
遠野女大名・清心尼公 弐
清心尼公をめぐる人物伝
八戸根城関連
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八戸 政栄 清心尼祖父 |
根城八戸氏第18代、弾正少弼、薩摩守政栄(まさよし)。新田左馬助行政長男であるが、本家八戸家を継承。よく封を堅持し、三戸南部第26代南部信直と同盟し、南部氏の小田原参陣の際は不穏の九戸政実、大浦為信(津軽氏)の抑えとして、南部信直の留守を守るも、これにより八戸氏は南部家附庸(旗下)とされたが、南部信直を近世大名に押し上げた大功労者である。南部信直は八戸氏を同等に扱い、所領はそのままとし、八戸氏は八戸から下北半島に至る広大な八戸領を支配、諸侯並みの実力を有した。 慶長15年正月26日逝去(1610)67歳、晩年は盲目に近かったと伝えられる。 |
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八戸 直栄 清心尼 父 |
八戸政栄の子、八戸氏第19代、彦次郎 弾正直栄(なおよし)。 室は南部信直の娘、千代子姫。父政栄と共に南部信直を助け、信直も直栄をよく評価していたが、文禄4年8月病没(1595) 35歳。生来病弱で風雅を愛し、和歌、連歌に長じた文化人でもあったと伝えられる。 |
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千代子 清心尼 母 |
南部家第26代南部信直の公女、八戸第19代八戸直栄の室。 (八戸おち) 南部家27代、南部藩主、南部利直の実姉。 父信直からは娘千代子姫を気遣う数通の書状が確認できる。 (遠野南部家文書) |
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八戸 直政 祢々 夫 |
八戸氏第20代、三五郎、左近直政。政栄二男。 兄直栄急逝により家督相続、この時、9歳とされる。父政栄の後見のもと、南部信直、さらに利直に従い、慶長5年7月最上へ出陣、岩崎一揆に従軍。慶長17年将軍秀忠に謁見し太刀、栗毛馬を献上。同19年春、越後高田築城普請に利直名代として出向、同年5月13日現地にて病を発し、国許八戸への帰還途上、越後椎谷峠にて病没。(1614)28歳。 |
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千代子 清心尼二女 |
女子(めご)、千代子 八戸直義室(結婚は14歳とも16歳とも伝えられる) 松晃院 寛文元年(1661)7月25日逝去。 |
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八戸 直義 清心尼養子 娘婿 |
八戸直義→直栄(明暦2年1656改名)・八戸氏第22代当主、遠野八戸家初代弥六郎 八戸氏一族、新田 政廣の長子、幼名 佐渡。 室は清心尼二女千代姫。 元和6年(1620)12月、直義19歳、清心尼養子となり第22代継承。 寛永4年(1627)3月、遠野へ転封。 延宝3年(1675)1月30日没、数え年74歳 |
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八戸 義長 直義嫡男 清心尼孫 |
八戸直義、千代夫妻の長子。寛永18年(1641)7月18日生 遠野八戸家第2代。幼名佐渡三五郎。室は北氏女。 元禄元年6月28日没、享年48歳 |
他に八戸 頼母・・・附馬牛八戸家(遠野八戸家分家)2千石
八戸直義二男、義長弟
清心尼治世の遠野事績
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年 代 等 |
事件・出来事等 |
概 要 |
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寛永4年 |
遠野村替 |
正月3日、年始の例日、南部利直の居る三戸城へ登城。利直より遠野への村替を示唆される。 同年3月7日八戸根城出立、同月10日遠野横田城(鍋倉)入城。 |
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寛永年間 |
田瀬の馬泥棒事件 |
南部家遠野城代時代での未解決事件、田瀬の馬泥棒犯を仙台領にて確認、伊達藩にて捕縛、五輪峠にて引渡しを受けて犯人を処刑。 |
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寛永年間か? |
長田次郎左衛門殺害事件 |
簗奉行長田某が殺害され、鮎代金が強奪された事件、遠野城代時代の未解決事件であったが、3名の下手人の名が挙げられたが、行方知れず、犯人の一人鱒沢村生まれの者を捕縛して、処刑。 |
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寛永年間 |
土室の野武士平定 |
小友土室に住まいし、近隣に出没しては追剥行為を繰り返す、野武士の一団有り。葛西氏浪人といわれ、藩当局も苦慮したが、その追討に遠野八戸家が乗り出し、遠野家士杉岡十大夫政寧の説得により従順、葛西浪人佐々木氏は杉岡氏の家臣となったと伝えられる。 |
