戊辰戦争東北紀行 P3
盛岡・鹿角・大館方面
2005年10月
 平成17年10月28日(金)、戊辰の役での秋田戦争の舞台となった秋田県鹿角市、大館市方面の探訪を実施、さらにこれに先立ち、同年10月初めに盛岡市北山にある聖寿禅寺及び盛岡藩老、楢山佐渡の墓所を参拝、秋田戦争鹿角口から久保田藩へ攻め入った盛岡藩軍の足跡及びゆかりの地を訪ねた内容をご紹介いたします。

 なお、同行者は盛岡市在住HN・BADさん(僧籍)とふたり旅であり、墓所等ではお経を唱え、戦没者の慰霊を行いましたことを申し添えます。
 さらに大館方面もいくつかの史跡等の探訪予定ではありましたが、事前準備不足、情報不足により、訪ねることができなかった場所があり、次回の大館〜能代方面探訪にてあらためまして、再訪する所存でもあります。

左画像・・盛岡城跡(現岩手公園)
右画像・・北上川と夕顔瀬橋(あいにく曇っていて岩手山は望めず)

 慶応4年7月、京都から帰国した藩老楢山佐渡は、盛岡城菊ノ間における御前会議で、同盟を離脱した秋田久保田藩を討つべし・・を主張、同月27日、自ら総大将となって藩主南部利剛候の見送りを受けて1千6百余りの盛岡藩兵の精鋭が盛岡城から出陣したといわれている。
 この出陣風景は威風堂々とし、華やかなものだったと伝えられている。

 画像上・鹿角市花輪 長年寺と同寺墓所内の盛岡藩士戦没者墓地27基
 画像下・鹿角市花輪 恩徳寺と同寺墓所内の盛岡藩士戦没者墓地16基 
 
 両寺は隣接しており、墓所もつながっている。

鹿角市毛馬内 仁叟寺境内の戊辰戦没者の碑

かつては13名が葬られていたが、墓石の風化等で碑を建立して合葬。

なお、秋田戦争鹿角、大館戦線での盛岡藩兵の戦死者は130名余りとされている。

左画像・三哲山と米代川(旧秋田領側から)     
右画像・十二所と米代川

 三哲山と十二所

 楢山佐渡は8月8日、秋田領十二所館の守将、茂木筑後へ戦書を送付、久保田藩の同盟離脱を問責すると共に秋田領への宣戦を布告すると翌9日、盛岡軍が一斉に進撃開始、十二所の守りは茂木筑後を守将とする3百余り、藩境の三哲山に布陣したものの、多勢無勢、十二所館に自ら火を放って秋田勢は敗走。
 
米代川沿いに進撃をする楢山佐渡率いる盛岡藩軍の主力は、8月11日比内扇田神明社(現大館市比内・旧比内町扇田)に到達し、陣所を敷いたが、12日未明、茂木筑後率いる秋田勢が来襲、扇田は秋田勢に奪還されるも、20日には盛岡藩軍の逆襲にて扇田を再占領、激戦だったと伝えられる。
 
 21日、盛岡藩軍は進撃開始、大館南方の日吉神社方面をはじめ大館郊外で激戦がはじまるも、翌22日、大館城は陥落。

 盛岡軍は、そのまま米代川沿いに西進するも、8月27日、二ツ井町の荷上場に到達していたが、秋田久保田藩支援の西軍、佐賀藩兵約5百が来援、新式銃装備の佐賀藩兵に撃退され、さらに29日、西軍の総反撃が開始され、9月6日、大館を奪還され、そのまま敗走、三哲山まで撤退する。

 三哲山を死守していた盛岡藩軍であったが、9月19日休戦、22日盛岡藩軍は撤退開始となる。
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