三閉伊大一揆
弘化四年野田一揆のこと
 弘化4年(1847)並びに嘉永6年(1853)勃発の盛岡藩領内の百姓大一揆は全国にも例をみない規模で、どちらも遠野南部家とは関係はあるものの、特に弘化4年の野田一揆は歴史的に遠野最大の騒動であり、まさに当時の遠野を震撼させた大事件でもあった。
 これほどの大騒動、公的記録は勿論、裏話、秘話等もよく伝承され今に伝えられる事件でもあり、今回の記述に関しては、遠野南部家重臣、新田小十郎長辰が記した事件報告書「海辺三道御百姓共、御取扱向始終の書留」を主に、新遠野物語・遠野市史3に記載内容を引用及び参考とし、さらに遠野市立博物館蔵資料bR2の解読文を清書(ワープロタイプ 編・松本武則氏)したもの(写)を一部参考といたしました。
 なお、資料bR2については、その原本の所在不明とされております。
野田一揆の実況
 野田村(現岩手県九戸郡)の百姓一揆は、弘化4年(1847)11月20日頃、寄々村の広場に集合となり、その晩は村の広場に野宿、翌朝21日、全部の集合を待って宮古(現宮古市)をめがけて海岸沿いを南下、途中の乙茂、袰野、中里、小本(下閉伊郡)等の村々の百姓を誘い、その数2千人となって24日宮古に到着した。 この数日間は統率もとれ、近在での乱暴もなかったが、宮古門村の酒屋において些細な話のやり取りから百姓と店主との間にトラブルが発生、瞬く間に店、屋敷の打ち壊しに発展、宮古代官所の役人が駆けつけ一揆勢の解散を促したが聞き入れられず、26日宮古近在の百姓も加わり同地を出発、大槌へ向って南下。 同日夜は津軽石村(宮古市津軽石)に宿泊。27日には山田(山田町)、28日大槌に至る。
 盛岡藩当局は、一揆勢の解散を目的に目付、平山軍司、似島 隣等を派遣、途中で説得を試みたとされるが無視され、制止する手立てもなく、伊達家仙台藩領との境、平田番所(現釜石市平田)に在所の足軽、小役人を集め、無理に越境するならば斬り捨てても阻止せよの命が下ったといわれている。

 一揆の報が遠野にもたらされたのは11月24日とされ、大槌代官宮手仁左衛門、山田代官豊川協右衛門の連名で通告書が遠野城代、留守家老新田小十郎宛てに到着でのことであった。

 弘化四年末十一月廿四日大槌通り御代官宮手仁左衛門殿、豊川協右衛門殿より御用席え急付け同心飛脚御用状を以って申し来たり候は、宮古通り御代官野々村直右衛門殿、鶏冠井四郎右衛門殿より大槌御代官中之申し越され候は、野田通り御百姓共願い向きこれあり数百人宮古通りの内小本村辺りに相集まり居たり候に付き万一同所にて手に余る候節は大槌支配所之も罷り越し申すべく候間、それぞれ手配、取り計らい申すべき旨、申し越され候に付き、小国村の儀は宮古通り引き続きの御場処相懸り遠野へ罷り越し候哉も計り難き候に付き、それぞれ手配取り計らい置き候え共・・・・・・略   新田小十郎「百姓一揆録」
 
 上記の内容が遠野へ伝えられると、遠野留守家老新田小十郎(長辰)は直ちに遠野家士の急登城を命じその対応策を論じさせるも、遠野始まって以来の万余に近い人々が押し寄せてくるかもしれないという未曾有の事件であり、論議の家士達はうろたえるばかりで一考に進展しなかったと伝えられている。
 まさに前例のない大事件、遠野史上万余の勢力が侵入してきたという事例はなく、当時の遠野の人口、町場、近在の村々合わせて推測ながら1万5千人〜2万人、これと同等或いはそれ以上が押し寄せてくる、その数の膨大さは計り知れなく、また逆にどの程度なのかも想像し難く、その対処に苦慮したものと思われる。 
 諸氏からの意見で、町奉行所の是川五郎左衛門の意見「臨戦態勢にて打ち壊しを防ぐことを第一に・・・」を決議するも一揆勢を刺激することは極力避け、抜刀することは最終的手段であることを厳命して、各所に戦闘の陣立てを行いつつ、各配備となった。

