奥羽越列藩同盟と戊辰戦争(秋田戦争)

奥羽列藩同盟
奥羽鎮撫総督府参謀、世良修蔵が仙台藩士によって斬られると、奥羽情勢は一気にきな臭い方向へ突き進むことになる。
奥羽諸藩は新たなる情勢に対処すべく、各藩の重臣が再び白石に集結、同じ状況下の北越諸藩も参加に至り、盟約の決議をあげ、ここに奥羽越列藩同盟が成立。この同盟は諸藩の運命共同体の性格をもったものであるが、さらに同盟公議府を白石城に設置すると共に公議府には輪王寺宮を盟主として迎え、旧老中板倉勝静、小笠原長行等旧幕府要職に居た者、奥羽雄藩の藩主達がそれぞれ役付けに就任し、その趣意書を総督府に提出、和戦両様の体制といわれるが攻守同盟の意味合いと併せて奥羽越諸藩による自治政府というべき考えがあったことは明らかである。
しかし、奥羽越同盟と公議府は表裏一体とはいえ、目前に西軍の侵攻が迫っている段階では、いわば幻の東北政府という現実があり、構想自体も未熟であったといわれている。この時点では薩長は偽りの勅命を奉じ私恨を報ずる奸謀であるというもので、これら西軍を討伐するということのみで士気が高まっていたことは否めない。
久保田藩同盟離脱と盛岡藩の動向
奥羽越列藩同盟によって仙台における総督府の行動は封ぜられていたが、仙台藩の空気も冷却方向へと移行、これらに対して東征大総督府は九条総督の身柄確保を画策して肥前、小倉の兵、約1千3百を仙台へ派遣、九条総督と接触を図った肥前、小倉の藩兵を率いた前山精一郎は盛岡藩への転陣を図り、仙台藩とのトラブルが若干生じたとされるが、平和的に仙台を発し6月3日盛岡入りしている。
盛岡入りした九条総督一行を藩主、南部利剛は大雨の中、自ら城外の惣門まで出迎え、表向きは藩をあげて歓待し、朝廷に対し叛意のないことを誓い軍資金1万両を献上した。
盛岡藩は、いわばこの時点において同盟離脱の絶好の機会ではあったが、まだ藩論が統一をみない盛岡藩を見限り九条総督一行は滞在僅か20日余りで同月24日秋田へ進発する。
九条総督の秋田入りで、久保田藩は色めき立ったとされ、同盟の盟約を守り総督の秋田入りを拒否すべきの意見と総督を迎え勤皇の大義に撤するべきとの藩論が二分したが、仙台藩は久保田藩の態度急変を阻止する目的で10数名の使者を送るが既に藩論は同盟離脱に傾いており仙台藩士は久保田藩の青年藩士に襲われ命を失う事態に至った。この時、九条総督に従って同行していた盛岡藩士1名も、たまたま仙台藩士と同じ宿舎にいたところを誤って斬られ、盛岡藩は憤慨したとされ、強硬論が大勢を占めたとされている。
すぐさま、仙台藩からの使者が盛岡入り、秋田討伐の指令が下されるが、同時に秋田の総督府からは庄内藩討伐の命が飛び込んでくる。
慶応4年7月3日、盛岡城菊の間において、大評定が開かれ、大激論が繰り広げられ「朝廷に叛意をいだくものではないが、秋田を攻め、同盟の力を示すべき・・・」との主張と「同盟盟主たる仙台、米沢は軽率であり、いかなる理由があったにせよ総督府参謀を斬ったことは不当である。秋田を助けて庄内藩を討つことは勅命に等しい・・・」との主張どちらも譲らず、その他少数意見「伊達(仙台)は大藩、佐竹(秋田)は小藩、秋田との境は険阻であるから秋田からの来攻は難しい、しかし伊達とは和賀川を境としているから危険である。伊達は敵にせぬ方がよい・・・」との現実的で消極的な意見もだされたとされている。
論議はつづくも結論はでることはなかった。同盟論がやや優勢ではあったが、反同盟論を蔭で指導していたのは幽閉中の東中務とされ、藩主に一書を呈して、同盟離脱を諭したとされるが主張は用いられることはなかった。これらの結論は京都の楢山佐渡の帰国を待つことになる。
楢山佐渡の帰国
