北奥羽中世史の疑問
南部氏・北畠氏・・・
北奥羽の中世史、さらに南部氏の歴史は、明治以来多くの先学によって研究がなされ、特に第二次大戦後は「遠野南部家文書」等を中心に新しい研究成果がみられています。
しかし、史料不足や従来の通説がいまなお語られている現状に於いては、古文書による解読による裏づけ、見解については一致を見ないのと、決定的なものとは至っていない分野でしたが、2004年刊行の「青森県史・資料編 中世1」の登場及びその前後の八戸市を中心としたシンポジウム等においても、青森県史での見解が急加速し、根城南部氏考察の岐路に至っているものと確信しております。
このコーナーでは、南部氏を中心に知識、研究不足ではありますが、私論なども交えて検証してみたいと思います。
なお、参考資料は「八戸根城と南部家文書、青森県史資料編中世1南部氏、北斗太平記(天・地)二巻、遠野南部家物語、遠野市立図書館所蔵の遠野南部家関連資料(写)等を参考といたしましたが、私は単なる歴史愛好者であり素人であることを申し添えます。
八戸根城南部氏(遠野南部氏)

系譜と奥州との関わり
甲州波木井氏関連
 上記の系図1、一の系図は現在も通説の形で引用されているものであるが、江戸時代に書かれたものといわれる。 

 南部一族の故郷とされる甲州(山梨県)巨摩郡の南部氏領地は、巨摩郡の南半分にあたる富士川渓谷沿いで実長を祖とする波木井系南部氏は、現身延町を中心に勢力を持っていたことが知られております。
 しかし、「甲斐国志」や身延山久遠寺「鏡円坊」に記される史料、伝承によると甲州南部氏、波木井氏共に戦国時代まで家が存続し、波木井氏系に至っては13代続いて大永年間、武田信虎によって南部宗家一族と共に波木井義美が攻め滅ぼされたとなっています。(武田氏の家臣として命脈を伝える南部一族もあり)
 
 上記の系図1、二の系図では、実長を祖とする波木井系は三流が存在し奥州に下向して後に八戸氏、遠野南部氏とつづくのは実長二男とされる実継の系譜で、嫡流は実長長男、長儀からとなっており身延山鏡円坊の建立は波木井宗家によるものとなっている。 さらに実長の三男とみられる実氏からはじまる庶流は加倉井氏とよばれる一族となっている。
  
 つまり、奥州に下向し南北朝を戦い抜き、北奥羽に当初君臨し、南部氏の惣領と目された根城八戸氏、後の遠野南部氏の第二代と伝えられる実継は嫡流ではなく二男ということになりますが、再三にわたり記述しているとおり、波木井系南部氏に南部師行、政長が養子となり、波木井家を継承したとされる形跡はみられないという見解が示され、このことにより八戸南部氏(根城)をめぐる系譜の見直しが図られているのが現状でもあります。

 (北斗太平記・大正十三造氏著)の説、さらに南部氏を紹介するサイト等でも取り上げられているが、波木井氏第3代とする波木井長継が安藤の乱にて鎌倉方として従軍、この時に奥州に何かしら繋がりを持ち、これにより波木井長継の養子となった南部師行、政長兄弟も奥州に至り、このことが後の陸奥南部氏の起源かのような見解を示しているが、前出のとおり波木井氏と師行、政長との関連は無きに等しいこと、波木井系南部氏の系譜を前面に打ち出した時代は、江戸藩政期となってからの近世であること、当時の八戸家が波木井氏の末裔であることを身延山側は認めていなかったこと、その存在すらも認識していなかったこと。さらに八戸氏(遠野南部家)は、南部実長公(波木井氏)の末裔であることを名乗ることにより、南部宗家すなわち盛岡南部家の分家としての家格を欲していた経緯が語られている。(青森県史・資料編 中世T・南部氏)(2004年10月青森県八戸市で開催のシンポジウム等)・・・・これは中世文書のみならず盛岡藩をはじめとする近世文書各種の研究でも明らかにされていることで、今後の南部氏の歴史等を語る上では避けては通れぬ信憑性のある見解でもあると思われます。

 いずれにしても、遠野側では、身延山とのつながりを持つことにより、波木井氏の系譜であることを認められ、以後大いに波木井南部の末裔、しかも嫡流で在るかの如くを広く浸透させた結果が近年語られる系譜であると考えられます。