 十一月廿八日。右御用に付、盛岡御目付長山蔵五郎殿、川口弥兵衛殿、御先手役下田又右衛門殿、赤前四郎殿、組下を召連れられ、他に御徒目付四人遠野え参着。・・・
 十二月朔日(ついたち)頓て右御用に付、南部土佐殿並びに御気添御目付高野繁吾殿、佐々木外面殿、他に火薬師十人、御目付四人、海岸大砲大砲場見分のため御越の旨、左触れ到来の処、御行き向き前条の通り変事是有に付、右御用共々なされ御指図なされ候趣に御到着なされ候・・・

 
 11月28日には盛岡藩当局から、第一陣の役人が遠野入り、12月1日には鉄砲隊、火薬師を引き連れた藩の重役である南部土佐(北氏)が到着。一応に幕府への申し開きを考え、釜石方面の海岸砲台場の視察で出向いたが、海岸方面に今回の一揆が発生、やむなく遠野へ止まったものとしている。
 南部土佐率いる盛岡藩役人は当時遠野随一の豪商、村兵酒屋の屋敷を本陣として逗留とある。
 一揆勢は、11月晦日には土淵境の和山、新山辺りの峠道を使って遠野領入り、12月2日明方には土淵一帯が一揆勢に埋め尽くされていたといわれる。一揆勢が遠野へ向かったという噂が広まってからは、町場の商家は戸を閉め、早瀬川原は紋付の幕があちらこちらに張られ陣が設営、抜身の槍を持った武士達が右往左往している様子が伺われ当時の騒動の大きさが若干垣間見る事ができる。
 
 十二月一日夜、土佐様より小十郎を召しなされ候、御目付長山蔵五郎、高野繁吾殿、川口弥兵衛殿列席にて、御百姓共取り扱い是有、夫々決着のヶ条御書付をもって御達し下され度き旨申し出候処、則御調べ御渡しなされ候。
一、村々え参り居り御百姓共、願いの筋是有候由、明日早瀬川え集り候儀、一統え申し論す事

 御百姓共に右達し、納得致し候はば、何分の指図御目付迄申し越さるべき事。
 御百姓共早瀬川原え相集り候儀、納得致し候はば、明朝にも土佐様御出張、御目付衆共に御出張なされ、御百姓共集らざる中に、何かなりとも御出張なされ候趣き、御達しの事。
一、御百姓共相集り候はば、遠野役人の是扱い懸の者共取り扱い、願いの筋承り届け、出張御目付中え申し出で候御達しの事。
一、御百姓共出張御目付中は勿論、土佐様えも願書差し上げ申し度しと申し出候はば、早速申し出に任じ候含みをもって取り扱い申す旨御達しの事。
一、別紙御沙汰の趣き申し論し、他意の有無その毎々注進致すべき旨御達しの事

 
一、御百姓共、早瀬川原え相集り候節、升形え堅めの人数相増し候事。
一、御百姓共、村々より出掛け候はば、早々御目付旅宿迄申し越すべき候事。
但し、右注進にて、土佐様並びに御役方、早瀬川原え出張の事。
一、一万余の大人数の御百姓共の事故、こり元え出張おり候御役方計らいにては、一統え論し方迚も行き届きかね候に付、此方役方の者相加え申し論し候事。但、願筋差出候はば、書付受取り御目付迄差出し候事。

 
 当局側は一揆に対する対応に苦慮していたものであるが、それでも南部土佐は二日の夜半までは一揆勢を鎮撫できる自信があったものと遠野側では伝えられ、盛岡藩当局も今回の一揆も人数こそは多いものの、一時的にその願いを聞き届ければ大事に至らず鎮撫できると考えていた様子でもある。ただ、藩当局の一番の恐れは一揆勢が仙台領へ越境することであったので、今回のように藩境の釜石の平田に向わず進路を遠野へとったということで、遠野へ留置けばなんとか一揆勢を説き伏せる、解散も可能とみていたようでもある。また遠野入りした一揆勢は遠野役人の誘導で暫時、12月1日から2日にかけて、皆整然と従順な態度にて早瀬川原に集まりだしたので、南部土佐をはじめ盛岡役人もこれならなんとかなると自信を深めたらしいとのことである。
 12月2日朝、辰の下刻、一揆勢が早瀬川原にほぼ集結完了。南部土佐をはじめ盛岡役人が現地入りすると一揆勢の中に割って入って「何用で参った」「願筋あらば何なりと申せ、御詮議のうえ、何なりとも聞き届け遣わす」・・・と呼びかけたされるが一揆勢は無視、誰一人として応待するものもなく、なによりも仲間内でヒソヒソ話しをすると時折、役人達を横目で睨む様子はなんとも不気味でもあったという。
 再三にわたる呼びかけも功を奏さず、というより全くの無視、盛岡役人も手の施しようもなく、この日は宿に引き揚げると一晩中、今後の策を論議したとされるが、ここはまず遠野役人に接衡させることにしたと伝えられる。
 翌3日朝、遠野家中で盛岡遠野屋敷家老、福田諸領以下数名が、腰の大小を置き、丸腰で一揆勢の中に割って入り、前日の盛岡役人同様に呼びかけるも今回も無視、さりとてこのままでは埒もいかず、さらに集団の奥深くに袋叩き覚悟で進むと、集団の中心となっているさらなる集団に行き着くと、その集団に向かって問いかけを行うと、その中で首領格とおぼしき老人が対応となり、他の者達と相談の上、返答するというところまでこぎつけることができたとされる。その後、半刻ばかり経った頃、先ほどの老人が10人ばかりの若者達に守られながらやってきて、自分達は遠野領主、南部弥六郎様にお願いの儀があって参った、弥六郎が盛岡に居て留守であるので、遠野家老、新田小十郎に会って直々に話したいと懇願したといわれます。さらに盛岡役人には用はないと明言もしていたと伝えられます。

