弘化四年野田一揆 弐
一揆の処置とその後
 さて、遠野出張中の盛岡藩士の使者は12月4日の夜明前に盛岡に到着、夜明けと共に盛岡城に登城し、直ちに藩主利済は藩の重臣達を呼び、御前評定となった。だが一揆勢の申し立ては藩財政の根本から改正するといった事柄が多く含まれ、そうは簡単に聞き入れるものではなかった。さらに今回の一揆での一番の責任者というべきか、当事者、藩主である少将南部利済が何かと口を挟む事が多く、仕舞いには他の重臣達が遠慮して閉口してしまう有様、これでは決まるものも決まらない、末座にいた赤前四郎太夫(遠野出張の藩士・・今回の使者)は、「このままでは打ち壊しがはじまり、その鎮圧には僅か数十名の鉄砲隊を以ってしても鎮圧は不可能」と言上すると、流石の利済も「この際、何事も穏便に」と口にすると一揆勢の願書はすべて聞き届けることに決まり、傍らに居た遠野領主、南部弥六郎義普にすべて任せるということに決し、弥六郎は着ていた裃を脱ぐと「小十郎にこれを着て始末せよ」と赤前に伝言し、赤前は直ちに早籠にて遠野へ向かったといわれている。時刻は午後に近かったとされている。
 赤前が遠野へ着くと、直ちに南部土佐に仔細が報告される。新田小十郎が土佐自身で一揆勢に申し渡せば一揆達の信望も一層高まるのではと言上するも、今回の始末を申し受けたのは南部弥六郎殿であり、その代理人たる新田小十郎が行うべきと強く譲ったともされ、小十郎は弥六郎から預かった双鶴紋の裃を着ると馬上で一揆勢の頭目達が待機する川八幡に向かったとされる。
 一揆方も既に盛岡では願書が聞き届けられたという噂は伝わっており、皆、平伏して小十郎を出迎えたと伝えられる。そして小十郎が盛岡からの奉書を読み上げるとさらに平伏したといわれている。

 
  御墨付御印書
遣わし候書き付けのこと
一、此度仰せ付けられ候御用金の事
一、塩問屋の事
一、五十集問屋新役弐分増の御免の事
一、濁酒御役立の事
一、諸催促日雇銭の事
一、木の子山の事
一、空地の儀先年通りの事
一、家材木八戸より買入礼銭の事
一、官所御物一人の事
一、漁船御極印礼銭、先年通りの事
一、御城下塩付入り御役銭、米穀御役立、先年の通りの事
右ヶ条此の度、願いの通り申し付け候。
書付により遣わすもの也
    弘化四年十二月
                                          土佐  印
                                          弥六郎

                                  大槌通
                                  宮古通
                                  野田通
                                   御百姓共へ


 
 百姓達の願いはほぼ認められた内容と共に、小者に至るまで今回の一揆に関してはお咎めなし、との内容でとりあえず一揆側の完全勝訴となる内容であった。
 盛岡藩にとっても、さらにその当事者となった遠野南部家にしても前代未聞の大掛りな百姓一揆、このまま一揆勢がそれぞれの故郷に帰ると思いきや、遠野城下の見物をしたいと代表の者が新田小十郎に懇願したといわれ、流石の小十郎も思わず顔色が変わったと伝えられる。それもそうである、何しろ一万余の人数が町場に繰り出したら想像を絶する大混雑となり、またこの寒空に何日も野宿で過ごした百姓達は気も荒くなりかけていると想像され、町方と些細なことでケンカでもはじまれば一気に暴発して大掛りな打ち壊しに発展しかねない懸念もあったためである。
 結局、小十郎は思案のあげく、町見物を条件付きで認め、乱暴狼藉、押借り、盗み食い等禁止を固く約束させると、銭の持ち合わせのない百姓のこと、店先の品々をみればほしくなるのも道理、欲望を抑えることが果たしてできるのか、新田小十郎、そして遠野南部家が海岸の人々に後々まで賞賛される事柄、つまり百姓全員に帰りの路銀としてひとり米一升と銭50文を支給するといった温情を示す。流石の百姓達もはじめは耳を疑ったが、食料については各自、帰りの分まで十分用意がしてあるので、いただく米を銭に替えてもらいたいと願うと、小十郎も了承、米一升を百文としてひとり合計150文を銭で支給することとなった。この言葉を聞くと百姓達は皆地に顔を伏せて小十郎を見送ったと伝えられている。
 さて、1万5千とも1万2千ともいわれる百姓達に、ひとり150文を支給する、この金額の工面はなかなか大変だったと伝えられているが、町屋の商家七軒、女郎屋四軒がその工面を命ぜられ、家内中は勿論、親戚縁者、知人まで総動員して銭勘定及びその銭をわら筋縄に通す作業、その作業は一晩中つづきさらに翌日の午前いっぱいかかったと伝えられている。
 銭で2万2千貫、一文銭で二千万枚、百姓達へこの銭を届ける際は一軒の商家で馬四頭に積んで届けたといわれ、この時の各商家からの馬の列は、市でもたった日の賑わい以上でもあったといわれています。

