女大名 清心尼公
男尊女卑の徳川時代にあって、全国三百諸侯で只一人、遠野南部家に女殿様が居たということ、希少価値からしても、またその治世の事蹟からしても歴史に残る殿様として今も語り継がれております。

表題には女大名としております。遠野南部家は実質は南部藩旗下の家臣的立場ではありますが、藩当局から南部宗家と同等の家格で諸侯の観があり南部家高知筆頭で別格諸氏の扱いを受けておりました。遠野領治世はいわば遠野南部家に一任し、南部藩の支藩とも受け取れる内容にてあえて大名と記述しております。

根城八戸南部家(遠野南部家)第21代当主、清心尼公・・・甲州波木井時代、初代実長公からはじまる遠野南部家36代のうちでも、第4代南部師行公、第5代南部政長公、そして信政公、信光公、政光公と第8代までの勤皇五世は別格としても遠野治世における第一の名君として名を残しております。
女大名誕生 遠野側の所伝から・・・
根城八戸南部氏は、南北朝時代から戦国期までは、北奥羽における惣領的立場を堅持していたと思われますが、戦国時代中期頃には三戸南部氏(盛岡)が台等、惣領権も三戸南部氏へ移行したのではないかと論ぜられております。
惣領権が完全に三戸南部氏へ移ったのは豊臣秀吉による小田原攻め、そして奥州仕置によるものは確実と思われますが、この時の第18代八戸氏当主、八戸政栄は小田原参陣の三戸南部氏、南部信直の留守居役となり津軽の大浦氏(津軽為信)、九戸の九戸政実の動きを牽制し南部信直の小田原参陣を陰で支えたため、八戸氏は完全独立の機会を失い八戸領を含む北奥羽10郡は三戸南部領となり、八戸氏は三戸氏の附庸となりました。
この時代、南部家にとっては数少ない平野部の津軽地方が大浦(津軽為信)氏によって奪われたことによる争い、三戸南部家の後継争いで確執が燻っていた九戸政実の動き等、他の奥州諸大名と同じく内外に憂いがあり、とても小田原参陣どころではなかったが、中央の動向が伝わり難い奥州の片田舎であっても豊臣氏の権威は日増しに伝わり、長いものには巻かれろの例えではないが時代の流れを見据えていた南部信直は小田原参陣を決定、その陰には八戸政栄の協力なくしては叶わなかった事柄でもあります。
八戸政栄も嫡男直栄を信直に随伴させて所領安堵を図ろうとしたが、所領安堵は南部信直のみに与えられ、この時点において八戸氏は三戸南部家の傘下に組み入れられたことになります。
三戸と八戸両南部氏は、北奥羽にて互いに覇を競ったわけでもなく、協力関係を維持しつつ共に家は繁栄した経緯があり、また小田原参陣にて三戸氏の旗下に甘んじた原因は南部信直を近世大名を押上げた八戸政栄の功でもあるので、表向きはともかく、八戸家を対等に扱い、従来の八戸南部家領を安堵し、さらに信直のひとり娘、千代子を政栄の嫡男、八戸直栄の室として嫁がせその古よりの縁をさらに深めることに努めました。
天正19年、豊臣秀吉の応援を受けて九戸政実を滅ぼし、ついに南部領を統一した三戸南部家はその後も八戸氏を同等の家と扱い共に徳川時代へと入りますが、八戸家を継いだ第19代八戸直栄と千代子の間にはネネ(後の清心尼)が生まれますが、男子がないまま直栄は病死してしまいます。その後、直栄の弟、八戸直政がネネと結婚して第20代を継承しますが、慶長19年、徳川家康の子、松平忠輝の居城が越後へ築かれることになり、その築城奉行に八戸直政が任命され任地に赴きますが、病を発し若い命が奪われます。