京都にあった楢山佐渡は、次第に新政府に対して懐疑的に変化していったとされている。それは公卿はともかく、その中枢部にある薩長の下級武士達の粗暴なふるまいを目のあたりにし、この成り上がり者達に日本の政治を委ねていいものか・・・すべての命令は朝廷の名で出されているものの、その実はこれら成り上がり者がとり仕切り、しかも日本という大きな立場ではなく薩長藩閥ともとれる新たな同盟により、それを基底に変革をしているにすぎないこと、彼らの感情が大きく作用していると感じたものと伝えられている。日増しに薩長を中心とした新政府への疑問が強くなる中、楢山佐渡に随伴していた藩士達もその考えに同調していくが、用人目時隆之進と目付中島源蔵は楢山佐渡の考えに憂慮していたとされる。
国許から藩主南部利剛の使者が到着、奥羽越列藩同盟の成立、その後の奥羽情勢、藩の実情を受けると、同盟を護り、藩をあげて薩長の私恨と戦うべきとの結論を述べるが、目時、中島は「奥羽越同盟を以って勤皇とするのは間違いであり、大義名分は薩長側にある。これに抗することは藩滅亡を意味するものと・・」一歩も譲らず、その後楢山佐渡は多くを語らなかったとされるが、両名の処断を考えていたともされている。
慶応4年6月4日、目時隆之進は息子と共に同志中島にも無断で、盛岡藩邸を脱し、長州藩邸に身を投じたとされる。
楢山佐渡と一部重臣は、帰国の途につくため大坂の藩仮屋敷へ移動、中島も加わっていたが、6月8日夜半、「奸臣殺忠臣」の文字を書き、切腹を企て、楢山佐渡に命に代えて今一度の再考を訴えながら死亡するに至る。しかし、この悲惨な部下の死を以っても楢山佐渡の決心は変わらず、海路帰国の途につき、仙台に上陸、大部分の随行者は、そのまま盛岡に直行させ自らは仙台藩家老、但木土佐と会見、「奥羽同盟の一角すでに崩れたが、我々は一蓮托生・・」と互いの決意を確かめ合って帰途についたと伝えられている。
7月16日、盛岡に帰国。自邸に入ると同盟論者の向井蔵人を招いて、城中での評定の顛末を聞き、反同盟派を蔭で指導する東中務の監視を厳命し、佐渡と中務は完全に政敵となっていた。その日の夕刻、楢山佐渡を迎えて城中菊の間において御前会議が行われ、秋田出張から帰国した遠山礼蔵の報告を聞き、遠山は、秋田情勢は庄内藩が苦戦であり、秋田に援兵を出し庄内藩を討つべし・・と意見を述べている。その後、論議は秋田討伐の可否をめぐって紛糾したが楢山佐渡は一同の論議を聞くだけで終始無言でいたとされ、論議が出尽くしたとみるや、自ら感じた京都情勢を披露、さらに直ちに秋田討伐に踏み切るべきとの意見を発したとされ、語気はきわめて柔らかく、しかし反論を許さぬ一種の殺気さえ感じるものだったと伝えられている。
正に鶴の一声の感があるが、藩論は決定され、直ちに秋田討伐の準備が全藩に布告されその準備にとりかかるよう命令が下された。

奥羽鎮撫総督府の印
盛岡藩戊辰戦争 怒涛の秋田進撃
慶応4年7月26日、秋田進撃の準備は整い、翌27日総勢約1千6百名の盛岡軍は楢山佐渡自ら総大将となり向井蔵人と共に各約6百余の藩兵を率いて秋田との国境、鹿角口へ向けて出陣する。
鹿角にての盛岡軍配置状況
十二所口・・・・花輪給人隊一番手約2百余人、昭武隊一小隊、発機隊三小隊、鳥蛇隊一小隊、大砲隊、以上楢山佐渡指揮約550余人
別所口・・・・花輪給人隊二番手約150余人、新番組・石亀左司馬、地儀隊渡辺萬冶・計約2百余名
葛原口・・・・毛馬内給人隊約1百名、昭武隊、発機隊、鳥蛇隊、大砲隊、以上向井蔵人指揮370余人・他に桜庭祐橘天象隊、桜庭手兵、計約230余人 合計610余人
大葛口・・・・雫石口より転進した発機隊、方円隊各一小隊 約2百余名
新沢口・・・・地儀隊足沢内記、三浦五郎右衛門隊 約331名・・・津軽口警備隊
後備・・・・・弘前(津軽)藩抑え・・南部監物手勢42名、農兵百余名