南部師行、政長兄弟

 師行、政長兄弟は、元弘3年(1333)5月、新田義貞の鎌倉攻めには「政長奥州より馳せ参じ」の史料がみえ、政長は建武中興以前から奥州の何処かに居たとの見解があります。 南部師行に関しても、元弘3年の冬、北畠顕家に従っての奥州入りが史実としても明らかになっていますが、その直後の建武元年2月、三戸の「毘沙門堂」に個人名義で土地寄進している史実があり、また津軽の安倍祐季からの書状に「御上洛以後云々・・無為(無事)に下向云々」の文がみえることから、以前から糠部郡内に居て無事に京から帰ってきたのではとの解釈も成り立ちます。
 
 南部師行の奥州下向に関しての通説は、甲州から上洛し、北畠顕家に従って奥州下向、さらに八戸に1万石の所領を得て根城を築城というもので、今なお伝えられている通説である。しかし、この通説は江戸期からの通説であり、1万石イコール1千町歩の水田がはたして建武の頃に存在していたかが疑問であるという、五戸地方の当時を記した史料には62町歩の耕作面積だったことが明らかで、また南部氏奥州下向の疑問点のコンテンツでも触れてますが、津軽地方の豪族、曽我一族すべての所領は90町歩前後だったという計算もあり、師行が顕家の信任が厚く奉行検断職といえ、政変が成ったばかりで、旧領主等の所領配分等を沙汰している時代背景を考えるに師行に1万石を与えられるということは論外で江戸期による発想という見方が適当であるし、何よりもこの時代、米等の収穫高を石という単位での表し方はない。
 
 師行は三戸付近の自らの所領或いは得宗家北条氏の被官としての所領に郡奉行を設置、また糠部郡の奉行兼検断を勤めたのは正味一年半くらいの期間で、津軽へ転任したまま足利方の決起を迎え、八戸根城といわれる本格的な本拠地を築城するゆとりもなかったのではと推測もできる。
 さらに顕家から所望の村があったら申請するようにという内容の教書が存在するそうですが、申請した形跡がなく、僅かに津軽外ヶ浜「内摩部郷などの未給の村々」を与えられただけで、他に所領を与えられた様子はみられない。
 
 上記の三戸「毘沙門堂」寄進に関する記述では、当時新任の奉行が着任早々、個人名で土地の寄進をするということはあり得ない、ただ自分の所領なら話は別で自由だったと思われる。また安倍祐季からの書状にもあるとおり無事帰還したことに関して祝儀を受けている内容で、この書状の宛人は南部殿としか記載されてないとのことですが、安倍氏とは旧知の仲で、見参したいのに合戦のため挨拶に出向けないとの内容で、さらには当時武士の儀礼としては最高とされた鷹と鷹羽を贈っている様子から伺われます。
 
 南部師行は又次郎と称し、南部家においては次郎は嫡流を指すのではないのか・・という見解、南部師行、政長は、南部嫡流家の南部時実の孫、そして時実の子である二郎政行の子として行動していることが伺える。
 また当時はまだ長子相続の決まりはなく、有力な男子といった点からも師行は南部宗家一族の代表者として建武親政に参画したのではないのか・・・と考えられます。

 一方弟である南部政長に関しては、「政長、奥州より馳せ参じ」の記述からしても奥州から鎌倉攻めに加わったという見解が生じます。その後、どのような行動をとったかは不明な点もあり、新田義貞軍にそのまま加わり京都に上って宮廷警護の任にあったという考えも生じますが史料には認められないとされる。
 
 ただし、建武元年5月後醍醐天皇の綸旨には、甲州倉見山の所領安堵されたとなっている。
「甲斐国倉見山在家三宇 畠地 町屋等 南部六郎政長可レ令ニ知行一者・・・・」このことから京都に居たとされる説も存在し、建武元年10月から翌2年正月にかけての紀州飯森山の乱に出陣した南部殿が政長という所伝もありますが、北畠顕家下文によれば建武2年3月10日付であり、さらに北奥羽での持寄城の戦い(建武元年10月)にて師行と共に戦いに関係し七戸の要地を与えられている状況から早めに奥州へ戻っていたと推測されます。
 
 南部一族で新田義貞の鎌倉攻めに参陣したのは、甲州から南部時長(師行、政長の実兄)と子の行長、奥州から南部政長の3名だったことが「軍忠仔細」から読み取れる。
「時長政長等 於ニ御方一抽ニ軍忠仔細事  時長者 最前馳ニ参御方・・・略・・・愚息行長懸レ先・・略・・次政長 自ニ奥州一最前馳ニ参御方・・・・・略・・・元弘3年12月  日」大幅に略して短絡的な文となりましたが時長、政長兄弟は鎌倉に討ち入り、一族から犠牲を出しながらも、華々しい戦功をあげ、また時長には愚息行長が同行してこちらも華々しい戦功があったとなっています。
 