遠野側では・・・
この任命は徳川家康(秀忠か?)が八戸南部家が盛岡南部家の家臣的立場にいる境遇を気の毒と思い、築城の功に依り・・・という名目で独立大名に取り立てようとの意図があったと伝えられております。またその意図がなかったとしても無事大役をこなせば独立大名への道が開けるものだったともされていますが・・・南部信直の跡を継いだ南部利直は八戸家独立阻止の目的で直政を毒殺したのではないか・・・この話を信じていた人々は昭和のはじめまでけっこう遠野には居たとされています。それに加えて同時期に八戸の国許では直政とネネの嫡男、久松君が2歳の幼児でしたが変死を遂げるといった事柄があり、どちらも南部宗家の陰謀と噂され、八戸家の完全接収を画策したものではないかと永い噂の種となったものとされております。

夫である八戸直政、嫡男の久松君が亡くなり、未亡人となりその上後継たる男子もないとなるとお家取り潰しの可能性もありましたが、南部利直とネネは叔父、姪の間柄でもありネネの母は利直の実姉でもあることから、流石に八戸家取り潰しを躊躇したのか、南部利直は南部家家臣で名族の毛馬内左近をネネの婿養子としてその跡を継がせようとしたが、ネネはその話を聞くとすぐに髪を落として再婚の意思がないことを伝えたため、南部利直は苦笑して「暫くは女亭主で支配せよ」と命じだので、これが空前絶後の女殿様の誕生となりました。


南部利直と八戸氏(遠野南部氏)
八戸家の取り潰しは三戸(盛岡)南部家との古からの縁と利直、ネネ、先代室の千代子との血縁関係にてなんとか免れたが、南部利直には八戸併合の野望があったとされ、この野望を捨てたわけでもなかったと伝えられています・・・遠野南部家側憶測
利直はネネ(清心尼)に女亭主として家名は存続させたが、内心は何処の大名家でもありがちな代替わりの時は、必ずといってよいほど内紛が勃発しお家騒動となる。ましてや女亭主の八戸家は収拾もつかないお家騒動に発展し、女亭主では解決不能とみた家臣達、あるいはネネ自身が叔父である利直にその処理を頼むに違いない、その時こそ、八戸家を取り潰すか八戸領を完全接収するのも思いのまま・・・・・そんな思惑があったとされております。
ところが根城八戸家ではネネの下、家臣団、領民まで一糸乱れず微動だにしなかったとされ、利直の思惑は見事に予想外の展開となった。
しかし、南部宗家の当主として、また戦国時代の武将の名残りを残す南部利直はただで引き下がる人物ではなかったようで、ネネの姫達、福、愛の姉妹があることに目をつけ、姉の福は利直嫡子の政直の室、妹、愛には三男の利康を婿養子として将来は兄弟二人で南部領、八戸領を統治し事実上併合することを思いついたとされます。この噂が流れると早くも八戸家では、波木井以来の血筋が絶えてしまう危機感にて、分家である新田直義が第一の婿君であると家中で決め、これをうけてネネは三戸城の南部利直を訪ねその許しを乞うたが利直に拒否され、その後の目通りは叶わなかったとされています。しかし、ネネはそのまま三戸城へ留まり三日三晩目通りを懇願し、ついに利直は折れ、「勝っていたせ」の言い捨ての許可を与えたと伝えられています。
八戸家は新田直義がネネの二女、愛(千代)の婿養子となって八戸南部家第22代を継承、ネネすなわち清心尼公の女当主としての在位期間は慶長19年から寛永4年までの14年間が公的なものとされております。


