畿内における奥州史、伝説探訪
関西旅行にて(2004、10月)
平成16年10月6日〜8日(2004)、職場の研修視察旅行に同僚達と出かけましたが、7日の一日と8日の午前中、単独行動をとり、関西における東北関連の史跡探訪と我家の伝説の根源を触れるの二点に絞り、7日は大阪阿倍野神社、堺市石津においての南部師行公(南北朝期)と枚方市牧野にての阿弖流為、母禮(古代東北)の首塚を訪ね、さらに翌日は、我家に伝わる「松虫・鈴虫伝説」の根源と思われる京都市鹿ヶ谷の浄土宗寺院、住蓮山安楽寺(松虫・鈴虫物語)を訪ねてまいりました。
10月6日(火)、花巻空港JAL便10時35分発の大阪伊丹空港行きの飛行機に搭乗、岩手県地方の天候は曇り空、約1時間半のフライトで伊丹空港には12時に無事着陸、まずは空港内のレストランで昼食をとり、直ちに研修先の兵庫県神戸市へ移動(バス)、阪神・淡路大震災の記念館にて研修視察となり、夕方、宿泊地である大阪難波(ミナミ)に移動し、まずは関西での一日目を消化とあいなりました。
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| 花巻空港を離陸・・・あいにくの曇り空 |
花巻〜庄内(山形県)〜新潟〜松本〜名古屋〜・・
遠く富士山を望む・・・ |
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| 着陸態勢をとると大阪の街に飛び込むように |
大阪城をかすめ伊丹空港へ着陸・・・天気は薄曇 |
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おまけ
見知らぬ夜の街、それは男の浪漫が存在するただならぬ魅力がつきものである。
ネオン煌くその風景は人々の思いが交差し、その葛藤が闊歩し、底知れぬ魅惑が田舎者の脳裏を直撃するのである。
大阪ミナミ、道頓堀・宗右衛門町・・・ただ歩くだけでミナミの帝王か演歌歌手きどりである・・・笑
「とらねこはん」・・誰も私のことは知らない・・「おっちゃん、若くて良い娘いるでっ、」・・俺はおっちゃんか・・・怒
しかし、この雰囲気がたまらない・・久々の夜の探検隊は男の浪漫を感じずにはいられない・・。郷土歴史家もどきも形無しであるが歴史は夜作られるものでもある・・笑 |
南部師行公、南朝の忠臣
遠野南部家第四代(波木井南部氏〜八戸根城南部氏)
※厳密には師行公は南部宗家の出とされ、八戸初代は弟の南部政長公であると私は考えています。
10月7日(水)晴れ
大阪道頓堀のホテルを8時15分にチェックアウト、サイトリンクいただいている南北朝関連サイトの管理人さん達にそのゆかりの場所と共にアクセス情報もご教授いただいておりましたので迷うこともなく行き着くことができました。
まずは難波から南海電車に乗り、一路安倍野神社をめざし、岸里玉出駅にて下車、東方向へと進むと徒歩約5分、阿倍野神社に到着です。
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阿倍野神社は若き陸奥守、北畠顕家卿ゆかりの神社であるが、建武親政後、足利尊氏が京都を占領、後醍醐天皇より尊氏追討の命を受けた北畠顕家は、奥州軍を率いて足利方を各地で撃破して上洛を果たし、足利尊氏は九州へ落ち延びた。
しかし、足利尊氏は九州から大軍を率いて再び京都を伺うと楠正成は討死に、新田義貞も敗れると、再度、顕家卿は奥州軍を率いて鎌倉を落とし、各地で北軍を撃破する快進撃を見せ、その中の幕下に南部師行公の姿もあった。
しかし、南軍である奥州軍も連戦で疲弊し、兵員の補充もなく、ついに尊氏配下の高師直の大軍に阿倍野で大敗し、顕家卿は若い命を戦場に散らすと、南部師行公も討死に覚悟で北軍へ突撃し討死にされたといいます。
阿倍野神社勲之宮は南朝のために戦い亡くなられた南部師行公とその一族、郎党を御祀りしております。 |
勲之宮
勲之宮
南部家家紋「南部向鶴」
南部師行公に関しては拙サイト「奥州虎猫舘・遠野南部氏物語」にてのコンテンツにてご紹介しておりますので、ご参照ください。
