2005年・夏の伝承行事
|
愛宕大権現(愛宕堂)宵宮
2005年7月24日(日)午後5時30分〜![]() |
| 約半年ぶりに開けられた愛宕堂・・・福泉寺境内 |
| 愛宕堂由緒と我家 |
| 遠野市松崎町駒木第7地割内・・・古より宮洞(みやほら)と呼ばれし場所の高台に鎮座しておりますが、言い伝えによりますと、鎌倉時代のはじめ、下野国(現栃木県)佐野の御家人、阿曽沼広綱が源頼朝より遠野12郷を賜り、阿曽沼氏の代官、宇夫方広房が遠野へ派遣され、宇夫方広房は、現松崎町駒木、下駒木(旧名中村・堀合)の地に仮館を築いた折、東方の鎮守のため、愛宕神社を築いたといわれ、その愛宕神社がこの愛宕堂の前身と言い伝えられている。 記録もない現実にて、ただ地域に伝わる言い伝えのみであるが、この愛宕神社は遠野で一番古い愛宕神社とも考えられ、後に我家に伝わる伝説「松虫・鈴虫伝説」縁の地として、また古来より山岳信仰の場、早池峰山への道すがらの地でもあった宮洞は、修験者等の一夜の宿、また何かしらの理由にてしばらく滞在の地とした経緯もあったとされ、一種の聖域たる雰囲気を醸し出していた地ともいわれております。 そんな中、我先祖はこの地に住まいし、愛宕堂は長らく我家の氏神様、屋敷神として崇められていたものと推測されます。 明治末期、真言宗豊山派寺院、法門山福泉寺の堂宇建設の地として、宮洞が選ばれ、愛宕堂があった高台に堂宇の建設が始まります。当時愛宕堂はお堂というべき建物は存在せず、ただ祠といいますか、御神体が入れられた箱的な祠が大木に立てかけられていた状況だったようです。 大正元年、福泉寺が一応の開山となると、後に御神体は福泉寺本堂へ移され、以来我家にて宵宮を執り行って参りました。この時、御神体は朽ち果てていたとも単なる木片だったともいわれ、福泉寺本堂建設に携わった大工の棟梁により、新たに御神体が彫られ、二代住職宥然師により色付けを施された地蔵菩薩と勝軍地蔵の二体といわれております。 さらに福泉寺二世、宥然師により愛宕堂が昭和40年代半ば完成、以後宵宮は我家と福泉寺により執り行われ、本来は旧暦6月24日であるが、我家と福泉寺双方の都合等で日程を調整し、7月末の土曜日、或いは日曜日に執り行うこととしております。 |
| 午後5時過ぎ、長男(中2)と共に、ビール、ジュース、さらに料理の一部持参で福泉寺庫裏に顔を出す。 2年連続で別当である私が遅刻という大失態を演じてましたので、今年は汚名返上とばかり早めに出向いたのですが、福泉寺住職さん等は居間でゆっくりとくつろいでおられたところで、私の参上で、「おっ、もうそんな時間か・・急いで仕度をするから先に行っていてくれ・・」の言葉、自分的には少し早いかな・・と思うも、ご住職あっての宵宮でもあり、まずは先行して愛宕堂に行きますと既にお堂の扉は開け放たれ、皆さんが座るゴザも準備万端整えられ、別当の私がする仕事は無きに等しい状況でもありました。 今年の宵宮は記憶の中の宵宮通り、夏の夕方という感じで、境内全体が蝉時雨、家路を急ぐカラスが時折「カ〜・・」と鳴くなんともいえない雰囲気、若干周囲の景色は幼い頃と違うけど、それでも十分昔と変わりない環境でもあり、まさに伝承行事的雰囲気は十分残されていると実感したしだいです。 さて、5分もしないうちに住職さんが来られ、すぐにローソクに火が灯され、供物が供えられますと直ちにお経がはじまりました。 あれっ、家族はまだ来ていないし、予定の方々もまだみえない・・・それでもお経は続けられている、別当席には私の長男を座らせ、私は携帯電話で宵宮がはじまったことを家族に連絡、さらにカメラにてその模様を取材と・・宵宮自体からは少し距離を置いて一番後方の席に座ることにしました。 そのうち我家の家族、福泉寺の方々・・・・と揃いだしましたが、お経の後半部分、間もなくお経も終了、御神酒が回された頃、予定された方々が揃うという場面でもございました。 |
![]() |
![]() |
![]() |
![]() |
| 場所を福泉寺庫裏の台所に移しての会食風景。 参加者は13名、例年通りの人数である、料理は各家庭か ら持ち寄った手料理であるが、我家でもお昼過ぎから料理 がはじまり、女性達はたいへんだったものと思います。 集まった皆さんが「美味い、美味い」と言って頂くことで苦 労も飛んでいったものと思われます。(いつもは料理の種類 は何にしたらよいのか、嫁さんは頭を悩ませていたりとたい へんそうでもあります) |
| 大沢不動 |