 然る処、御用達浅沼喜間太相廻り扱い候内、年齢70歳有余の御百姓に申し開候は、一統御百姓共困窮仕り候に付き、私儀野田通御百姓弥五郎と申す者に候・・・・・
 
 首領格と目される老人は70歳くらいで野田通りの弥五郎と名乗ったとされる。弥五郎と首尾よく交渉したのは遠野家中、浅沼喜間太であった。
 事の次第を聞いた南部土佐は、一揆勢から指名された新田小十郎を出張させて交渉に当たらせる考えに一決、しかし、遠野側では全権を委任されて藩当局から出張してきている南部土佐に遠慮、さらに新田小十郎が出て行ったら一気に取り込まれて一揆勢の人質になったら一大事、人質として交渉に使われ、本藩との板ばさみで遠野南部家が苦境に陥らないとも限らないことで、遠野南部家の存亡にかかるものでもあると考え、一旦は交渉役を辞退するに及ぶ、しかし南部土佐が遠野側の思惑も汲み取り万が一の責は自らがとるということで新田小十郎の出張が決まったと伝えられている。
 
 新田小十郎は騎馬で是川祐平、石橋新兵衛、杉岡兵太夫、小笠原直記、小向悦人、新田融記等の諸氏を引き連れ上早瀬橋を渡ると一揆勢はなんともいえない大喚声をあげる、一万数千余の喚声であるが故、交渉に赴く諸氏は生きた心地はしなかったのではないのかと想像されます。小十郎一行が川八幡に至ると一揆勢の主だったもの20名余りが土下座をして出迎えたといわれ、一揆勢準備の床机に小十郎が座ると「身は新田小十郎である。何か願いの筋あって参ったとの事、許す、何か申せ」というと、その中の頭目らしい70歳余りの老人が恭しく進み出て、立派な書きものを差し出したとされる。その場でその書きものは遠野家士、杉岡兵太夫に読み上げられたと伝えられる。

一、乍恐奉順候事(恐れながら願い奉り候事)。
一、此の度仰せ付けられ候御用金
  三千五百両     宮古通り
  三千四百八十両  大槌通り
  千四百三十領    野田通り
 外に毎年大豆御買い上げにて迷惑。
 猶又、御塩御買上げにて御百姓一統迷惑罷り有り候処。五ヶ年軒並(軒別銭)仰せ付けられ、止む得ざる事と納め上げ奉り候。
 右軒並相済み申さざる内は、御用金等一円仰せ付け間敷の趣の御沙汰に御座候処、近頃に至り、一ヶ年に三度四度宛の御用金に御座候。随って恐れ多き願い上る奉り候様に御座候え共、何卒御定役御年貢の外、新規御役立過金等一円。御免なし下され度く偏えに願い上げ奉り候。
 御慈悲の御隣慰をもって、右願いの通り仰せ付け下し置かれ候はば、御百姓一統重畳有難き仕合せに存じ奉り候。恐れながら此の段願い上げ奉り候。巳上
      弘化四年十二月
                                   野田通御百姓
                                   宮古通御百姓
                                   大槌通御百姓
  弥六郎殿
   土佐殿
 
 外に、申し上げ候も恐れ入り奉り候え共に、野田通に於ては、御用金仰せ付け候えば、御催促のため御人数押立て御遣はし遊ばされ、一日一人に付き日雇銭二百文宛て差し上げ申し候。此の儀共に御免下し置かれ願い上げ奉り候。