上の案内板、少し誇大的な要素もございますし青森県八戸市もそうですが岩手県遠野市も多く語られる所伝を鵜呑みにしすぎではありますが、北畠顕家卿に率いられた南朝奥州軍は、五万とも十万とも語られます。その数値はおそらくその十分の一位だったものと思われます。また戦いは鬼人の如き奥州勢とも伝えられておりますが、その強さは本物だったと私は思っております。しかし悲しいかな遥々奥州の地からの遠征で兵は疲れ、南朝方の補充も無く、最後は悲壮的な戦いを挑み敗れ去ります。
主だった奥州軍では総大将の北畠顕家卿と南部師行公のみが討死であったとされますが、伊達や結城といった主力は吉野へ逃れたとされ、大合戦であったが一方が全滅に近い戦いではなかったのが当時の合戦でもあります。
しかし、南部師行公がこの摂津の地で亡くなられたことは史実と思われ、二度と奥州の地に帰ることはありませんでした。
家族を奥州に残し、戦場の露と消えた南部師行公とその兵、勲宮では感無量といいますか、底知れず何か胸を打つ思いでもありました。
大阪府堺市石津
南部師行公戦死の地
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阿倍野神社からは、阪堺電車(路面)にて移動。阿倍野神社から東側の北畠から乗車し一路、堺市の石津を目指しました。
画像は大阪方面へ帰る電車です。
途中の駅、我孫子道で浜寺駅前行きに乗り換え、石津駅にて下車、西側に向い太陽橋を渡って左手(東)に供養塔の石碑はございました。時刻は確か9時45分でした。
10時30分までその場に佇み、帰りは恵比須町行きに乗車、途中の住吉大社前にて乗り換え、天王寺まで行き、JRに乗り換え、京橋で下車、京阪電車にさらに乗り換えて次の目的地へ向いました。 |
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旧紀州街道という石碑が脇に立っておりましたが、阿倍野で敗北を喫し、奥州軍の一部はこの地に集結、南部師行公は、この地で北畠顕家卿の戦死を知ったと思われ、配下の兵と共に最後の戦いを挑んだが遂に石津にてその生涯を閉じます。
石碑には北畠顕家卿と南部師行公のお二人の名前が刻まれておりました。よく整備され、清掃もされていて、かの地で大切にされていると知ると安心いたしました。おそらく地元の方々によるものと思われます。
手前には師行公600年忌にて建てられた顕彰碑がございます。一部欠損ではありますが文字は読むことができます。建立者は遠野南部家第36世、男爵南部日實氏とあります。
遠野からも何かしら石碑に対する志か整備にかかる表に出る援助が必要ではないでしょうか。 |
阿弖流為・母禮の首塚
古代東北の英雄アテルイ・モレ
正午、大阪京橋から京阪電車準急に乗車し、大阪府枚方市牧野を目指す。
牧野駅にて下車後、まずは東口で出ると片埜神社の看板が目に入り、記憶の中に神社脇の公園が思い浮かび、まずは片埜神社に行ってみようということで徒歩で片埜神社へ歩み始める。
何処でどう間違ったのか、前方に公園風の広場がある、あそこかもしれないということで、歩みを速め公園内突入となったが、石碑とか墓石らしいものは何もない。公園内で子供と遊ぶ若いお母さんに声をかけたら、逃げられた。すぐ追いかけて謝ると、立ち止まってくれた、「仙台から来ましたが(岩手では通じないと思った・・汗)この辺に塚といいますか、墓石みたいなものはございますか」「はぁ〜、わからへん」「そうですか、すみませんでした」ほとんど相手にされていないと感じる。次にもう一度駅に行って見る。今度は片埜神社の場所を優しそうな年配の男性や女性に聞いてみた。・・・ところがなんて読むか迷った。片という字が読めない、「こうのじんじゃ」といってしまった。ついでにアテルイの墓知りませんかも聞いた。「どこやねん、しらんわ」思わず看板を指差すと「かたのじんじゃやん」「かたのじんじゃでした」何故か謝っている自分。しかし、早口ながらなんとか場所の行き方は教えてくれたのでした。