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寛永5年 |
小友赤坂金山争い |
赤坂金山をめぐる伊達家との境界争い。寛永19年、南部、伊達双方からの代表者が会し、藩境を確定し、解決。 |
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寛永11年? |
岡前宮内騒動 |
八戸以来の譜代の家柄、重臣岡前宮内の横暴が引金とされる事件と伝えられるが、家中分裂寸前で事は決着、宮内の切腹、お家断絶で終ったかに見えた。しかし、岡前一派と小笠原一派との第二幕の騒動が燻り、重臣達の処置は岡前家縁の者(岡安助)を召しだし、お家再興によって決着したと伝えられる。 |
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22代、弥六郎直義公の遠野治世は、寛永4年から逝去された延宝3年(1627〜1675)までの48年といわれている。
しかし、表面的な公的史実ながら、実は直義公は藩主、南部利直公の傍近くに置かれ、藩政の中枢におり、三戸後に盛岡住まいとなり、遠野領での直接統治は叶わず、隠居である先代、清心尼公が当主の代わりとなって、重臣達と政務に携わっていたと伝えられている。
清心尼公による実質の政務は17年間に及び、以前の八戸時代からあわせると31年とされる。
清心尼公の政治(伝承)
「箆持ち制」
主婦は亭主の役務については一切口出ししない、しかし、家内全般については全責任において成し、亭主にあらぬ心配はさせない。亭主は家内や台所は主婦に任せて一切これに従う・・・。
武士階級に主にみられたが、後に一般庶民、農民に波及し、女権の尊重につながり、一夫一婦制の確立、男女道徳観が強まったとされている。
清心尼公は伝えによると、自身の住居には男性は絶対いれず、家臣等と会見する際も必ず二名以上で来るように命じたので、政務における秘密事項が極めて低く、現代でいうガラス窓的な政務であったといわれる。
「片角のお叱り」
「片角のお叱り」は盛岡遠野屋敷での正月行事と伝えられている。
これは、日蓮宗に関連があり、遠野八戸初代とされる甲州波木井の波木井実長(南部六郎実長)の事績を組み入れた内容でもあるが、伝承は伝承として史実にて行われたものであるが、昨今の南部氏研究では、遠野南部家(根城南部)は波木井氏との系譜はほぼ否定されている。(青森県史・資料編、中世T南部氏)
よって創始が清心尼公時代とされる見解はほぼ否定されるが、二代義長公時代に身延山との交流がはじまり、その後の時代が創始であると思われる。
この「片角のお叱り」もまた綱紀粛正、風俗取締りの一端をのぞかせる内容で前記の「箆持ち制」と関わりから出た内容ではないのか・・と推察いたします。
参考図書、資料
三翁昔語・遠野市史@、A・新遠野物語(吉田政吉)
青森県史、資料編中世T南部氏・・・他
遠野女大名 清心尼公
概 略
清心尼
八戸家(遠野南部)第21代当主
八戸家第20代当主、八戸左近直政室で、父第19代八戸直栄、母千代子(南部信直女)。はじめ女子(めご)と称し、長じて祢々(ねね・禰々)と呼んだ。夫直政没後は剃髪し清心尼と称したと伝えられる。
太守南部利直からの書状には、三五郎内儀或いは八戸内儀、八戸かミ、としているが利直直筆による書状には、祢々、せいしん、とある。
夫であり八戸根城城主であった八戸直政が急逝すると間もなく直政との男子、久松が早世し嗣子がなかったが、宗家の南部利直に女当主として八戸家第21代継承を嘆願し、直政後家(祢々)を家督と認められた。
後に南部利直は、後室のために夫を迎えさせ、八戸家を継がせようと図ったが「たとえ禄を没収されようとも、貞烈の義に感じ、再び他にまみえようと思っていない。」と利直に対し言うと、髪を断って尼となった。戒師は法号を淨池院と贈ったが、人々は御貞節を賛美して清心様と称えたといわれる。
さらに利直は養子を勧めたと伝えられ、南部藩士のしかるべき家筋の者、さらに利直の男子のいずれかを養子として送り込む考えであったと伝えられますが、清心尼はこれを断り、八戸家は古来より後継無き時は、一門である新田家より入りて継ぐことを例となす。新田家には直義があり養子として迎え家督とする旨を申し出、また清心尼が強く懇願したため、利直も黙認し、清心尼の意志に任せ、元和6年(1620年)八戸直義が清心尼の養子となり、その娘千代子と婚儀して八戸家を継承した。
寛永4年(1627)宗家南部利直から遠野への村替え(国替え)を示唆され、同年3月、先祖伝来の八戸を後に閉伊郡遠野に移った。
遠野に移ってからは、当主である八戸弥六郎直義は、南部藩主、南部利直の命により盛岡城下に住まいしたため、遠野治世は前当主清心尼が主となり、松崎大学(比巻沢氏)、岡前宮内、広田太郎兵衛、作田主水さらに新田氏、中館氏、澤里氏等の重臣達と政治的に疲弊し荒廃していた遠野をよく治め、正保元年(1644年)逝去、59歳と伝えられ、墓所は松崎町光興寺に存在している。
(大慈寺に葬られたといわれるが、大慈寺は当初、光興寺跡(臨済宗・廃寺)に入り、後に大工町に移った。清心尼公の墓所は移らなかった。) 異貌清公(一本玉峰春光大姉)