 新田小十郎が「新規御役立過金一円御免」だけでは仔細はわからないので、詳細を述べるように言うと、さらに別の書状を差し出したといわれる。

一、放し御伝馬数百駄、御城下附け上げ仰せ付けられ駅馬一統迷惑仕り候。先年通り仰せ付けられなし下し置かれ度願い上候事。
一、御鉄山御用掛に付、役立並に人足数人仰せ付けられ、御百姓至って迷惑仕り候。
一、先年は地の御下役にて御詰なされ候処、近年は皆御城下より御下役詰合にて、御雑事銭相増し一統迷惑仕り候。これに依り先年通り御下役になし下し置かれ度願い上げ奉り候。
一、家材木雑木計にて相用い候ても、八戸買入材木と名付け、一軒分一貫二百文より一貫七百文迄御礼銭取立にて相成り一統迷惑仕候。
御礼銭御取立に相成り一統迷惑仕り候。
一、牛馬御役人御免下し置かれ、馬肝入両人に御改め成し下し置かれ度願い上げ候。
一、御物書御一人に成し下し置かれ度願い上げ候。
一、御野馬母駄喰料、近年仰せ付けられ候。御免成下し置かれ度願い上げ奉り候。
一、御百姓共急用の分布押込染仕り候様、仰付けられ成し下し置かれ度願い上げ候。
一、御城下塩付け入り御礼銭、一駄に付き先年は五十文、米穀出荷一駄に付き六十文宛御取立に御座処、近年一升に付き四文の御役立にて迷惑仕り候。先年通りに仰付けられなし下し置かれ度願い上げ奉り候。
一、濁酒御役立、御免なし下し置かれ度願い上げ奉り候。
一、御官所不時の雑事銭御据の分不足にため、数度御割付仰せ付けられ迷惑仕り候。
一、漁船御極印頂戴仕り候節、先年は百文宛の御礼銭差上げ奉り候処、近年一貫百文宛御取立相成り、漁師共一統迷惑仕り候。先年通りに成し下し置かれ度願い上げ奉り候。
一、魚類近年陸上げ一貫文に付き、二百文宛御取立、此の儀御免成し下し置かれ度願い上げ奉り候。
      弘化四年末十二月
                                 野田通御百姓
                                 宮古通御百姓
                                 大槌通御百姓

 上、弥六郎様
     土佐様



   口上の覚
一、御月割残り分、十月分御免
一、御塩問屋御免(塩の強制買い上げによる専売制)
一、御十分一積金、三割御免
一、松杉御伐取御免
一、米穀五十集新役御免
一、盛岡五十集問屋新役二分増御免
一、御大豆御買上御免
一、空地御免
一、濁酒新役御免
一、木の山御免
一、かたくり五割増御免
一、御用金賄向諸定役、御才足二百文の処御免。〆て十三ヶ条、前文願書に相加え御免仰せ付け下し置かれ度御慈悲をもって願い上げの通り仰せ付け下し置かれ度、偏に願い上げ奉り候。
      弘化四年末十二月
                                野田通御百姓
                                宮古通御百姓
                                大槌通御百姓

  弥六郎様
   土佐様


 さて、この願出書、どれひとつとっても新田小十郎の一存では返答のできるものではなく、また藩当局から全権を委任されていたと思われる南部土佐においても即答はできるものではなかったと思われます。小十郎は一応に殿様に申し上げ、願筋が叶うよう尽力はするが、まずは今後も乱暴なことは慎むよう諌めてその場をあとにしたと伝えられている。
 直ちに南部土佐に報告、南部土佐が一揆の願いを聞き入れ、新課税、御用金の免除を即座に申し渡したかのように伝えられるが、事はそう簡単なことではなく、直ちに盛岡に急使を送り、藩主南部利済への報告と許可を取り付けるためだったといわれる。
盛岡からの返事が来るまで一揆勢は八幡山(現松崎町白岩八幡)を中心に青笹、土淵飯豊まで陣取り、遠くからも真っ黒な集団に埋め尽くされている様子が見られたということで、彼らが何かの拍子に箍が外れたら遠野はひとたまりもなく破壊尽くされると震え上がっていたと伝えられます。
 この年は暖冬だったそうですが、それでも寒い季節、一揆勢は山の木、民家の庭木まで伐採してあちらこちらで暖をとるため四六時中焚火をし、昼は天が焦げるかと思うほど真っ黒な煙がたちこめ、夜は天を焦がさんばかりに赤々と燃やし、時折、連れて来ていた猟師が鉄砲を撃ったり、妙なうめき声や喚声をあげたので遠野の人々は生きた心地がしなかったともいわれています。
弘化四年野田一揆
嘉永六年野田一揆
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