商店街を抜けると、牧野公園とある。奥には片埜神社らしい神社もある。まずここに間違いない。公園の中央にこんもりとした土が盛ってある場所もあり、大きな木も生えてある。あそこだっ、墓石らしいものも建ってある。まずは写真を一枚。ついでにベンチに座って読書している女性に声をかけ、「あの墓石みたいなものはなんですか」と訪ねると、「ようわからへんが、神社に説明板あったな」の返事、お礼を言ってまずは、片埜神社へ行くも阿弖流為の文字は探すことはできませんでした。神社の方に聞くのが一番ではございましたが、東北人の私としてはこれ以上、現地の方へ声をかけるのは躊躇してしまい、再び塚らしい場所に向かっておりました。それは私が内向性の性格であるが故でもありますが、以前何かのサイトで阿弖流為没後1千2百年を境に阿弖流為復権運動といいますか、阿弖流為英雄説が湧き上がり、岩手県水沢市により顕彰碑建設が示唆されたそうですが、確証もない場所に顕彰碑建立は望ましくないとの声多数で京都清水寺に建立されたというものでした。このことを思い出した為でもあります。しかしせっかく訪ねたことでもあるので、じっくりと傍で拝見しますと供物があったり、周りはトラロープで囲ってある。墓石みたいなものはただの石みたいであるが何か字が彫ってあった雰囲気も無きにしもあらず、とにかく雰囲気は十分でありました。
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河内国杜山・・・阿弖流為が斬首されたと伝えられる場所である。いずれにしろ現大阪の何処か、京都に近い場所で斬首されたと伝えられる阿弖流為、母禮の二人。
度重なる朝廷軍の東北侵略に対し20年近くも抵抗し、最後は征夷大将軍、坂上田村麻呂に降伏、京都に連行され斬首されたと伝えられている。
阿弖流為に関しては拙サイト「奥州虎猫舘・奥州炎伝コンテンツ、プロローグ」をご参照ください。
阿弖流為・母禮も故郷を後にし、二度と東北へ帰ることは叶わなかったのである。田村麻呂に騙されたのか・・怨念の場所かもしれません。
こちらも現地の方々によるものと思われますが、きれいにされておりました。ただし阿弖流為に関連するといった確証は未だわかってはいない。 |
片埜神社
さて、歴史探訪は正午までと同行者に約束しておりまして、午後早くには比叡山にて落ち合うことになっておりました。
しかし、時刻は2時近く、電話も何度かきておりまして、間に合わないし、既に比叡山も大半は見学したとのこと、仕方ないので今夜の宿泊地、京都にて落ち合うことにして、再び牧野駅から京阪に乗って京都を目指しました。
夕方早く京都入りし、タワーにてお土産を買込んで自宅へ送り、その後はタワー地下の大浴場にて汗を流して、後はレストランで生ビール・・「キェ〜・・効く〜」。
本日の宿泊は前日ニューオープン仕立てのホテル「アパウ゛ィラ」なかなか良かったです。
同僚と合流後は先斗町に繰り出して京の夜を満喫いたしました。夜の探検隊はなし。
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| 夜の京都タワー・・・ |
阿倍野神社
大阪府阿倍野区北畠
松虫・鈴虫物語
我家の伝説「松虫・鈴虫伝説」関連
京都府京都市左京区鹿ヶ谷 浄土宗 住蓮山安楽寺
10月8日、かねてより安楽寺伊藤住職様に連絡しておりましたが、8日の午前中に訪問ということで、雨の降りしきる中、タクシーにて安楽寺に向いました。
前夜は同行者達とけっこう遅くまで飲み歩いたせいか二日酔い気味、また台風が接近中ということで雨模様と、コンディションはもうひとつ、それでも朝8時00分ホテルをチェックアウトし、京都駅にてタクシーを拾い、一路安楽寺を目指しました。
午前8時30分頃、雨の降りしきる中、安楽寺に到着、早速山門をくぐり、庫裏の玄関を訪ねると伊藤住職が応対くださり、本堂にあがるよう言われ、本堂へ入りました。
