鹿角・大館方面探訪 弐


おまけ・・・
比内扇田神明社境内の忠魂碑
奥羽越での戊辰戦争にて各地で勇名を轟かせた東軍桑名雷神隊隊長、立見鑑三郎、後に陸軍大将となった立見尚文と縁ある碑。
| 平成17年10月28日(金)、午前7時半、遠野の自宅を自家用車で出発、一路今回同行いただく盛岡市仙北町在住のBADさんとの待ち合わせ場所、東北道盛岡南インターチェンジへと車を走らせる。 朝の通勤ラッシュと重ならないように紫波町から旧国道4号線へ入ると、目論見通り道は空いており、9時前に南インターに到着した。程なくBADさんが到着され、まずは我車に同乗いただき、高速道を鹿角目指してひた走る。 BADさんとは初対面であるが、かねてより掲示板やメールでのやり取りもあり、さらにご自身が仰るイメージ通りの方であり、車中は割りと会話も弾み、約一時間で鹿角八幡平インターへ到着、まずは花輪地区の長年寺、恩徳寺の盛岡藩士墓所のお参りである。 実は長年寺はBADさんとは縁のあるお寺さんであるようで、開基とされる高田吉兵衛(九戸政実の実弟・中野氏)との関わり等も若干説明板に書かれており、別の意味においても新たな発見だったかもしれません。 まずは長年寺にて27名が眠られる墓地にて線香を手向け、お経が始まりました。約5分位ですかね、いつもの史跡、墓所探訪とはやはり重みが違うと実感する。 次に隣の恩徳寺に移動、同じく16名が眠られる墓所にて同様のお経、まずは念願であった戦没者の方々へ手を合わせることができました。 それにしてもどちらのお寺さんも大きくて、しかも立派なお寺さん、二人共々ため息です。 墓所では地元の方にご挨拶をいただき、丁重にご挨拶を返されるBADさんが印象的でした。流石僧籍の方は違うと感じた次第です。 つづいて鹿角市内の毛馬内にある仁叟寺を目指しましたが、当方の調査不足からなかなか行き着かない、それでもなんとか行き着くことができ、戊辰戦争戦没者の碑を画像に収め、大館方面へ車を走らせました。 途中、十二所の文字を発見、陣所となった秋田、盛岡藩境の山、三哲山を撮影のため米代川付近に至りますと、無明舎出版「戊辰戦争東北紀行」での三哲山の写真と同場所に偶然に至る、ほぼ同じアングルで画像に収め、米代川沿いに比内町へ向かいました。 こちらも偶然、若干の下調べ、地図は持参していたが激戦の地、扇田神明社を発見、早速標柱と立見尚文書の忠魂碑を撮影すると時刻は12時、道の駅比内に移動して昼休み、名物の比内鶏の何かをと考えるも、比内鶏ラーメンをそれぞれ注文、出汁は利いていてけっこう美味かったです。 午後一時まで休憩後、大館城目指して大館市街地に入るも、こちらは全く不案内、しかも事前研究もおろそかにしていたため、大館城跡が桂城ということしか頭にない、なんとかなると考えていたが、遂に行く着くことが出来ずじまいでもありました。 まあ〜現地の方から聞けばなんとかなったかもしれませんが、此処まで来てもう一押しが考え付かなかった、それよりも陽も短い季節でもあり、なるべく明るいうちに盛岡に帰りたい、そんな思いもあり、また中世関連でも再訪の可能性もあったので、今回はこれで探訪は終了、その旨をBADさんに伝えご了承いただき、三哲山の西側〜南側をまわる山道にて鹿角へ出て、高速道にて盛岡に帰還、この時、午後3時半近くだったと記憶しております。 BADさんとは夜の部もお願いしてましたので、午後6時に待ち合わせを申し合わせて一端解散し、私は盛岡市内のホテルにチェックインとなりました。 |

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楢山佐渡が切腹(処刑)された報恩寺
盛岡市名須川町

八幡町へ繰り出す前に通りかかった大通り(通称映画館通り)