 弘化4年12月5日、九つ刻(正午)、常福寺の鐘の音で百姓達がぞろぞろと町場へ繰り込んで来たそうです。前日には新田小十郎の命で各店は品切れで百姓達ともめない様十分品を準備する事等、くれぐれも百姓達の機嫌を損ねることは無きよう厳命されていたとされ、町場の商家、店は支給する銭の準備はもちろん、商品の準備、食物屋もいつもの五倍から十倍の料理、酒を支度したとされ、それこそ一晩がかりでこちらも総動員で準備したといわれている。
 どっと、遠野城下に繰り出した百姓達、まずは寒空に野宿のせいか、暖かい食物や酒を求めて、食物屋(今で言う食堂)と酒屋に殺到、屋台風でこの時だけの出店も俄に出店されその数100軒、しかしあっという間に売り切れとなる盛況ぶり、さらに当時の遠野は藩都盛岡に次ぐ城下町で内陸と海岸を結ぶ交通、輸送の要衝でもあり繁華の地でもあった。百姓の大多数は遠野のような繁華な町を知らない輩、売られている品々は珍しく映ったらしく、家族への土産品を買い求める姿がほとんどで、中でも女子供への土産、白粉や小間物が飛ぶように売れ、蔵の在庫品まですべて売り切れの状態、こんなに売れるのなら毎年、一揆勢が遠野へ押し寄せても歓迎するという店主までいて、百姓達が苦笑したともいわれております。
 大方の予想に反して、遠野町方にしても遥々押し寄せた一揆勢にしても、双方満足な結果となり、夕方には遠野城下から一揆勢の姿は消え、翌朝には八幡山一帯その周囲を埋め尽くしていた一揆勢は一人残らず姿を消し、軍勢の引き揚げでもこれほど見事な引き揚げは滅多にないと遠野諸氏を感嘆させる見事な撤退でもあったという。全国で勃発の百姓一揆でも類をみない統率がとれ、大きな混乱もなく、しかも撤退も見事、ただ遠野に居た6日間、去ったあとに残したもの、一万2千人余が出した糞尿の数は夥しく大袈裟ながら足の踏み場もなく、夏場なら異臭がたち込め大変だったろうと想像もでき、冬場であつたのが幸いでもあった。
 一揆勢が野宿した土淵、青笹では、ここ2〜3年は肥料が不用だと皆で苦笑しあったと伝えられています。
 なお、遠野南部家による一揆勢への帰りの旅費というべき支出は、南部土佐との約束により盛岡藩当局から米千駄(7百石)が補てんされた。

