えんでJENGO
  (飯豊じぇんご)

松崎じぇんご
番外の番外編

土淵町飯豊地区の風景

 土淵町飯豊、「いいで」が訛って「えんで」と発音するものと思いますが、「いいとよ」が標準のよび方であると思います。(いいどよ)ともいう。
 私こと、当サイトの管理人とは、ほとんど縁のない地域でありましたし、土淵町の一部というより青笹町の一部と思っておりました。実際、飯豊の子供達は、1980年代前半あたりまで、小学校も中学校も青笹の学校に通学しており、また隣接の青笹町沢田地区との関りも深い地域だったのではと思っております。
 飯豊地区とはご縁があって、今や他人の振りはできない地域でもあることから、若干興味をいだく史跡やら民俗も存在しており、簡略ではございますが、ご紹介したいと存じます。
遠野市土淵町飯豊・・・沿革
岩手県遠野市土淵町飯豊地区の歴史考察及び民俗のご紹介
簡略の記述のみです。
 遠野市土淵町は、栃内・山口・土淵・柏崎・飯豊の5村が明治22年に合併し土淵村となりその後の昭和29年、町村合併により遠野市土淵町となる。
 飯豊に関しては、飯豊村、宮澤村の2村が明治9年に合併し、飯豊村となった。
 飯豊村誌(遠野市史4掲載)によると、東西長く、南北に狭しとあり、旧名(字名)は次のとおり。

 上飯豊  村の西南にあり。
 上宮澤 上飯豊より北、下宮澤を隔つ。
 下宮澤 上宮澤の西にあり。
 下飯豊 下宮澤の南にあり。
 中飯豊 下飯豊の南にあり。
 中谷地 中飯豊の西にあり。
 大谷地 中谷地の西北にあり。
 下山 大谷地の東北にあり。

 寛永4年(1627)南部利直(南部藩主)から八戸直義(遠野南部氏)への遠野知行目録
 飯豊村・・・47石4合・宮澤村・・・33石786合
 
 寛永11年(1634)、遠野南部家臣への俸禄、知行地
 飯豊村に50石、広田太郎左衛門
 
 安永9年(1780)7月調べ
 飯豊村・・・82石8斗7合、家数30軒 ・ 宮澤村・・・63石3斗3升2合、家数15軒
 飯豊村与三右衛門 6石7斗3升2合

 江戸中期以降の飯豊村、宮澤村の知行主については不明。
 明治2年における記録では・・
 土淵村与惣右衛門 17石6斗7升6合他2人扶持、
 後に士族名簿に飯豊村、今渕与惣右衛門29石6斗7升6合・・土淵村与惣右衛門と同一人物か?


 遠野市土淵町は遠野物語での主要な地域であると共に、遠野観光においても綾織町、遠野市街地、松崎町と並ぶ観光スポットが点在している。
 しかし、この土淵町飯豊地区は、遠野物語、遠野物語拾遺での記述に多数登場の舞台があるにも関らず、観光面での注目はそれほど浴びていない地域である。観光客が飯豊地区を訪ねて歩いている姿はほとんど見た事がない。
 むしろ他の土淵町内の各地域よりも、ひなびた雰囲気、日本の原風景は、この飯豊地区に多く残されていると感じておりますし、範囲も狭い地域ですから、徒歩でも十分に回れる距離でもあると思います。
 下記では、その一部ですが、歴史考察を中心にご紹介いたします。
神社・祠・石碑
 狭い地域ながら、神社、祠の類が多く点在している。また石碑も路端で遭遇できる地域でもある。
 なお、神社、祠関連は、把握できておりませんが、熊野社、稲荷社、羽黒堂、阿弥陀堂、山ノ神等・・・・、あらゆる社、お堂が鎮座しておりますが、遠野地方においてもこれほど社、お堂、祠が山野、道端含み民家の敷地内に数多く祀られている地域はない、大袈裟ながら道端を歩いていると3軒にひとつは存在するのではと思うほどでもあります。
 この飯豊地区の民俗的部分は、遠野全体を凝縮或いは縮小された姿に思えてなりません。ガイドブックに掲載されない内容、地域でもある土淵町飯豊地区、興味ある方は直接お訪ねになってもよいかもしれません。
史跡(舘)考証・・・中世編
 中世遠野、その中での土淵町関連では、栃内舘、山口舘、柏崎舘、角城舘、五日市舘、阿倍屋敷・・等の史跡があり、詳細は不明ながらもその遺溝も確認でき、後世の資料ながらも舘主や時代背景も若干把握できるといった状況でもある。
 では、飯豊地域は誰が支配していたのか、その舘は・・・?、宮澤舘、飯豊舘、大将舘(屋敷)の記述等が郷土資料に散見されているが、全く雲を掴むような内容で、中世での飯豊地区の姿は皆目見当もつかない・・・。
 そんな中、ふたつの史跡が言い伝えながらあるとされている。その二つの史跡の関連性含み私なりの考察をいたしました。