しかし、南部利直は八戸併合の機会を虎視眈々と狙っていたともされ、根城八戸南部家が室町期に実力で切り取った田名部(下北)を清心尼より返上させ、さらに八戸家にとっては死活問題となる遠野移封が利直から直義へ持ちかけられ、家中騒然、豊穣の八戸2万石から南とはいえ山間僻地たる1万石余りの遠野への転封は、南部宗家軍を迎え撃って武門の名を残すとまで家臣の一部にいわしめるほど憤慨する内容でもあります。(詳しくはコンテンツ遠野移封参照)
冷静な清心尼は利直の考えを分析し、当家の謀反をはじめから勘定に入れ、謀反でも起こせば一気に滅ぼす所存ではないか、滅ぼされるのが嫌なら命に従え・・・どちらに転んでも八戸家滅亡、弱体を意味しますが、ここは甲斐源氏波木井南部家の命脈を守るのが第一と、自ら進んで移転の支度をはじめたので家臣達も仕方なく渋々とこれに従ったと伝えられています。
後年になってこの時の判断を賞賛する声が遠野では多く聴かれたとされ、清心尼公の英明に感嘆したといいます。



遠野に国替えとなった八戸家は、早期に当主、八戸直義夫妻が盛岡に遠野屋敷を与えられ盛岡住いとなり、いわば南部利直の人質的な意味合いがありますが、表面上は若輩の直義を利直自らが領主としての政治全般を指導するというものだったそうです。当主不在の遠野は先代である女当主、清心尼公が中心になって治世を行うことになり、一族、重臣に支えられながらその統治はさらに17年間の長きにわたったものであります。


清心尼公の遠野統治
男尊女卑の武家社会にあって遠野では女性尊重、女権の確立の政治を打ち出していたといわれております。これがために遠野は江戸期以来、男女の風紀がとりわけ厳しく、また他の地域と比べて一種変った施政がありさらに興味をひく内容でもありますのでご紹介いたします。

箆(へら)持制
箆とは・・・しゃもじのこと
箆持制は清心尼公の施政のひとつで、箆・・すなわち飯を盛る道具ですが、これを持っているということは一家の大小、富裕に関わらず台所の全権を握っていることを意味しますし、強いては家内全般の全権をも凌駕するほど強い権限でもあると遠野ではいわれていたようです。もちろん日本各地でも伝えられる内容があり、特に関東方面にもみられるといわれますが清心尼公はこれを大きく取り上げ政治的にも大きく利用したことに意義があるとされています。清心尼公は「一家の主人が公儀の御用を勤めることについては、いかなる理由があろうとも家内は一切口出ししてはならない、その代わり家庭内の事は主婦が一切を取仕切り、後顧の憂いがないようにする・・・」「主人の公の仕事については口出ししないが、その代わり主人は家庭のことは主婦に任せて主婦の言うことを聞かねばならない」・・・・遠野では旦那が仕事に打込み、家庭の心配はない状態で懸命に働く、妻はそんな夫が安心して働けるように家を守ること、しかし夫は仕事を離れて家に居る時は妻のいうことを聞かねばならない・・とも受け取れるカカア天下であります。その後武士階級から町人にも広がり、特に農民にとっては仕事内容が男女の区別がないものですから、妻の権限が強まり、婿養子ともなれば夫は一生頭があがらず墓に入るまで婿と呼ばれることにもなったようです。
他地域では、遠野はカカア天下で、夫はもっきり(一杯酒・・・酒を器に盛り切り注いだもの)ひとつ飲むのも妻の許しがいると冷やかし半分に噂していたと言われております。

こばなし・・・
「粟まき」という詞があるそうですが、これは舅と息子の嫁との密通しているという隠語ということでその基となった話です。
ある農家で夫婦と息子の嫁との三人で畑に種まきに行ったという。夕方になって主婦が晩飯の支度で一足早く帰ることになったが、そこで主婦は旦那と息子の嫁に「粟まいて、へいのこせや」の言葉を残して家路についたそうですが、この意味は「粟をまいて、稗を残せや・・・稗(ひえ)は遠野では へぃ といい、そこで舅と嫁は「へぃのこせや」を勘違いして例の行為に及んだとされるものです。妻、そして一家の主婦の言うことは聞かねばならないとの思いで事に及んだというひとつの証拠たるこばなしでもあります。


※へぃのこ・・・・男女が合体する行為
清心尼公のイメージ
遠野さくら祭り、遠野南部氏遠野入部行列から・・・
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