花輪残留・・・南部吉兵衛手勢260名
8月8日、鹿角口の国境に軍を進めた盛岡軍は、久保田藩十二所館の守将、茂木筑後に対して「九条総督、秋田転陣後の庄内再討伐命令は庄内藩に私怨をいだく薩長の意思によるもので総督の意思ではない。貴藩はこれに同意し、奥羽同盟に離反するに至ったが、我藩はその問罪のために軍を進めた。しかし、貴藩とは旧来隣好の関係にあるから、今干戈を交うることは遺憾の極みである。願わくは真の勤皇のため翻意されたい」との書状を送り、盛岡藩の国境への進出についてはっきりと秋田久保田藩へ伝えられとされている。十二所(現大館市)館の茂木筑後は翌朝早く久保田本城へ使者を発し、本城からの指示があり次第回答するとの返事であったが、十二所の守りは薄く三百余りの守備兵力で、藩境の三哲山に陣地を構築し盛岡軍への備えに必死だったと伝えられている。
秋田久保田藩では、盛岡軍進撃の報に驚愕したといわれている。藩兵の主力は庄内藩討伐のため南戦線に投入されており、手薄な北部方面からまさか盛岡藩兵が進撃を試み、またここまでの決意があったとは予想もしていなかったともいわれています。久保田藩は盛岡藩国境に進撃の報をうけてから軍議を重ねたが良策はなく、ついに楢山佐渡率いる盛岡軍は怒涛の如く秋田領内へ進撃、戦闘僅か三時間、秋田勢は自ら十二所館に火を放つと退却、盛岡軍はこの地を前線基地と定め、高札をたて領民に布告し、人心不安の一掃を図ったとされている。
1日全軍の休養を図った翌8月11日、進撃を開始し秋田兵の残党を排除しながら大滝を経由して米代川沿いの扇田(現比内町)に進み、迎撃にでた秋田藩兵と激戦が繰り広げられ、一度占領した扇田は茂木筑後率いる秋田兵が12日未明の奇襲攻撃で奪還すると同日には盛岡藩兵が再度占領するといった激しい戦いだったと伝えられている。以後10日間の激戦が繰り広げられるが盛岡軍は北方の長木川渓谷からも別隊が進撃すると一気に盛岡軍有利となり21日の大館南方の山王台日吉神社や郊外の激戦を制した盛岡軍が大館城を陥落させた。
怒涛の快進撃の盛岡軍は米代川沿いを羽州街道目指して西進、その一隊は荷上場(現二ツ井町)へ達するものだったが、8月末、秋田南戦線は庄内、仙台藩を主力とする同盟軍に秋田軍は苦戦を強いられ、さらに北部戦線でも盛岡軍の進撃を許し、秋田危うしの報にて肥前、島原、大村、平戸、薩摩、筑前、松江の諸藩兵が海路秋田へ暫時上陸すると、快進撃の同盟軍は近代火器装備の優秀な西軍に進撃を阻止され、北部戦線では、肥前佐賀藩兵約5百が秋田藩兵を後押すると、たちまち盛岡軍は苦戦に陥り、特に佐賀藩のアームストロング砲は周囲の山々に轟音こだまし、凄まじい破壊力をみせつけられ盛岡藩兵を驚愕させたと伝えられている。さらに小銃でもその差が歴然と出、流石の楢山佐渡の作戦も微塵にも砕け散るものであったという・・。8月27日、荷上場にて羽州街道方面へ接近中の盛岡藩は散々に敗れ、29日西軍の総攻撃がはじまり、盛岡軍は各地で敗退、来た道を押し戻され、さらに9月5日には弘前藩の援軍も西軍に合流すると翌6日、大館城は西軍に落とされ、7日盛岡軍は三哲山まで敗走するに至る。
盛岡軍は9月19日盛岡藩より西軍の本営に休戦の申し入れが行われたが、楢山佐渡指揮の盛岡軍は翌20日未明を期して総反撃を試みるも多大な損害を被り撤退、藩兵の士気も著しく減退したとされ、盛岡からの急使が到着するとはじめて停戦の事実を知ると諸将を集めて軍議を開き22日、十二所の西軍本営に停戦を申し入れ、直ちに軍は撤兵するに至る。