平成13年、家族で京都を訪ねた折、最終日、単独にてバスと徒歩で安楽寺を訪ねたことがございました。我家の伝説をお伝えし、できれば何かしらのつながりを持てればとの思いでもありましたが、寺の公開日が時季によって決まっているらしく、またアポなしで訪ねたこともあり、さらに何ひとつの確証もない我家の伝説を受け入れてくれるだろうかと不安でもあって、山門と案内板の画像を撮影したのみで帰ってきた経緯がございました。
同年の8月、安楽寺をネット検索すると安楽寺さんがホームページを開設されたとの情報が飛び込んできました。早速、メールにて仔細を送付しますと翌日には伊藤住職様からメールでの返事、返信に自宅の電話番号を付して送りますとその翌日には直接電話があって、色々とお話ができたことを思い出します。
電話で即、10月末に遠野へ伺いますとのこと、拒む理由もなく、住職様訪問の日が待ち遠しい日々でもありました。
住職様訪問の一週間前、住職さまとの語らいを一番楽しみにしていた父が突然倒れ、そのまま盛岡の病院に入院というアクシデントに見舞われましたが、それでも私と家内で訪問日、伊藤住職様をお迎えし、我家の菩提寺福泉寺を御案内、福泉寺住職様をはじめ親戚多数にて歓迎会を催しました。
翌日は遠野市内はもとより江刺市、花巻市を御案内して夕方の飛行機でお帰りになるまで御案内のつもりでしたが、午後、父の入院先の病院より緊急連絡が入り、途中で伊藤住職様の御案内が叶わなくなり、たいへん心残りでもありました。病院では担当医師から父が癌であり余命一ヶ月ももたないであろうと宣告されました。
伊藤住職様には我家の伝説にての確証も感じないまま、また私の方の事情で途中でしたが御案内ができなくなったことにより、たいへんご迷惑をおかけしたこと、たいへん心苦しいものでもありました。この訪問がひとつのきっかけでさらなるお付き合いのはずが長い間、それほど親しいお付き合いもできないままでもありました。父は翌月、地元の病院に転院後、間もなく亡くなりました。
その後、伝説の検証的な内容をアップしたりもしましたが、なかなか史跡、痕跡、古文書もない我家の伝説、その調べは雲を掴むような内容で暗礁に乗り上げたままでもあります。今回の久しぶりの訪問、対面でその励みになればと願ってのことでもあります。しかしあいにくの雨模様、時間的にも最大2時間の滞在時間という制約もございました。
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安楽寺山門・・・
住蓮山安楽寺・・・浄土宗
鎌倉時代、建永の法難という事件が勃発,法然上人、親鸞聖人は流罪、住蓮坊、安楽坊は斬罪という厳しい処分となりましたが、流罪から解かれた法然上人によってこの地周辺に住蓮、安楽両上人の菩提を弔い一宇を建立。住蓮山安楽寺と名づけられ、延宝8年(1680)に現在の地に移され現在に至っております。 |
本堂にてあらためましてご挨拶をいたした後、安楽寺の起縁のお話、松虫・鈴虫物語、本堂安置の木像、ご本尊、その他の仏像等の説明を受け、書院にて色んなお話をいたしました。
時間の都合上、また住職様も10時30分には法事のため出かけなければならないご都合もあり、住職様のお車にて最寄の地下鉄駅までお送りいただきました。またお土産までいただき感謝申し上げます。ありがとうございました。
東海道新幹線にて一路東京へ向い京都を後にいたしました。
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松虫姫・鈴虫姫供養塔
本堂には両姫と住蓮、安楽両上人の木像が安置されております。 |
松虫・鈴虫物語
この物語は鎌倉初期の物語でもあります。今から800年前、浄土宗開祖、法然上人の有能な弟子であった住蓮坊と安楽坊の二人の僧が鹿ヶ谷のあるところに「鹿ヶ谷草庵」を結ばれ布教の拠点とされたそうです。
住蓮、安楽のお二人は、元々は名のある武士であったといわれますが、ひとたび仏門に帰依するや、めきめきと頭角を現したのでした。
お二人は唐の善導大師の「往生礼讃」の経文に抑揚や節回しをつけて、六時礼讃声明を完成させたことから我国における浄土礼讃の創始者でもあるといわれております。