 遠野南部家当主、南部弥六郎そして遠野留守家老、新田小十郎の見事な采配で事無きを得た遠野であったが、今回の一揆の原因というべき藩主南部利済の責任問題は棚上げされ、しかもその側近たる南部土佐、石原汀等が一番に糾弾されるところ、藩主自らに責任をとれなどといえる時代でもなく、また藩主の取り巻きを正面きって批難もできるものでもない。この責任は一揆勢との現場でやり取りがあった宮古代官、さらに山田、大槌代官は厳しい処罰が下され食禄屋敷取り上げ、追放または食禄半減お役御免、末端の小役人までその責は問われたとされている。小役人や足軽といった人たちにはとんだ災難といいますか、いい迷惑な一揆でもあった。


弘化4年野田一揆の原因と結果
 
 幕末の混迷の時代へと突入となる弘化年間、嘉永年間の盛岡藩の大一揆勃発への要因、多く語られるのは、盛岡藩領内の大凶作がひとつの引き金となっているというものでもあるが、南部藩政当初は金山開発、経営によって財政事情は豊かな方であったといわれている。しかし寛文年間(1661〜73)辺りから金産出量が激減、金山から銅山経営へと移行する。
 また幕府からは御手伝普請が相次ぎ、出費が嵩み始めると凶作の年も頻繁となる。さらに寛政年間(寛政5年1793)からは蝦夷地警備の支出も加わると、文化5年(1808)10万石から20万石への藩格上げ、すなわち表向きは喜ばしきことでもあるが内情は軍役の倍増、対外支出の倍増が圧し掛かり藩財政は火の車状態であったという。
 藩ではこの危機を領内商人、農民への負担強制で乗り切ろうと図る、がこの時代、一揆が頻発し、盛岡藩では藩政期において140件の一揆が発生したとされ、隣藩の仙台藩は14件に過ぎない。
 盛岡藩では2年に一度は領内で一揆が発生という割合であり、藩財政の破綻がそのまま領民に圧し掛かった結果でもあろう。
 弘化4年の野田一揆に関しては、六万両の御用金の強要、これは徳川幕府からの命により外国船打ち払い、海岸防備の名目であったといわれますが、新財源確保のため三陸海岸の漁業、九戸の鉱業に新課税というべき御用金徴収のため各村々に収税吏を派遣して厳しく取りたてを行った結果、弘化4年の大一揆勃発の起因となったものでもあります。
 前頁の百姓達からの訴状、その内容で直接的に知る事ができますが、天保14年(1843)に軒別役と称する50年の年限つきの新税が賦課され、その代わり50年間はすべての御用金を命じないというものでもあったのです。
 ところがこの公約を無視し年に2度、3度と御用金を命じると、担保期限付きの藩札を発行、しかし利子は払われず担保も引き渡さない、さらに御用金に応じないと現地に徴収吏を派遣し、その役人に対し対象となる村では食事付き、しかも日当まで支払らなければならない内容でもあった。

 野田一揆は、遠野側では実況じみた現実の一揆の姿、その交渉等を伝えてはいるが、実はそこに内在しているのは、単なる過酷な税への取り立てのみならず、藩政改革を底辺から訴えるという本質をのぞかせている。遠野南部家重臣、新田小十郎と交渉した一揆側の頭目六名、その中心人物、小本村の弥五兵衛(切牛弥五兵衛)は、藩当局に12ヶ条からなる願書を認めさせることに成功はするが、一揆解散後、またしても藩当局からの公約は破られ、遠野での訴えの限界を自覚し、藩政改革を真の目的として領内遊説の旅にでるも捕えられ獄中死、しかしこの後も度重なる藩当局からの新税、御用金が課せられ再び野田通から発生した三閉伊大一揆(嘉永6年1853)は、仙台藩へ強訴という形で全国に例をみないさらなる一揆へと発展することになる。


 弘化4年の大一揆は幕府の知る事となり、幕府によりその責任の一端は藩主にありと暗黙の勧誘によって藩主南部利済は隠居となり子の利義が藩主を継ぐも院政に近い藩政が布かれた、さらに大規模で統率のとれた嘉永6年の三閉伊大一揆の勃発となるのである。
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