 政長兄の師行は、兄時長、弟政長とは行動は共にしておらず、同時期に三戸から上洛、推論ですが大塔宮や足利尊氏の要請に応じて上洛、後に北畠顕家に従って奥州へ帰還したものと思われる。

南部政長と入婿伝説
 
 八戸南部を語るうえで「南部の押掛け婿」というエピソードがある。「弥六郎義長(政長)」という若者が糠部に下向して来て、八戸の工藤氏の館を占拠して、未亡人を脅して娘婿になったというものであるが、何かの史実を伝えるものとの解釈もあり、あながち無視の出来ない伝承ではある。
 
 南部政長は通称六郎と呼ばれ、兄の師行亡後は八戸南部の基礎を固めている史実があります。
 一方、政長の長男といわれる南部信政の妻は津軽田舎郡の工藤貞行の長女「加伊寿御前」と所伝ではされており、その母は「尼しれん」といい、夫貞行の死後は家を守り、かなりの女丈夫とされています。この二つ説では工藤氏未亡人と娘の組み合わせなどあてはまる内容もあることから、中世北奥羽における南部氏の謎を解くキーポイントと成り得えるものですが、まずは私は次の説が信憑性があるのではと考えております。
 
 南部政長は兄師行の娘を娶り男子のなかった師行の後継となったものと所伝では伝えられている、しかし年が割りと近い兄弟、しかも二男の娘が三男の妻となったというのもうなずきにくいことです。政長の子と伝えられる信政が師行名代として建武3年に北畠顕家率いる西上軍に加わって上洛している史実からして師行は実の孫(信政)が成人し、さらに祖孫(信光)が生まれてからの第二次西上戦の従軍、戦死は当時の武人としてはかなりの高齢ということになり、その年齢に達するまで家督を譲ってない点でも不可解なものである。師行が戦死時の年齢は40代前半と説かれるものもあり、政長が兄師行の戦死により惣領を継いだことは事実としても、娘養子というのは明らかに無理のある所伝である。
 
 正平5年(1350)の譲状には「八戸、かの所は政長勲功の賞として知行せしむるを信光に譲り与うるもの也」とあるように八戸は政長が自力で与えられた所領であるのは明らかで、さらには八戸近辺に所領を持っていた工藤一族との縁故があった形跡は見当たらない。上記での押掛け婿、八戸工藤氏のエピソードの内容は当てはまらないものとなります、同じ工藤一族でも、津軽黒石地方を領していた工藤貞行の娘、加伊寿御前との関係が信憑性が高いものと思われ、加伊寿御前を妻としたのは信政ではなく政長であり年齢的にもまた情況的にもあっているものと思われます。
 
 いずれ、八戸家伝来の文書での最古のものは、有力得宗家被官であり、津軽田舎郡政所職、黒石郷地頭代であった工藤貞行から貞行の娘、加伊寿御前に宛てた工藤氏の所領を譲るとした書状であるが、(元亨3年・1323年11月3日付け)何故に八戸家に長らく伝えられていたのか、このことは政長或いは信政が工藤氏の娘と婚姻していた史実を物語るもので、政長の孫である信光に工藤氏の遺領と共に伝えられとことにより八戸家が所持していたことに他ならないと思われます。
 
 以上の点からも政長は、以前から奥州の何処かに居たこと、それは津軽に居たのではとの結論であるが、北条氏被官としての所領に兄師行と共に居たものか、または南部氏から派遣された代官として奥州に居たものと思われます。

 北奥一の弓取りと称され北朝側を苦しめた南部政長は史料による限りは大きな戦い七戦負けなしと思われ、兄師行ほどの行政手腕はないとも伝えられますが、津軽安藤氏、斯波の河村氏を南朝に誘うなど外交手腕に長け、師行戦死後は南部氏惣領を受け継ぎ北畠顕信の期待に添う活躍をみせますが、正平5年8月、その生涯を閉じております。一説には正平6年も存命ととれる所伝もありますが、正平5年8月の譲状を最後に政長に関する史料はみられませんので、おそらくは同年に没したとみるべきと思われます。

 

南部信政


 八戸南部氏の系譜・・師行→政長→信政→信光→政光・・・という系譜は通説として今なお、引用されているものであるが、ひとつの疑問がしばしば南部氏関連書籍にて指摘されてきています。それは第六代と言われる信政。師行の実弟でさらに娘婿である政長の長男とされる。しかし、第六代を継承したと所伝には伝えられているが、父である政長より七戸や八戸を譲られた様子がみられない点、さらには信政は父より先に早世したとはいえ、信政から子とされる信光等にも所領等が譲られた形跡もない。また信政の死については「建文二年死」しかし「延文」の誤記とされ、しかも北朝年号であるので、明らかに後世に書き記したもので、法号も伝えられていない。

