| 名称・場所 | 由来・説明 | 画 像 |
| 飢饉の碑 松崎町光興寺宮代 宮代バス停下車 徒歩3分 |
江戸時代、宝暦5年(1755年)の大凶作で餓死した人々の供養塔。 南部藩は度々凶作に見舞われ、特に寒冷な遠野は多くの餓死者を出すといった悲惨さでもあったと伝えられております。 夜の周遊コースのお薦めスポットでもあります。 |
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| 元八幡 宮代バス停下車 徒歩10分 |
松崎町白岩八幡地区の遠野郷八幡宮が寛文3年に移るまでのお社である。 中世遠野領主、阿曽沼氏によって建立されたと伝えられ、(建保年間)阿曽沼氏居城の東北、鬼門とされる場所に勧進したものと推測される。 現八幡山へ移った後は荒廃していたが、明治元年復興された。 |
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| 野田稲荷神社 松崎町光興寺野田 |
猿ヶ石川沿いの水田の真ん中に位置している。 創建は不明とされるが、江戸中期〜末期の創建ともいわれる。 |
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| 横田城・薬師堂 上の山バス停下車 徒歩10分 |
遠野中世時代を代表する山城。 大掛りな遺溝も若干残されている。 遠野中世領主・遠野阿曽沼氏居城(一説には建保年間〜天正年中)13代広郷時代、鍋倉山に居城が移されるまで阿曽沼氏歴代の居城と伝えられる。 本丸とされる平場には薬師堂があり、脇には彼岸桜、山桜の古木が今でも見事である。 |
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| 村兵稲荷 |
文政元年、当時遠野の豪商、村兵の2代目、村上兵右衛門が建主となって建立とある。 江戸の庭師を招き、見事な庭園もあり、例大祭では近隣からの参詣人で賑わったとされる。 御神体は京都から正一位稲荷大明神を勧進、兵右衛門自ら背負って来たとも伝えられる。 現在は地区にての管理とされる。 |
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| 太郎渕 | 渕跡を公園風にしてありますが、かつては猿ヶ石川が流れており、子供達の絶好の水遊び場でもありました。 遠野物語でも記述されているとおり多くの河童伝説が残され、そのひとつ太郎という男河童が住み、近隣の女達に悪さをしていたといわれております。 この渕の下流には女河童も住んでいたといわれます。 |
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| 諏訪神社 | 承久の変にて鎌倉方として出陣の阿曽沼親綱が、諏訪湖畔にて諏訪大明神の夢告によって、蛇妖を退治して神剣を賜り、横田城鎮護のため勧進したのが始まりと伝えられる。 | ![]() |
| 清心尼公の墓 | 八戸氏(遠野南部家)第21代当主、女殿様として名高い清心尼公の墓とされる。 八戸から本家である南部藩主、南部利直(叔父)によって遠野移封を命ぜられ、よく家臣をまとめ、さらに暗黒時代の様相を呈していた遠野を安定に導いた名君として今に語られる。 |
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| 阿曽沼歴代の碑 | 一応に文治5年から慶長6年(5年)の長きにわたり、栄枯盛衰の習いとはいえ、4百年余遠野郷を治めた阿曽沼氏歴代公を顕彰し、阿曽沼氏ご子孫、関係者、光興寺地区の方々によって建立されたものである。 | ![]() |
| 登戸 | 遠野物語第8話「神隠し」の話しにての「寒戸(サムト)の婆」の舞台と思われる登戸付近の風景。 柳田國男の真意はわからないが、寒戸という地名は明治末頃も遠野には確認できず、登戸を聞き間違えたか、あえてサムトと置き換えたかは不明である。 今も昔も高清水山から吹き降ろす風は強い場所でもある。 |
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| 名称・場所 | 由来・説明 | 画 像 |
| 小松長者の墓 八幡霊園内 |
慶長年間の人とされ、小友村堂場にて金脈を掘り当て、産金の功によって三戸南部当主(盛岡)南部利直に召抱えられたという。 なお、小松は苗字ではなく名前と伝えられている。 |
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| 白幡神社 さすらい地蔵 新張 |
以前は水神様を祀り、川八幡とも呼名されていたといわれる。 境内には「さすらい地蔵」も鎮座している。 |
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| 遠野郷八幡宮 | 松崎宮代にあった八幡宮を寛文元年(1661)現在の地へ遷営したと伝えられる。 遠野郷を代表とする神社である。 |
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