| 遠野市松崎町駒木、妻の神とよばれる奥地、大沢川の最上流部に不動明王を祀り駒木地区で長らく崇拝してきたといわれている。 別名、倶利伽羅不動、この地は倶利伽羅峠ともよばれ、古くは宮古、大槌といった海岸地方に通じる裏街道が通っていたとされ、山奥ながら内陸と海岸を結ぶ交通の要衝という位置付けでもあり、荷のみならず信仰や文化の面でも往来があったものと推測される。伝聞では昭和の初め頃までは小国村(下閉伊郡川井村小国)や土淵の栃内からも宵宮には参拝者があったと伝えられている。 創建年代は不明とされるが、江戸末期の頃とも伝えられ、当時駒木地域の豪農の家、屋号「判四郎どん」家(本姓菊池)が別当となり宵宮、祭礼が今も伝えられ行われている。 駒木地区の生活用水、農業用水のほとんどをこの大沢川に頼ってきた背景もあり、地域によるひとつの崇拝対象でもあった時代もあったようですが、大正時代に入ると地域に福泉寺が開山、歴代住職の断食修行の場となり、また福泉寺のご本尊は不動明王という縁から祭礼というべき御神酒あげ(旧暦6月28日)は別当家で行われていたものが、最近は福泉寺にて執り行われている。 御神酒あげは上、下両駒木地区の世帯がほとんど参加という地域をあげての行事として今も伝えられています。 さらに前日の宵宮(旧6月27日)は、別当家と共に地域の方々により執り行われていたが、こちらも別当家、福泉寺が中心となり、他に別当家の親戚、分家筋の家々による宵宮となっている。 |
![]() |
| 大沢不動登り口の鳥居・・・ 宵宮当日早朝より別当さんにより山道の下草刈りがされて いた。 |
| 夏らしいといいますか、気温も既に30度は遥かに超えている、黙っていても汗が吹き出てくる昼下がり、懐中電灯やらタオルやら・・・さらに飲物等を長男とふたりでリュックに詰め込む作業をしていると、長男の友達で同じ行政区内に住むО君がやって来た。 О君にも同地区内に伝わる伝承行事を体験させたいと思い、誘っていたものであるが昔は中学生、高校生はこの宵宮がひとつの楽しみでもあり、午前中早くから探検気分でおにぎり三食分とかインスタントラーメン、鍋なども持参で徒歩で大沢不動に向かったともいわれておれます。 またあるグループは大沢川を岩魚釣りをしながら上っていくという少年達もいて、アウトドアのはしりみたいな位置付けだったともいわれております。 そんなことから、息子のみならず地域で唯一の息子の同級生であるО君にもこういったことを教えたいと思ってのことでもありますが、どうやら少しは楽しみにしていたようでもあります。 さて、出発は隣の早池峰食堂を午後3時、2時45分には食堂に集合しておりましたが、3時を過ぎでも福泉寺住職さんが来ない、副住職さんが後から来たが、迎えに行ってもらい、なんとか20分遅れで第一陣6名の出発である。 ![]() 牧道を車で約15分、鳥居脇に到着、10数年前までは徒歩で約2時間かけて来たものでもありますが、小学生の頃、2度徒歩で来た記憶がございます。 今は自動車でも楽に来られる環境でもあって、それでも鳥居からお堂までは約3百メートルの登り、中年の身には少々きついことでもあります。 画像は第一陣、いよいよお堂に到着の場面です。 ![]() まずは荷物を降ろし、お堂の清掃班と焚火班に分かれて作業の開始である。 息子達はお堂の掃除、家ではこんな姿はみせませんが、よく言う事を聞いて掃除をしておりました。 一連の作業が終了しますと福泉寺三世正全師は歴代住職にならい、お堂脇にある大沢の滝にて身を清め、宵宮の準備に取り掛かっております。 午後5時、仕事で遅くなると言っていた別当さんが到着、仕事が早めに終わったということで我々と合流、後は6時を目途に後発部隊の到着を待つだけである。 ![]() 午後6時が過ぎたが後発部隊の到着が遅れている。しかし定刻となっているので居る人数だけで宵宮がはじまった。別当さん含み7名。 お経も終了、御神酒が回されているところへ後発部隊が到着、私の母親、二女(小5)、福泉寺の奥さん、二女の友達(別当家に次ぐ駒木菊池家の代表するお宅の孫娘)。 後発隊は我々の夕食や追加分の飲物も運搬する役目でもあり重要な存在でもあります。 この時点で11名、少し寂しい人数ではあります。 ![]() いよいよ会食のはじまり、三々五々、地域の方々も集まりだすも6名の追加のみ、全部で17名、まずまずといったところか、今年はじめて気が付いたが、福泉寺関係者以外は全員菊池姓、そういわれればいままでも主体は菊池姓の方々であったと思いだす。 結局、お堂に泊まったのは住職さん、別当さん、妻の神の菊池さんの三名のみ、後は午後8時過ぎ全員下山となりました。 ![]() お堂内部の様子 |