 信政は左近将監から達智門女院右近蔵人であったのは史実で実在の人物であるにもかかわらず八戸南部の文書には極めて少ない所伝しか伝えられていない、また譲状に関しての文書も残されていない。
信政は師行戦死後、政長と共に南朝の旗を守り、上記の異色官途に推挙され、そのことから吉野に伺候し足利方と戦い楠木正行と共に討ち死にしたという伝承になっていますが、吉野に伺候していた可能性はあり得たかもしれません。信政は北畠顕家の第二次西上戦に師行と共に従軍、阿倍野の戦い後、吉野へ逃れ北畠顕信の奥州下向に付き従って奥州入りしたものか、その前後に帰還したかは不明であるが、可能性を秘めたものではないのか。

 初老に達しようとしていた師行だけを従軍させ血気の青年武将、信政が糠部に残っていたというのは、当時の習慣としては考えにくいとの考えもあります。

 奥州に帰還後は鹿角合戦にて功をあげ、北畠顕信が政長に宛てた教書には「鹿角合戦に将監忠節を致され殊に目出候」とあり、さらに興国6年(1345)に達智門女院右近蔵人に推挙、しかしどこに所領があったか、父に先立っての死、不明な点も多い。

 信政は父政長の命により、叔父であり陸奥に下向した南部宗家一族の長、師行側近くに仕え、師行亡き後も三戸辺りの叔父師行の遺領を一部預かり、父政長の下、宮方として活躍していたものと推測されますが、これから陸奥南部一族の有力後継者として活躍を期待されるも、惜しくもその命が断たれてしまったということかもしれません。
 
 信政は、系譜のいうように若くして死したことは史実としても、遠野(八戸)南部氏及び北奥羽南北朝史の謎の部分でもあり、今後の研究成果を見守りつつ、私もその系譜のさらなる調べを機会あるごとに進めて参りたいと思っております。
系図1
甲州南部一族の紛争
前記でも記していますが、奥州に下向した波木井系南部氏の他、甲州の南部領には南部宗家一族、波木井系一族など多くの南部一族が居たと思われます。
ここで紹介する紛争は、南部宗家系、二郎政行系の身内同士の紛争についてです。
上記の系図1・・三参照
二郎政行には四子があって長男時長、二男師行、三男政長が先妻の子、そして後家と入った了心尼との子、資行があって四人兄弟だったとされている。
父、政行が死去後、この四人の兄弟が遺領をめぐって争ったものです。
「目安   甲斐国南部以下所領事
訴人 南部三郎次郎 今者 刑部丞 武行
論人 南部五郎次郎 時長 又二郎師行但為宮供奉奥州下向 同 六郎政長」
訴状によると、甲州南部郷の内之村などは南部実願(時実)の所領だったものを、子の政行、宗実兄弟が争い18回の審議の後、落着してそれぞれの配分が決定、内之村は政行の分となったが、その後20年程は何事もなかったが、政行が所領の配分をしないまま死去したため、時長、師行、政長の義母、了心尼(宗実娘)が実子の資行に内之村の所領を資行に譲るため「謀書」を構えたことから、先妻の三兄弟が訴訟をおこしたというものです。
ところが、了心尼の弟、南部武行は北条幕府の実力者、長崎思元の娘婿ということで、刑部丞に任じられ幕府にも顔が利くこともあって、了心尼と資行の協力なバックになって、訴訟は三兄弟不利のまま、元弘の乱に突入、乱が終わると三兄弟は新政府へあらためて訴訟をおこし、三兄弟側が勝訴という内容です。「時長 師行 政長等申 甲斐国南部郷内之村以下地頭職事 召二出資行・・・略」源重泰奉召状
この紛争に関連する人物、武行、資行、了心尼・・等の名は八戸南部系譜にはみえません、南部氏には甲州に多くの一族が分族していたことは疑いのないことです。
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八戸王朝と菊池氏

「祐清私記」に掲載されている内容「八戸先祖破切井当国下向のこと」、簡略ながら八戸氏は天正年間に甲州から下向、八戸工藤氏の居舘を占拠し、南部晴政に謁見してその所領と認められたいう内容も存在する。
 遠野南部家文書とされる史料は、室町期初期までが南部師行や政長といわれる歴代に伝えられた文書、以降の文書は工藤八戸氏に伝えられた文書、後に天正年間に下向した一族に伝えられた文書が合体されたものとの異説も存在しております。

 この説も無視の出来ない内容が含まれているものと判断しておりますので、こちらも機会を捉えて、今後の研究課題といたします。

浪岡北畠氏

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