、軍務局より藩邸に対して楢山佐渡、反逆首謀者として刎首刑と沙汰がされた。文字通り首を刎ねるという内容で、楢山佐渡にその旨が伝えられると「有り難くお受けいたします」と笑みと共に答えたと伝えられている。何よりも藩主父子に難が及ばなかったことに安堵したのが嬉しかったのではと・・・伝えられている。

藩邸では軍務局に書面を提出「佐渡は天地に容るべからず大罪の者なれば、家中一同の向後の戒めとも致したく、盛岡で処刑致したい」との内容で、軍務局よりの許可をとりつけ、これは盛岡藩当局の計らいで、中でも政敵であった東中務の温情ともいわれ、もう一度故郷盛岡の地を踏ませてから死なせてやりたいとの思いからともいわれている。
明治2年5月22日東京を出発、6月7日夕刻盛岡到着、すぐに幽閉の場所、報恩寺に入るが警備は厳重であったが、佐渡の顔を人目見ようと多くの人が沿道に立って駕籠を見送り、その顔は誰もが涙し、多くのものがその後を追うといった光景がみられたと伝えられ、沿道警備の役人もそれを制止しなかったとされ、盛岡の人々は反逆者楢山佐渡を恨むといったことはなく、ただ悲劇のヒーローとして迎えたものと伝えられている。

6月21日、軍当局から監察へ「明後、寅刻、処刑する、ただし切腹の形式をとるから用意のこと」の命令が下った。
切腹の形式はかねてより佐渡が願い出ていたものであったという、切腹であれば武士の面目がたち、最後まで武士として死にたいという佐渡の願いは届けられたことになる。

明治2年6月23日寅の刻(午前4時) 司刑局権督務官が「大義順逆をわきまえず・・・反逆首謀につき刎首」の罪状書を読み終わると、佐渡は一同に礼を行い、ゆっくりと切腹の作法に則り短刀を腹に突き立て「御介錯を」と首を差し出すと介錯人江釣子源吉によって首が刎ねられた。

   花は咲く   
        柳はもゆる春の夜に
                うつらぬものは  武士の道

明治2年6月23日享年39歳

上記の辞世から感ずるものは、佐渡は武士社会の崩壊を感じとっていたかもしれない・・・自身は去り行く武士世界の終わりを感じつつ、最後の武士として、潔く散ること・・・正に最後の武士にふさわしいものである。


墓は南部氏菩提寺の聖寿寺(盛岡市北山二丁目)・・・墓石建立は家名再興が許された明治22年であった。
東中務の奔走
楢山佐渡が藩の責を一身に負い刎首の刑になってもなお、明治新政府からの盛岡藩への処罰は、20万石から7万石の減、13万石にて白石(現宮城県白石市・旧仙台藩領)への移封という処分と7万両の賠償金という厳しい内容であった。
家臣の多くは家財を二束三文で売り払い50里の道のりをみすぼらしい姿で白石に向かったとされている。また後に盛岡復帰が認められ懐かしい故郷に帰ってみれば家は西軍に荒らされ見る影もない姿となっていた家もあり、故郷に戻ったとはいえ絶望感が漂うものと伝えられている。
この盛岡藩の戦後処理に奔走したのは、楢山佐渡の政敵とされていた東中務であった。東は敗戦後直ちに筆頭家老に就くや、護送される藩主南部利剛に従って上京、白石転封の処分後も南部利剛の謹慎処分が解かれない現実を見、利剛の義弟、鳥取藩主、池田慶徳を通じて長州出身の朝廷参与広沢真臣に接近し、なんとか藩の謝罪文を提出、さらに確実な謝罪の実績を築くため利剛の娘、郁姫と華頂宮博経親王との婚約成立という奇策を実現させ、南部利剛を宮中縁戚という立場に押上げたことにより、利剛の朝敵の汚名はウヤムヤとなると、明治2年7月南部利恭は白石から旧領盛岡帰参が許され、9月には南部利剛の謹慎も解かれ11月には盛岡帰参が許されるといった離業を成功させる。
もっともこの工作の裏には婚姻にかかる経費5万両、盛岡復帰に70万両という大金が絡んでいるもので、ことに70万両の献金は大きな負担であり、明治2年11月、大参事に就任するや70万両捻出に奔走するもほとんど不可能に近い金額であったといわれている。
明治3年7月、東は藩そのものを新政府へ返上するといった考えを披露、厳密にいえば藩を売るといったものであったが大多数の藩士は、戊辰戦争以前からの藩財政悪化、生活困窮、さらに戊辰戦争による移封と復帰、さらに70万両の負担と藩そのものがお荷物に感じていたとされ、明治4年の廃藩置県に先立ち藩を新政府に返還し盛岡藩は事実上消滅するに至る。

東 中務(東 次郎)
天保6年〜明治45年(1835〜1912)
南部家一門高知衆、東家は準一門で三千石であったが一時家が途絶えた時期があって再興してから千石、次郎の父、政博は格式を重んずる武士であったと伝えられ、ある時、格式を軽んじられたことで切腹により藩主へ訴える行為に及び、家禄没収の憂き目となるが、東家の由緒にて三百五十石で家名再興となる。

14歳で藩主利義の小姓、19歳で家老となり藩政改革に尽力、楢山佐渡と入れ替わるように罷免、任用を繰り返し、戊辰戦争敗戦時、三度起用され盛岡藩庁大参事となり敗戦の盛岡復興に尽力、明治16年外務省出仕、清国チーフ(中国煙台)領事となり明治19年退官、以後東京に暮らし、大陸に夢を託す青年達の良き相談相手として晩年をおくったとされている。
  戻  る    トップへ戻る   次  へ
楢山佐渡論と人物伝
盛岡藩トップへ