お二人は美声の持主でもあり、美しい響きの礼讃声明は人々を魅了し、参拝者のなかにはその美しい声に惹かれるもの、専修念仏の教えに心惹かれて仏門に入る者もありました。その中に後鳥羽上皇に仕える女官、松虫姫、鈴虫姫の姉妹もおりました。
両姫は容姿端麗で教養もあり、上皇から特に寵愛を受けていたといわれ、他の宮中の女官からは羨望と嫉妬を受けていたと伝えられています。しかし両姫は虚飾に満ちた御所の暮らし苦悩し、日々心の平穏を願っていたとされ、いつしか出家を望むようになったそうです。
建永元年(1206)12月、後鳥羽上皇は紀州熊野参詣のため、御所を行幸されますが、その留守に出家するならば今において他はないと心に決め、御所を抜け出し鹿ヶ谷草庵を訪れます。両姫は住蓮、安楽のお二人に剃髪染衣を願い出ますが、松虫姫19歳、鈴虫姫17歳のうら若き女官の出家を思いとどまるよう説得しましたが、両姫は悲壮な覚悟である心中を察すると心を動かされ住蓮坊が松虫姫を安楽坊が鈴虫姫をそれぞれ剃髪し、南都、北嶺からの弾圧を考慮して紀州の粉河寺に身を隠します。
この出来事を知った後鳥羽上皇は激怒し、法然上人一派への弾圧を企て、翌年の建永2年2月9日正午頃、松虫姫を出家させた住蓮上人を近江国馬淵(近江八幡)で、さらに鈴虫姫を出家させた安楽上人は同日同時刻に京都六条河原においてそれぞれ斬首してしまいます。
法然上人は讃岐国へ流罪、親鸞聖人も越後国直江津(上越)へ流罪という厳しい処分となりました。この事件を建永の法難といいます。
両姫は住蓮、安楽両上人が斬刑に処されたことを知ると悲しみのあまり鹿ヶ谷草庵あたりで自害したと語られます。
最近、安楽寺ではその後の展開として、次の説を取り入れているようです。
両姫は紀州加太ヶ浦から船で瀬戸内海に浮かぶ生口島に渡り、光明坊にて斬首された両上人の菩提を弔い念仏生活の余生を過ごしたとされております。
松虫姫・元仁元年(1224)11月18日、35歳、 鈴虫姫・嘉貞元年(1235)4月29日、45歳でそれぞれ往生を遂げ、光明坊には法然上人、式子内親王、松虫姫、鈴虫姫の五輪供養塔があるそうです。さらにこの四名の木像が安置されている。
我家の伝説はまことに霞むことではありますが、上記の物語の続きとしての内容と思われますが、古に鈴虫・松虫という尼様が住んでいた。お二人は宮中に関係する高貴な方々でわけあって遠野へ流れついたとの内容です。
ただし、その尼屋敷と伝える場所と上記の言い伝えがあるだけで墓石もその痕跡もございません。
実はこの度の安楽寺様の訪問で、ほとんど何も感じないという思いでもありました。現実の世界とはかけ離れた内容ですが、もし繋がり等何かしらあるのであればそれなりに何かただならぬ雰囲気も感じられましょうが、松虫姫、鈴虫姫の木像を拝見もいたしましたが、ほとんど何も感じなかったのです。また供養塔では雨が強まり私の訪問を歓迎していないのではと思う場面もございました。
関西入りして、はしゃぎすぎて夜の探検ばっかりしているフシダラな奥州の輩と思われたのか、伝説はガセと認めよとの声なのか、それは家に帰ってきてから現れております。
実はお二人の木像を二枚ほど画像におさめました。しかし二枚とも写ってないのです。一枚は有り得たかもしれませんが、二枚とも・・・これは・・・ただひとつ救いといいますか、まだ諦められないことがございます。安楽寺書院に百合の花の絵が飾ってありましたが、両姫は百合がたいへん好きであったといわれております。
我家の伝説の地、宮洞・・福泉寺境内は山百合が咲き乱れるお寺さんでもあり、夏の時季、この山百合が何かを話しかけるような雰囲気もあり、この百合でのつながりがひとつの励みでもあります。
まだまだ伝説探求は諦めずに続けて参ります。
前半はまあまあの天候、後半は台風の影響で雨模様、それでも台風に巻き込まれる寸前に帰還を果たしました。
次回は探訪は・・果たして何処なのか・・・
以上
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