北奥羽中世史の疑問
八戸王朝と菊池氏
八戸王朝といわれる記述については、南部氏あるいはその他の北奥羽関連武家等の調べでは出て来ない事柄である。
我姓、菊池姓関連にて調べをすすめているうちに忽然と出てきた記述です。
2002年、秋、我姓の探求ということで菊池一族が活躍した熊本県菊池市を訪問した際、菊池神社よりいただいた資料の中に記載されている内容で、さらに工学博士菊池秀之氏著の「因縁の菊池氏」さらに同博士による菊池神社系図館建設に際して書かれた資料によるものです。
上記の資料によると、北奥羽における菊池氏の移動は、南北朝時代の前南朝期、南北朝合一前後の後南朝期とされています。
この八戸王朝からの流れとなる後世の菊池姓は、遠野(岩手県遠野市)への流入の原点という位置付けになるとの見解で、前南朝の頃ということらしい・・。

八戸王朝とは・・・
護良親王(大塔宮)の皇子、八幡丸良尹王は、北畠顕信に伴われ北畠顕家の遺児、顕成と共に海路石巻に上陸、守護する武士は菊池武敏他菊池一族、後に八戸へ移り八幡丸は八戸王朝を作る。さらに後醍醐天皇よりの白糸おどしの鎧を菊池氏に賜わり、十戸即ち遠野に移動とある八戸での庇護者は南部信成

この上記については、何を意味するのだろう・・・前頁にての「浪岡北畠氏と貴種伝説」にも何か関連がありそうな事柄でもあります。
貴種伝説では、石巻に「吉野殿」といわれる貴種、さらに八戸南部氏信光に保護されていた「船越御所・織笠御所」とよばれる貴種、さらに史料にも明らかな「少将殿・・・」の3名の客人等・・若干つじつまがあいそうな事柄もあります。
また、八戸の櫛引八幡に奉納されている甲冑のひとつ「白糸威肩赤銅丸」の存在、また最近の研究、調査による甲冑の最初の奉納者とされる菊地武義・・・菊池ではなく菊地の記述。むろん時代的には大幅のずれが生じ、九州肥後の菊池氏、菊池武義の存在も史料等により確認されるが九州における戦いで戦死といわれており、この最初の奉納者、菊地武義は誰なのかは未だ不明である。
さらに南部信成・・こちらも南部氏関連にての史料、書籍で確認はみられない、南部信光の記載間違いの可能性もあり、また信光の父と一応八戸南部所伝でいう南部信政なのかは、不明であるがどちらかである可能性は高い。
上記の八戸王朝の記述における相違点が若干みられますが、しかし何かの記憶や言い伝えを示すものとの可能性は十分秘めているのではないでしょうか。


その他に遠野の菊池氏流入については、応仁の乱後、江刺(岩手県江刺市)からの流入との説もありますが、この江刺の菊池氏の流れは菊池貞頼なる人物からはじまるともいわれており菊池系図によると菊池武敏の孫に貞頼なる人物の名がみえる。
こちらの説も南北朝後期に後亀山帝の密勅により熊野水軍によって海路石巻へ上陸、後に江刺へ至ったものとされている。

以上これらの説をまとめてみれば、南朝方の貴種等を伴い、菊池一族や北畠一族が奥州下向、特に北奥羽における菊池姓のルーツとでもとれる内容ではあります。

ただ、この八戸王朝といわれる内容については、素人ながら南部氏等の研究に若干携わる身ではありますが、初耳の事柄であり、南部氏関連の史料にて確認もできない内容となっております。
菊池秀之先生による南部氏関連の史料、所伝による事柄にての推測とも受け取れる内容でもありますが一概に否定はできないものと思われます。
今後の調査、研究により南部氏との関わりなどが明らかになることを期待するものです。
戻る
遠野南部氏トップへ
松崎じぇんごトップへ