この時、楢山佐渡は「もはやこれ以上、藩公の意思に逆らっては徒らに戦闘をつづけることはできない。我々が戦った真の目的は薩長の新政府は勤皇にあらず、奥羽同盟こそ真の勤皇であると信じたからである。今や諸士の善戦も空しく、優勢なる敵の西洋兵器と大軍に抗し得ず、戦いは敗れた。しかし我々の存念だけは後世、必ず明らかにされるであろう、それを私は信じたい・・・」と血涙をしぼった挨拶をしたと伝えられ、一同号泣に堪えず・・の場面でもあったといわれている。
雫石口の攻防
8月28日、盛岡藩兵の別隊2百名余は、国見峠を越えて生保内(現田沢湖町)を攻撃、しかし僅か80人余りの秋田兵に逆襲されて撃退され、その後、9月28日、既に降伏は決定されていたが、長崎振遠隊の西軍が来襲、現雫石町橋場地区まで進撃を受け、盛岡側が只今降伏手続中の旨を伝えるもかまわず攻撃を受け、やむなく反撃、双方大砲の撃合いの後、盛岡藩兵が後退、西軍は翌29日には雫石まで進出、現実には降伏が成っていた盛岡藩はこの戦いで反撃を試みたことにより多少なりとも戦後処分に上乗せさせられたとの声もなきにしもあらず・・・・。
野辺地戦争
9月23日未明、既に降伏の意思を示していた盛岡藩領野辺地港(現青森県野辺地)へ突如として弘前藩兵が攻撃を仕掛けてきたとされている。夏泊半島の東側、野辺地湾に面した平内町狩場沢というところは弘前藩番所があり、二本股川を挟んで野辺地町馬門には盛岡藩番所があってこの小さな二本股川が藩境でもあった。
弘前軍は馬門集落を焼き払い野辺地へ迫ったとされるが、盛岡藩は八戸藩兵とともに守備していたが一旦は退却するも反撃に転じ炎に浮かびあがった弘前兵は格好の標的となり29名が戦死(43名説有)の大敗となり撤退。
さらに25日にも碇ヶ関を越えて盛岡藩領に侵入、濁川集落(秋田県小坂町)を焼き払うという行為に及んだ。
この戦いは私戦とみなされその後の処分には影響なきものとされたが、降伏決定後の弘前藩の盛岡に対する攻撃は新政府側として実績づくりとの説も存在しているが、この攻撃は以前から鎮撫総督府からの指示によるものともいわれている。
結局、9月25日、奥羽同盟の盟約に従い、最後まで抗戦した盛岡藩は、賊徒として朝敵の烙印をおされて降伏する。
戊辰戦争での盛岡藩兵戦死者約130名
大砲186門、和洋銃6638挺、大小弾丸10918発、なお大砲はその他地方に配したものを合わせると323門という多数であった。
盛岡藩の参戦には二つの謎があるとされている。ひとつは同盟軍白河敗退、いわき平落城、越後でも長岡藩をはじめ同盟軍の敗色濃厚となった時期での参戦。もうひとつは秋田進撃に関しては秋田への最短距離である雫石口から田沢湖方面(現国道46号線)のルートを使わなかったのかである。
楢山佐渡は、京都時代、西郷隆盛が部下達と車座になって牛鍋を突き合う光景を目撃したと伝えられ、何よりも武士の格式を重んじる佐渡には傍若無人の振る舞いに映り、日本の将来を彼らに託すということには激しい憤りが芽生えていたのではないかといわれています。
佐渡は、公武合体論者で家柄のよい環境で育ち、しかも潔癖でやや窮屈過ぎる性格だったとも伝えられております。
雫石口からの進撃ではなく、北の鹿角口からの進撃について、大山柏(大山巌の弟)は長年の確執があった弘前(津軽)藩攻撃が本来の目的ではなかったか?とありますが、この時代になって津軽を討たねばならない理由はないものであり、あるとすれば日和見態度の弘前藩への牽制という観点が考えられますが、南戦線で快進撃をつづける庄内軍と歩調を合わせたかのような内容にて秋田は庄内へ任し、盛岡は北上して津軽を攻めるといった構図に発展もいたしますが、盛岡軍と庄内軍は歩調こそ合致しておりましたが、結果的なものであって常に連絡体制維持がなされていたかは疑問である。
もし互いの連携連絡が確たるものがあれば、角館を南北から攻めるといった作戦展開もあり、秋田での戦いは同盟軍勝利の公算が強いものである。しかし史実としては共同作戦は行われていない。