飯豊からみた早池峰山と薬師岳

神社、お堂、祠関連の一部を画像にて掲載。
詳細はまだ把握しておりませんので画像のみ掲載中

大将舘(大将屋敷)跡
飯豊と青笹町沢田地区との境目付近の山野にその舘はあったと伝承されている。
いつ、誰が・・ほとんど不明とされているが、郷土史料の中での説として、安倍時代の築舘との見解がある。
画像での右部分の山野を含む、一帯がその舘跡とのことであるが、往時を偲ぶ遺溝、その痕跡の特定に至っていない。
後に舘主の末裔とされる菊池采という名が郷土史料に記述されているが、阿曽沼時代、菊池一族の誰かが居たのだろうか。遠野物語拾遺267話に青笹臼舘の舘主と飯豊舘の舘主が合戦をしたという言い伝えがあるが、飯豊を治めていた舘主は青笹方面まで勢力があったかもしれない。

大将舘(大将屋敷)

舘主、年代共に不明

舘神神社跡
 葛西氏の一族を祀った神社跡近くに建立した碑である。
 この中での葛西氏一族とは誰なのであろう・・・。また舘神としている点、この近在に舘(武家屋敷)があったという何かを示す伝承なのだろうか?。
 この場所は旧村名での飯豊と宮沢との境に位置している。北側には沢(現在は用水路)を挟んで宮沢集落、隔てる沢より3メートルほど高い位置にあって、畑となっているが古に舘があった痕跡は探し出す事はできない。今はただこの碑に刻まれている神社跡とされる伝説のみである。
 中世の飯豊を想像するに、それなりに力を有した武家がいたものと思います。遠野物語拾遺に収録されている臼舘との戦い、臼舘とは阿曽沼氏家臣といわれる菊池成景という武士が青笹町中妻地区を中心とした地域を領有していたとされる。後に大いに繁栄し、上郷方面へ勢力を拡大したと伝えられる。
 この菊池氏と合戦に及ぶということは、飯豊を治めていた武家は青笹糠前あたりまで進出していたものと想像もされますし、逆に臼舘側に侵食されていたかもしれません。
 いずれにしても伝説的な部分ではありますが、史実は闇の中、折をみて本格的に調べてみたいと考えております。(難解ですがね)
伝統芸能・飯豊神楽
 遠野の神楽は大きく分けて、神人神楽(しんとかぐら)と山伏神楽の二つの系統である。遠野での神人神楽では大迫の岳神楽、大償神楽の系統を伝える大出神楽があって、その系統が多い。
 飯豊神楽は、山伏神楽で、上組町駒形神社神楽(元禄年間)系から八幡へと伝わり、八幡神楽となり、八幡神楽からの伝わったのが飯豊神楽といわれている。
 飯豊神楽は地元熊野神社の奉納神楽と伝承されているが、一説には江戸期末の伝承、八幡神楽から伝えられたのは明治初年ともいわれる。
遠野ふるさと村にて(どべっこ祭り)演目は畠蒔き
その他

遠野郷青笹しし踊り、というよりもそのうちのひとつ糠前しし踊り(青笹町)の創始者、嘉兵エの墓

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